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光差す中庭

作者: 屋久島昇

朝霧をかき分けて差し込む陽の光が、まだ湿ったレンガを淡く輝かせる。そこで働く人々の手が重なり、ひとつの空間が少しずつ形を成していく。設計図もサンプルも、やがては「暮らし」の一部となる。建築と緑が交わる中庭での静かなやり取りの中にあるのは、プロジェクトを完成させるという責任感と、いつか訪れる「誰かの日常」に寄り添いたいという優しさだ。ここに綴るのは、ふたりの専門家が向き合い、高め合いながら未来を紡いでいくヒューマンドラマである。

透は朝靄の中で目を覚ました。目覚めとともに脳裏に浮かんだのは、昨日の現場で美香と交わした何気ない一言のやりとりだった。薄く開いた窓から涼やかな空気が吹き込み、カーテンがそよいでいる。彼は胸の高鳴りを軽く押さえつつベッドから起き上がり、手早くシャツに袖を通した。


キッチンでコーヒーを淹れながら、透は改めて思った。このプロジェクトが完成したとき、日常のどこかにこの中庭の景色が溶け込んでくれる──そう考えるだけで胸が温かくなる。蒸らし終えたペーパードリップのコーヒーを口に含むと、苦味と香りがじんわりと身体に広がっていった。

透はマグカップを置き、テーブルの設計図に視線を移した。


6時50分。駅前のバス停には、まだ人影がまばらに並んでいた。透は傘をさし、雨の気配に彩られた舗道をゆっくりと歩いた。花壇の紫陽花が深い藍色に染まり、雨粒をまとって光っている。そんな美しい景色を、美香ならどんな言葉で形容するだろうかと思いを巡らせる。きっと「大人の宝石みたい」と微笑むに違いない。


バスに乗り込み、イヤフォンからはお気に入りのインストゥルメンタルが静かに流れ込む。バスに揺られながら透はスマホで現場写真をチェックし、ポケットからメモ帳を取り出して工事進捗を記録した。午前中は現場で職人たちと仕上げの最終確認、午後は施主との打ち合わせ。忙しい一日になるが、心は不思議と落ち着いている。


8時半きっかりに事務所へ戻ると、美香はモニターに向かい、レンダリング結果をプリントアウトしていた。淡いグリーンとアクセントの花色がバランスよく配置された画面を、一言も発せずに頷きながら眺める。彼女の繊細な感覚は、たとえ壁一枚隔てた隣の部屋であっても、いつも手に取るように伝わってくるのだった。


「おはようございます」

「おはよう、透くん」


ふたりの挨拶は自然で、しかしどこか特別な響きを帯びていた。朝の光がデスクの上に差し込み、ふたりの影を揺らしている。


「今日の現場確認、天気はどうだろう?」

「午後から小雨の予報みたいだけど、午前中は大丈夫そうですね」


そう答えた美香は、モニターの角度を微調整しながら続けた。

「中庭の水盤、念のため排水の確認もしておきましょうか」

「いい提案だね。竣工間際での手直しは避けたいから、事前に詰めておこう」


彼らは息の合ったチームだった。設計図と植物図鑑、コンクリートの見本と木材のサンプルが並ぶ小さな会議スペースで、最終チェックリストにチェックを入れていく。仕事に没頭する姿からは、互いへの信頼が揺るぎなく伝わってきた。


現場に着くと、大工、左官、電気工事士らがそれぞれの工程を進めていた。外壁の塗装は終わり、室内の配線チェックもほぼ完了している。中庭に向かう通路にはすでにレンガが一列ずつ丁寧に敷かれ、周囲には透が選んだ低木と美香が選んだ草花が並ぶ。午後の雨に備え、水はけのチェックを職人のひとりが行っていた。


透明なビニールシートの下で、透は水盤の縁に手を触れて、排水溝の向きや傾斜を指で確かめる。美香はコンパスと水準器を取り出し、微妙な角度調整を行った。ふたりの動きは自然で、互いに言葉を交わさずともリズムが噛み合っている。


「いい感じです。雨が降っても心配なさそうですね」

「ありがとう。これで完成が見えてきた」


そう言いながら透が微笑むと、美香の頬にもほんのりと笑みが広がった。何度も通ったこの場所が、ふたりの手で少しずつ形になっていく。植物の香りと土の匂い、作業の合間に聞こえる笑い声やハンマーの音──すべてが透の心を満たしていた。


バスの時間ぎりぎりまで現場に残り、午後いちばんに現場を離れたふたりは、事務所へ戻る道すがら小さなカフェに立ち寄った。カウンター席に座ると、美香は窓に向かって開かれた景色をじっと見つめた。


「ここから見る雨の中庭も、また雰囲気がいいかもしれませんね」

「屋根の傾斜で傘が必要な箇所はないかも確認しておこう」


透の言葉に、美香は微笑みながらコーヒーをすする。雨脚はまだ強くないが、窓越しに見える中庭の路地にはぽつぽつと水たまりができ始めていた。


夕方。施主夫妻との打ち合わせに向かう前、透は改めて準備資料を整理していた。そこでふと思い出したのは、初めて二人がこのプロジェクトで出会った日のことだ。春先の開発担当者との顔合わせで、名刺と共に渡された担当者紹介の紙に「植栽担当:美香」とだけあった。それが呼び出しの合図だった。


会議室に入ると、そこには淡い笑みで書類を手にした小柄な女性が立っていた。初対面ながら、その笑顔を見た瞬間に透は心が軽くなるのを感じた。本物のプロとだけ交わすだけで、仕事が楽しくなる──そんな予感が胸に芽生えたのだった。


カフェを出ると、夜の雨はすっかり上がっていた。舗道は鏡のように夜景を映し、ふたりの足音と傘の金具の音だけが静かに響く。打ち合わせ会場の高層マンションに到着すると、透は深呼吸をひとつかみし、エレベーターに乗り込んだ。美香も隣で同じく呼吸を整え、資料バインダーを抱え直す。


施主夫妻はすでに応接ソファで待っていた。ふたりは自然に笑顔を返し、手短に挨拶を交わす。照明に照らされた中庭のCGパースを提示し、美香の植栽プラン、透の建物完成図を並べて説明を始めた。夫妻は頷き、質問を投げかけ、ふたりは的確に答えていく。短い時間で核心をつくやり取りを終えた頃には、打ち合わせは和やかな雰囲気でまとまりを見せていた。


「本当にありがとうございます。おふたりのおかげで、完成が楽しみでなりません」

施主の言葉に、透と美香は顔を見合わせてさりげなく笑った。信頼が形になる瞬間を共有できる喜びが、胸を温かく満たしていく。


夜遅く、事務所に戻ったふたりは残務をさっと片づけ、そのまま隣接する公園へと足を延ばした。街灯に照らされたベンチに腰かけると、都会の雑踏は遠ざかり、風が葉を揺らす音だけが聞こえてくる。


「今日はお疲れさま。いい打ち合わせだったね」

透が声をかけると、美香はうなずきながらポケットから折りたたみ傘を取り出した。


「明日から本格的に仕上げですね。健康には気をつけてくださいね、私もですけど」


「心配してくれてありがとう。僕、明日の朝イチで現場に行くから、早く休まないと」


美香は透の言葉に照れくさそうに笑い、ベンチから立ち上がった。


「私も明日のプランニングに備えて、そろそろ……。そうだ、またコーヒーでも飲みに行きましょう」


透は手を差し出し、美香の手をそっと取った。夜風にそよぐ彼女の髪が、月明かりに淡く輝いている。


「うん、楽しみにしてる」


透と美香は静かな夜道を歩きながら、心地よい余韻を共有していた。立ち並ぶオフィスビルの窓に映る自分たちの姿は、どこかプロジェクトの完成予想図の一部のようにも見える。――ふたりで手がけた空間が、いずれこんなふうに人々の生活にそっと溶け込むのだろうか。


「ねえ、今日はどこまで進めた?」

と美香が訊ねる。透はポケットからスマホを取り出し、現場チームのグループチャットを開いた。


「左官さんからの報告じゃ、午前中に水盤の排水テストを完了したらしい。午後からは最終的な目地入れだって」

「じゃあ、明日の朝にはもうレンガの目地処理は終わってるわね」

「うん。そしたら植栽の最終チェックにかかれる」


ふたりの会話は自然なリズムで続き、雨上がりの夜風に溶けていく。新しい一日への期待を胸に、やがて家路へと歩みを進めた。


――翌朝。透は薄曇りの空に傘を差し、現場へ急いだ。美香は設計事務所に残り、並行して進む隣のマンション屋上庭園のプランニングを進める予定だった。連絡の行き違いを防ぐため、朝のひとときにLINEで進捗をやり取りすることにしている。


「おはよう。現場、水盤OK、目地完了。植栽は明日から」

と透が送ると、すぐに既読とともに返事が来る。


「ありがとう! そちらも安全第一でお願いしますね。夕方、進捗写真を楽しみにしています」


──やり取りのシンプルさに、ふたりの信頼関係がにじむ。美香が返信を打ち終えた頃、植栽業者からも「苗はすべて品質チェックOKでした」との報告が入り、ひと安心してメールを閉じた。


朝の風はほんのり冷たく、まるで緊張感を引き締めるようだった。美香はデスクに向かい、屋上庭園のCADデータを開いた。ここは高層マンションの最上階、都心にありながら視界は広々としている。住人が季節の移ろいを愉しむ小さなガーデンは、多彩な樹木とグラス、そして透が設計したウッドデッキが調和する予定だ。


「ここにシマトネリコを一本、大胆に配置すれば、眺めのアクセントになりますね……」

とつぶやきながら、美香はカーソルを動かして樹形を3Dで確認する。テーブルの上には先日打ち合わせでいただいたコーヒーの紙コップが置きっぱなしだが、その香りはまだほんのり漂っている。忙中にも、ふたりの時間の断片が息づいているようで、心が和む。


――夕方。透から送られてきた現場写真は、中庭に植えられた低木や草花がしっかり根付き、苔むした石壁に馴染む様子が写っていた。水盤には水が満ち、樹木の葉先に残った雨粒がきらきらと輝いている。


「素晴らしい仕上がりです……!」

美香は思わずスマホを抱きしめるようにして返信した。透からの「ありがとう。君のプランがあってこそだよ」という文字。そのシンプルな言葉だけで、美香の胸は温かく満たされた。


その夜、ふたりはオンラインで顔を見合わせながら、最後の仕上げに向けた打ち合わせを行った。画面越しに対面する二人の顔には、どこか日常を超えた親密さが漂っている。


「明日の朝、植栽チームが入って最終確認。夕方には竣工写真を撮りましょう」

と透が告げると、美香は大きく頷いた。


「ええ。そのあと、また小さな打ち上げを……コーヒーでも、いいけれど」

「それ、いいね。僕も楽しみにしてる」


打ち合わせを終えた後、それぞれパソコンを閉じながら、心地よい疲労感に包まれた。画面に映る互いの笑顔は、明日への約束となって心に刻まれる。


――翌朝。植栽チームが現場に到着すると、日差しはすでに高く、青空の片鱗がのぞいていた。透は立水栓のそばで職人たちに指示を出し、美香は鉢に収められた季節の草花を手に、植え付け位置を最終的に確認して回る。植栽が進むにつれて、中庭は生き物のように表情を変え、深い呼吸を始めるかのようだった。


昼過ぎ、透と美香はベンチでひと休みした。職人たちは周囲の掃除に取りかかり、ゴミ一つ落ちていない空間が整えられていく。


「見事だね」

透が感嘆する。美香は笑いながら、土で少し汚れた手をハンカチで拭った。


「透くんの設計あってこそ。私たちの仕事は、そのキャンバスに色をつけるイメージかな」

「君の言葉は、いつも的確で美しい」


ふたりは顔を見合わせて照れくさそうに笑った。そのやりとりに職人の一人が「お二人ともお似合いです!」と声をかけ、現場に温かな笑いが広がる。緊張の中にも和やかな連帯感が生まれていることを、ふたりは目で確かめ合った。


やがて、最後の植え付けが終わり、職人たちは足早に道具を仕舞い始めた。透と美香は足元の小さな花壇を見下ろす。そこにはチューリップとスイートピー、グリーンが調和し、春の彩りを謳歌していた。


「ここで、一杯どう?」

透がさりげなく提案し、ポケットから観葉植物柄のマグカップを取り出す。先日、美香が選んでくれたものだ。


「ありがとう。いつもの味ですね」

美香は深呼吸するようにコーヒーを一口含み、目を閉じた。


「うん……最高だ」


その瞬間、中庭の空気がふたりを祝福するかのように、風がやさしく吹き抜けた。透は美香にそっと寄り添い、ふたりは完成した空間の美しさを胸いっぱいに抱きしめた。


夕暮れ。竣工写真の撮影を終えたふたりは、空に伸びるシルエットを背に、肩を並べて歩いた。


翌朝、透はいつもの時間より少しだけ早く事務所に出社した。デスクの上には、昨日の竣工写真のデータが整頓され、外注先から届いたばかりのアルバムサンプルが並んでいる。美香はまだ到着しておらず、静かなオフィスには透のキーボードを打つ音だけが響いていた。


ふと窓の外を見ると、中庭に植えられたチューリップとスイートピーが、朝露をまとって凛と咲き誇っているのが見える。透は席を立ち、自販機で缶コーヒーを買い求めると、窓辺に腰かけてその景色をじっと見つめた。


そこへ美香が駆け込んできた。カバンから資料を取り出しながら息を整え、「おはようございます!」と明るく声をかける。透は振り返ってにっこり微笑んだ。


「おはよう。もう次の打ち合わせの準備してる?」

「ええ、今日は新しいプロジェクトの共有会です。先方は都市環境保全に詳しいNPOさんで、屋上庭園を核にコミュニティスペースを作りたいそうなんです」


美香が渡した資料には、ビル最上階の空撮写真や防水構造図、現地のヒアリング記録がぎっしり詰まっている。透はそれを見ながら頷き、「いい着眼点だね。前回の経験がきっと活きる」と応じる。


共有会では、NPOの代表や自治体の担当者が集まり、熱意溢れるディスカッションが交わされた。透はふたりで準備したスケッチをスクリーンに映し出しながら、屋上の景観と持続可能な緑地活用のビジョンを語る。美香は周囲から寄せられる質問に丁寧に答え、都市住民の「もうひとつの居場所」を形にする提案をサポートした。


会が終わる頃には、先方から「ぜひお願いしたい」という承認を得ることができた。透と美香は顔を見合わせ、ほっと肩を寄せ合った。


昼下がり。事務所を出たふたりは、打ち合わせ先近くの小さなカフェへ向かった。陽射しは柔らかく、テラス席からはビルの屋上を見上げることができる。カフェラテとミントティーを注文し、静かな午後のひとときを共有する。


「屋上の植物は、どうしようか」

美香が問いかけると、透はスケッチブックを開き、昨夜思いついたプランを描きはじめた。透のペン先から紡ぎ出される曲線は、屋上に広がる緑地群とウッドデッキ、そして小さな木陰のシェルターを示している。


「ここに低木を配置して、視線を遮りながらも視界を開放する感じで」

「観葉植物もミックスすれば、四季折々の変化を楽しめる」


ふたりのアイデアは次々と膨らみ、テーブルの上の紙ナプキンさえも、構想の一端となった。


帰り道、ふたりは並んで歩きながら、互いに手をそっと重ねた。新しいプロジェクトは、これまで築いてきた信頼と情熱をさらに深めるための大切な一歩になる――そんな予感に満ちていた。


夕暮れの街並みを背に、透と美香は再び歩き出す。手のひらを通じて伝わる温もりが、ふたりの未来をほんのりと照らしている。新しい物語が、また静かに動き始めていた。

設計書とプランニング資料はファイルに収められ、現場に馴染んだ緑はやがて季節を映す鏡となる。透と美香が手を取り合ったその日々は、一過性の仕事の記録ではなく、人と場所を結ぶ小さな奇跡の連なりだった。ふたりが次に描くスケッチは、また新しい居場所を求める誰かの笑顔と重なっていくはずだ。ページを閉じた後も、この中庭が刻んだ光と影の物語は、訪れる人々の記憶にそっと残り続けるだろう。

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