第7話「静止惑星と、動かない時計」
宇宙の果て、地図にすら載らないような辺境の空間に、それは浮かんでいた。
ひとつの惑星。
直径は月とほぼ同じだが、地表は半分が氷、半分が砂漠という奇妙な構造をしている。
その理由は明白だった。
重力異常。
この惑星は自転が停止している。
ただし、正確には「止まっているように見える」だけで、極限まで遅いスピードで回転していた。
そのせいで、昼と夜が数年単位で移り変わり、昼側は灼熱、夜側は極寒となる。
そして、観測データによれば、“時間の流れそのものも”微妙に歪んでいる。
そんな場所に、シーナは今、降り立っていた。
「……あーあ。なんでまた、こんなところに“時計の修理依頼”よ?」
薄茶色の砂が風に舞う。
スーツのフェイスガード越しに、遠くそびえる塔が見えた。
古い建築様式の石造りの塔。その頂上に、ぽつんとアナログの巨大な文字盤がはめ込まれている。
あれが、“止まった時計”。
「ロマンのつもり? いいえ、ただのめんどくさい仕事よ……はあ……」
ぶつぶつ言いながらも、ブーツを鳴らして歩くシーナ。
こういうとき、彼女の本心は大抵“逆”だった。
塔の入り口に着くと、意外にも扉は開いていた。
自動制御ではない、手動式の重い金属扉。押すと、錆びた蝶番がギィ……と音を立てて開いた。
中には、ただひとりの人影があった。
白髪まじりの長髪を後ろで束ね、細身のコートを着た男。
背筋は伸びているが、動きは緩慢で、時間に取り残されたような雰囲気をまとっていた。
「ようこそ、修理屋さん。遠いところを、わざわざどうも」
「アンタが依頼主? ……こんな場所に、物好きもいたもんね」
「物好きでないと、時計なんて直そうとは思わない。まして、こんな世界の端で止まったものなんて」
男はそう言って、軽く微笑んだ。
シーナは腕を組んだまま、塔の天井を見上げる。
「それで、止まったのはいつ? ついさっき?」
「――十五年前」
その答えに、彼女の目が細くなった。
「……ずいぶん放っといたのね。じゃあ、なんで今さら?」
男は、ポケットから懐中時計を取り出し、カチ、と開いた。
中の針も、止まったまま。
「“止まっていた方が楽”だったからさ。
でも最近、“動かないこと”が、少しだけ怖くなってきたんだ」
――そして、時計の修理が始まる。
だがそれは、ただの歯車の問題ではなかった。
この惑星の“歪んだ時間”と、“止まった記憶”をほどく、旅のような作業だった。
* * *
塔の内部は、驚くほど静かだった。
足元には古びた階段が螺旋状に続き、壁面にはいくつかの機械制御の端末や観測装置が設置されている。
それらはすべて停止していた。まるでこの場所が、ひとつの“時の墓標”であるかのように。
「……埃まみれ、湿度高め。最低のコンディションね」
シーナはブーツの先で床を軽く蹴りながら、塔の中央制御ユニットに歩み寄る。
起動ボタンを押すと、数秒の沈黙のあと、機械が唸るような音を上げて点灯した。
【TOWER CLOCK CONTROL SYSTEM】
▶ 状態:時刻同期エラー
▶ 原因:重力波干渉/物理駆動部停止/機械式誤差累積
「……時間が狂ってる、ね。そりゃそうでしょ、こんな場所だもの」
この惑星では、重力波の異常で地表にいるだけでも体内時計が乱れるという。
当然、機械式の時計など、何年も狂いっぱなしに決まっている。
「物理部の損耗、軸ズレ、潤滑不良……あとは、駆動輪そのものがダメになってるかもね。
でも――直せるわ」
問題はもう一つ。
時計が狂っているだけなら、ただの調整で済む。
けれど、“止まってしまった”理由は、それとは別にある。
塔の最上部へと続く階段を上りながら、シーナはふと足を止めた。
……空気が違う。重い。まるで、空間ごと“古びて”いるような感覚。
最上階、巨大な機械式クロノメーターが姿を現す。
歯車の群れと、鎖でつながれた錘。そして針。
そのどれもが、まるで“凍っている”ように見えた。
「やっぱり、おかしいわね……」
シーナは工具ケースを開くと、ゆっくりと懐中のランプを取り出した。
小さな光が、止まった針を照らす。
そして、そこに“記録”が刻まれているのに気づいた。
針の根元に、ひとつの手書きの印字。
【この時を、忘れないために。】
「……ああ、そういうこと」
止まったのは、故障なんかじゃない。
“止めた”んだ、この時間を。誰かが、何かを忘れたくなくて。
* * *
「――そう。それは“壊れた”んじゃない。あえて“止めた”んだ」
シーナがクロノメーターの裏側に手を伸ばしていると、階段の下から声が届いた。
あの男――依頼主が、ゆっくりと上がってきていた。
肩で息をしながらも、その表情には静かな決意のようなものが浮かんでいる。
「君は気づいたんだね。どうしてこの時計が止まったのか」
「まあね。“職業柄”、時間ってやつには少し敏感なの」
シーナは振り返らず、作業を止めない。
「……で、その時刻、“止めた”理由は?」
男は無言のまま、塔の天窓を見上げる。
透き通った空には、星も太陽も見えない。ただ、薄い赤みが空を包んでいるだけだった。
「十五年前、この時計は、私と彼女が最後に見た“時間”だった。
彼女は……この塔の管理技師でね。私のパートナーだった」
その言葉に、シーナは小さく目を伏せた。
「技師だった彼女は、惑星の重力波異常を解析していて、ある日、急激な時空の歪みに巻き込まれた。
――戻らなかった。
痕跡も、遺体も、何もなかった。ただ、観測機のログに残っていたのは、“あの時刻”だけ」
男の声が、ほんのわずか震えた。
「だから私は、この時計を止めたんだ。
彼女がいた最後の“瞬間”を、忘れないように。……彼女の気配が、まだそこに残っているような気がして」
シーナは、しばらく無言だった。
だがやがて、ゆっくりと立ち上がると、工具を握り直して言った。
「……気持ちはわかる。
けど、それじゃ時計じゃない。“記憶の箱”でしかない」
「それでもいいんだ。止まったままでも、構わない。私はそれを――」
「でもね」
シーナが男の言葉を遮った。
「“動いてる”からこそ、時計なのよ。
“記憶”を抱えながら、それでも先へ進むっていう意思の象徴。
私は修理屋。壊れたものを、動かすのが仕事。
あなたの気持ちまで“修理”するつもりはない。けど……」
彼女は最後のネジを締めると、錘の位置を調整し、懐中クロノをちらりと見た。
「――この塔の時間、再起動するわよ」
パチン。
スイッチが入れられた。
重たい鎖がゆっくりと動き、軋むようにして巨大な歯車がかみ合い始める。
時計塔の長針が、十五年ぶりに――動いた。
* * *
――カチ。カチ。
塔の中に響くのは、久しく聞かれなかった音。
金属の針が刻む、わずかにずれた時の音色。
それはまるで、静まり返っていた空間に呼吸が戻ったかのようだった。
「……動いた……」
男は呟くように言った。
その声音には、驚きというよりも、何かを見送った後のような、静かな余韻があった。
「ほんとに、動くんだな。あの時から、ずっと止まっていたのに。
……何年も、毎日見てきたはずなのに」
シーナは腕を組み、やや肩をすくめた。
「そりゃあね。直せば動くわよ。私はそういう仕事してるから」
「……ありがとう」
その言葉は、ごく小さく、しかし確かな熱を持っていた。
ふと、塔の窓の外に目を向けると、遠くの空がわずかに明るくなり始めていた。
赤みがかった空に、淡い金色の光が差し込む。
「もうすぐ、このエリアにも“朝”が来るな」
男のつぶやきに、シーナは少しだけ目を細めた。
「長かった夜が、ようやく終わるのかもね。
……あんた自身にとっても」
男はそれには答えず、ただ黙って時計の音に耳を澄ませていた。
塔の針は、ゆっくりと、けれど確実に回っていた。
止まっていた時間が、また動き出したのだ。
しばらくの静寂の後、シーナが口を開く。
「メイン駆動部の調整は完了。歯車は一部摩耗してたけど、交換せずに済んだ。
制御系の干渉も軽度。たぶんこのまましばらくは動くはず。
ただし、次に止まったらもう交換部品はないわよ。あんたが手入れするの、忘れないことね」
「……それも、彼女がやっていたからな。任せきりだった」
「じゃあ今度は、あんたの番ってわけ。責任ってやつ、果たしなさいよ」
そう言って、彼女は塔の中央のスイッチを切り、制御盤を保護ケースに戻した。
すべての作業が終わったとき、男は言った。
「シーナさん。……もし、あの人がいたら、あなたにどんな言葉をかけたと思う?」
シーナはふっと笑った。
「そうね……“文句ばっかり言うくせに、ちゃんと直してくれるのね”とか?」
「はは、それは彼女らしい」
二人の笑い声が、重たい時間の隙間に、やわらかく溶け込んでいった。
* * *
作業を終えたシーナは、工具箱の蓋を閉めながら塔の下階へと降り始めた。
依頼主の男――グレンも、その後ろを静かに追う。
時計塔を出た頃には、空の赤みはさらに薄れ、砂地の上にやわらかな影が伸びていた。
「そういえば」とグレンが言った。
「君に、見せたいものがあったんだ」
塔のすぐ脇にある、小さな石造りの建物。
元は観測所か倉庫のようだったその中に、ひとつの端末が設置されていた。
「これは、彼女が遺したデータログだ。
時間歪曲の記録や観測記録に混じって、個人的なメッセージもいくつか残っている」
そう言って、グレンは小さなHDDサイズのメモリを取り出す。
接続すると、モニターに古いUIが表示された。
【PRIVATE:AURIA】
▶ Message_001
▶ Message_002
▶ …
▶ Message_014(最終)
彼はしばらく迷ってから、最終メッセージを開いた。
《――もし、これをあなたが聞いているなら。》
女の声だった。柔らかく、少しだけ笑っているような、どこか懐かしさのにじむ声。
《私が帰れなかったとしても、あなたには“時間”がある。
私たちの過ごした日々は、あの時計の中に残ってる。
でもね、それだけじゃだめ。止まっていたら、きっと、私もあなたも取り残されちゃう。》
《だから……お願い。時計を動かして。
それは、私が生きていたっていう証。
そして、あなたがこれからも生きていくっていう、証明。》
グレンの目元に、わずかな影が差した。
その隣でシーナは腕を組み、そっぽを向いたまま、ぽつりと呟いた。
「……修理依頼じゃなくて、“遺言”だったってわけね」
「……ああ。あの時計を動かすことが、彼女との約束だったのかもしれない」
画面の最後には、文字が一行だけ残されていた。
【あなたが“時”を動かすたび、私はきっと笑っているから】
シーナは何も言わず、そっとモニターを閉じた。
グレンも、ただ静かに立ち尽くしていた。
* * *
《グリモア号》の格納庫に戻ると、シーナはブーツを脱ぎ捨て、片手で髪をかき上げた。
長時間の作業にしては顔色も悪くない。けれど、目だけが、ほんのわずか曇っていた。
彼女はモニターにアクセスし、修理完了報告をまとめる。
【依頼完了:クロノメーター再稼働】
【備考:異常なし。記録媒体の保存確認】
【依頼人:グレン・リース】
【評価:☆5】
画面右下の送信ボタンを押したとき、ふいに通信が鳴った。
「……シーナさん。こちら、グレン」
「なによ、まだ追加料金払いたいって?」
「あはは……いや、その、ありがとうを言い忘れてた」
少し気恥ずかしそうな声音。
先ほどまでの抑えた調子とは違う、どこか晴れた声だった。
「時計が動き始めたら、不思議なもんだね。
自分の体の中の“何か”も、いっしょに動き始めたような気がしてさ。
……これからは、きちんと“今”を生きてみるよ」
シーナは、しばらく無言だった。
モニターに映るのは、まだ砂風が舞う惑星の空。
だけど、その奥には、確かに何かが動き始めているようにも見えた。
「ま、たまにはいい仕事したって思える案件だったわよ。……気が変わらないうちに、ね」
「うん。……ありがとう、シーナさん。ほんとに」
通信が切れる。
その瞬間、船内に静寂が戻った。
けれど、どこかに、柔らかな時の音が鳴っている気がした。
シーナは椅子にどさっと座り、天井を仰いだ。
「止まったままの記憶なんて、どこにでもある。
でも、それを動かすのが、あたしの役目ってわけ……か」
工具箱の蓋を、ぱちんと閉じる。
その手つきは、どこか優しげだった。
* * *
《グリモア号》のエンジンが、低く唸るように震えた。
シーナは操縦席に腰を下ろし、古びたレバーを軽く引く。
航行ラインは、未登録の小惑星帯の向こうへ。次の依頼のある宙域へと延びていた。
「さて……次は、どこの誰の“やらかし”かしらね」
口の端にうっすらと笑みを浮かべながらも、目は真剣そのもの。
モニターに浮かび上がった通信ログに、最後にひとこと付け加える。
【※備考:止めた時間も、直せる時がある】
送信ボタンを押すと、ログは中央記録局に転送された。
やがてそれは、辺境の整備士たちや技術者ネットに共有され、どこかで誰かの目に触れるかもしれない。
時計塔のあった惑星が、遠ざかる。
だが、そこの空には確かに、針の音が響いていた。
グレンの暮らす基地にも、少しずつ朝が満ちていく。
止まっていた時間が、誰かの中で動き出すように。
「……よし、次」
通信機が再び光り、別の依頼が届く。
【対象物:記憶装置/分類:外部感覚補助デバイス】
【依頼者:匿名/場所:オルド軌道層 第七リング】
「ったく……変なモンばっかり壊すんだから。
ま、いいけどね。どうせ直すのは、あたしなんだから」
ブーツを机に乗せ、冷めかけたカフェイン錠剤入りの炭酸水を口に含む。
宇宙は広い。壊れるものは、無数にある。
でも、それを直せるのは――気難しくて、文句ばかり言って、それでも最後には必ず手を動かす彼女だけだ。
修理屋。銀河をゆく、唯一無二の“時の職人”。
船が、音もなく空間を滑っていった。