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第9話 暴露の狼煙

 王宮の回廊を不安な足音が行き交うようになったのは、ある朝早い時間のことだった。普段ならば清掃係が静かに掃き出しを行っているだけの廊下に、なぜか複数の役人や衛士、さらには高位貴族の従者までが集まり、小声で議論を交わしている。

 そんな異様な雰囲気の原因は――大理石の床にいくつもの紙片が散乱している光景だった。どれも薄手の書類で、ところどころに書名や日付、取引額を示す数字が見られる。乱雑にばら撒かれているため内容をひと目で把握するのは難しいが、拾い集めた者たちの表情は青ざめるばかりだ。

 当初は「誰かの落とし物か」という声もあったが、次第に事の重大さに気づく者が出始めた。紙片を手に取った下級役人は震える声で囁く。「これは……まさか、殿下や高位貴族が私的に交わしていた密約の書類、ではありませんか……」と。

 それだけではない。宮殿の別の場所、例えば控え室や庭園、さらには夜間の書類保管室の前にも同様の紙が投げ捨てられるように置かれていた。まるで一夜のうちに誰かが王宮内を歩き回り、故意に証拠を書き散らしていったかのようだ。ある場所では封筒にまとめられて置かれており、そこには「貴方方が行いし闇取引は、すでに天下に知れ渡る寸前だ」という挑発めいた文言まで添えられていた。


 当然、これは何らかの工作に違いない――王太子ルシアンやその取り巻きたちは、朝一番から召集された会議の席でその認識を共有していた。窓を閉め切った会議室の中では、彼らの声が怒りと動揺で揺らぐ。

「あり得ん……どうしてこんな具体的な書類が外部に漏れた? まさか一部の商人との取り決めにここまで踏み込んだ内容が書かれているとは!」

「おそらく、我々の中に裏切り者がいるのだろう! 敵対する派閥に手を回したとしか考えられない!」

 貴族の一人が拳を机に叩きつけるようにして抗議すれば、別の者は必死に書類を引ったくって確認を重ねる。書類の内容は、王太子派の要人たちが関わる物資の横流しや、密輸の報酬明細など、表沙汰になれば言い訳のしようがない不正ばかり。しかも、差出人名がはっきりと書かれたものまであり、これが証拠力を持って流布されれば、王太子派の威信が大きく揺らぐのは間違いなかった。


 その中心にいるルシアンは、怒りを抑え込もうとするあまり、むしろ冷えた眼差しを漂わせている。紙片をそっと拾い上げ、そこに書かれた日付と金額を眺めると、記憶と確かに一致する取引が頭をかすめた。まさか完全に隠蔽されたはずの裏取引が、これほど大量に露出するとは考えもしなかったのだろう。

「……これは、誰の仕業だ。まさか、公爵家か?」

 ルシアンの問いかけに、一同は顔を見合わせる。公爵レオポルトが暴露に及んだ可能性は十分にあると考えていたが、一方で彼の地位も急激に落ちている状態で、ここまで大胆な手段を取るだけの余裕があるのか疑問視する者もいた。

「では、クララ殿が裏で動いたというのか? しかし、彼女にそこまでの影響力は……」

「そうとも限らん。いずれにしても、我々にとって都合の悪い証拠が集中的に狙われたのは確かだ。裏切り者が内部にいて、情報を流したのかもしれない」

 まるで、暗闇で敵の弓を受けているような錯覚に陥りそうなほど、彼らは疑心暗鬼に陥っていた。


 やがて、王太子派の会議は緊急対応を決めるために二手に分かれる。発見された証拠を速やかに回収し、かつ情報拡散を封じ込めるべく動くグループ。そして、流出した真犯人を突き止めるためにあらゆる手段を用いるグループだ。どちらにしても王宮内は騒然とし、あちこちで「書類を隠せ」「回収できなかったものは燃やせ」と喧噪が生じ始める。

 しかし、既に多くの書類は臣下や下級役人の手に渡り、一部は口止めされる前に外部へ持ち出された可能性も高い。朝から動き回っていた役人の中には、面白半分で内容を盗み見てしまった者もおり、同僚同士で噂を交わすことも止められない。

 例えば、ある庭園の噴水脇で、若い兵士が拾い上げた紙を仲間と共有していた。その紙には「殿下の特別口座へ振り込まれた銀貨数箱分の記録」が書かれており、暗に妾の維持費に使われていると示唆する一文すら含まれていた。兵士たちはそれが世に広まる悪影響を考え、慌てて周囲を見回すが、既にほかの者も似たような文書を手にしている。収拾がつかないと察した時には、宮廷内のありとあらゆる場所で同じような混乱が起きていた。


 この事態を遠巻きに見つめる一人の女性がいた。厚手のヴェールを下ろして顔を隠しながら、王宮の正門近くに停めた馬車の窓から様子を伺っている。もちろん、その素顔はエレオノーラ・ローゼンハイムだ。

 彼女は朝のうちから配下を潜り込ませており、書類が王宮各所にばら撒かれ、貴族や役人が大騒ぎする姿を淡々と確認していた。取り巻きの一人が小声で報告する。「思った以上に混乱していますね」と。

 エレオノーラは軽く笑みを洩らす。


「当然よ。用意した資料はほんの一部とはいえ、殿下や取り巻きの不正を裏付けるものばかりだからね。あの人たちは疑心暗鬼になり、いずれ内部で責任の擦り合いが始まるでしょう」


 その声音はさして高揚しているわけではない。むしろ淡々と情勢を分析しているように見えるが、その瞳には確信めいた光が宿っていた。やがて、馬車の側に控えている青年が、次なる段取りを尋ねる。

「これで彼らは大きく揺らぐはずです。次は、公爵家の闇も同時に示唆されるのでしょうか?」

「ええ。まだ時期尚早だけれど、ゆくゆくは公爵派も同様に追い詰めるつもり。あちらもわたくしを利用する道具としか思っていないのだもの。等しく痛手を負うべきですわ」


 そう言い残すと、エレオノーラは馬車の窓を閉め、御者に合図を送る。緩やかに動き出した馬車は、宮廷の騒ぎを他人事のように背にして街路へと消えていく。まだ一回目の暴露にすぎないにもかかわらず、この混乱を目の当たりにすれば、先行きの波乱を感じ取らない者はいないだろう。

 宮廷に戻ることのできない立場になった彼女だからこそ、思う存分に外から攻め立てる――まさにその構図が出来上がりつつあった。


 王宮の大広間では、やがて臨時の集会が開かれ、王太子の名代として数名の貴族が釈明と報告を始める。しかし、堂々とした態度を装う彼らの裏では、先ほどまでの大慌てな姿が透けて見えるように、話がかみ合わない。真偽を確認する術もないまま、互いに疑惑を投げつけ合い、集会は一向にまとまらない。

「一体、誰がこんな書類を手に入れたんだ!」

「殿下への誹謗中傷だとするには、あまりにも具体的すぎる……。もしかすると公爵家だけでなく、別の派閥も絡んでいるのか?」

 挙げ句の果てには、公爵家がなりふり構わず潰しにきているのではないか、あるいはかねてよりルシアンに反感を抱く地方貴族が動いているのでは、といった憶測が交錯する。誰が敵で誰が味方かすら、もはやわからない。


 この光景を見聞きした王宮の衛士長や一部の官吏たちは、明らかに状況の深刻さを感じ取っていた。これほどの混乱が公然化すれば、いずれ王家全体の信用が揺らぎ、民衆へ不信感が広がる可能性が高い。わずかな火種が、やがて暴動や反乱へと発展する危険すらあるのだ。

 それだけに、王太子派は情報を封じ込めようと必死で書類を探し回り、ひとたび見つければ即座に焼き捨てようとする。だが、エレオノーラ側が周到に複写を用意している以上、いくら表向きに隠蔽を図っても完全には抑えきれない。

 数枚の文書が、王都の新聞記者へと流れたという話も一部で囁かれ始めている。もしそれが新聞に掲載されれば、宮廷内部のスキャンダルが一気に大衆に知れ渡ることになる。大臣や有力貴族たちは危機感を募らせ、どうにか手を打とうとするが、誰がどこまで書類を拡散しているのかさえわからない。


 薄暗くなり始めた夕刻、王太子ルシアンは宮廷の奥深くにある一室で、苛立ちを露わにしていた。側近を交えた緊急対策会合でも、効果的な方策は見つからないまま時間だけが過ぎている。

「……結局、内部から漏れたのか、外から侵入されたのか。あるいは、その両方か。何にせよ、これがほんの序の口で終わるとは考えにくい」

「はい。さらに証拠が流出すれば、我々の関係は取り返しがつかないほど悪化します。どうか暫定的な手段として、厳戒態勢を敷くことを……」

 側近が提案を終えぬうちに、ルシアンは苛立った声で遮る。


「厳戒態勢を敷いても、すでに外へ漏れた分は止められない。逆に、誰も信用できない状況になるだけだ……くそっ……」


 机に握り拳を落とす衝撃音が部屋に響く。王太子派にとって、これは未曾有の危機だ。しかも、犯人を疑おうにも候補が多すぎて絞り込みが難しい。まさか、失脚したはずのあの娘がここまで手の込んだ工作を仕掛けているなど、ルシアン自身も半分しか信じていない――しかし、少なくとも可能性の一つには浮かんでいるはずだ。


 その頃、王宮から少し離れた街道を、エレオノーラの馬車は静かに進んでいた。車内で、彼女は付き従う召使いに顔を見せぬまま、遠く後方に霞む王宮の尖塔を一瞥する。

「どうやら、第一弾は成功したようですね。王太子派が苦しんでいることは間違いありません」

 召使いが緊張した面持ちで告げると、エレオノーラはわずかに唇を歪める。

「ええ、まだ始まったばかり。慌てふためいている姿を見ると、王宮の中で責任の擦り付け合いが始まったでしょうね。さて、次はどの書類を使おうかしら」


 彼女の瞳には、確かな勝算と、さらに深い計略がかいま見える。まるで断罪を受けて追われる身となった今こそ、自分の思い通りに世界を動かすと宣言しているかのようだ。

 一方、宮廷の廊下では、噂を聞きつけた貴族たちが、紙片を拾った者から情報を得ようと詰め寄る場面があちらこちらで見られる。皆、自分に関わる記載があるのではないかと怯え、その裏で誰が一体こんなことを仕組んだのか、翻弄され続けていた。

 当然ながら、これがエレオノーラの計画のほんの一端にすぎないことを、彼らはまだ理解していない。次々と投じられる暴露の種が、やがて王国全体を揺るがす波紋を広げていく――その予感は確実に高まっていた。


 こうして、闇に隠されていた不正が一部だけ明るみに出たことにより、王太子派は致命的な一撃を受けかねない窮地に立たされる。そして、公爵家もまた立場が不安定なまま、いつ自分たちが同様に狙われるかと戦々恐々としている。何より、誰が仕掛けたのかを突き止められない以上、疑惑と不和は増すばかりだ。

 遠い空を仰ぐかのように、エレオノーラはひっそりと笑みを浮かべる。まだ第一の口火が切られたばかり。だが、まさにこの火種が大きな炎へと育っていくことを、彼女は誰よりも確信していた。

 馬車の窓越しに見える夕空は、鮮やかな茜色に染まっている。まるで、これから広がる混乱と破滅を暗示するかのように。エレオノーラの心中には、静かな高揚とともに「先は長い」という思いが揺れ続けていた。まだこれで終わるはずがない――本当の崩壊は、この先のさらなる暴露の先にこそ待ち受けているのだから。

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