第8話 すれ違う思惑
王宮の一角にある大理石の回廊を、レオポルト・ローゼンハイムは早足で進んでいた。豪奢なカーペットに沈む足取りとは裏腹に、表情には焦燥が見え隠れする。かつては王家との緊密な繋がりを誇りとしてきた公爵であっても、今や足元が揺らいでいることを当人が最も痛感していた。
王太子ルシアンとの面会を求めたが、宰相付きの官吏からは一向に肯定的な返事が来ない。以前ならば、レオポルトの威光によってすぐに案内されたはずだ。だが、今となっては塩対応が続くばかりで、まともな話し合いの場にさえ辿り着けない状況が続いている。
ようやく取り次ぎを得られたと思ったら、部屋の扉を開ける前に待ったがかかる。呼び止めたのは王太子派の有力者たちの一人だ。派手な勲章を胸に下げた壮年の男であり、近頃はルシアンに肩入れしているという噂が盛んに流れていた。
その男は、さも申し訳なさそうに告げる。
「公爵殿、殿下はお忙しいご様子です。本日の面会は難しいかと……」
「わたしは、殿下と緊急の要件があると伝えたはずだぞ」
「ええ、そのようにお伝えいたしました。しかし、折悪しく王家の会議が立て込んでおりまして。近々、こちらから改めて日程を調整いたしますので、どうか本日はお引き取りいただければ」
角張った口調とは裏腹に、その目は冷たく光り、取り付く島のなさを物語っている。かつては公爵の顔を見るなり慌てて平伏していたはずの輩が、いまや堂々とした態度で通せんぼうしてくるのだ。
レオポルトは奥歯を噛み締め、ぐっと睨みつけたが、相手は微塵もひるむ様子を見せない。むしろ、背後に控える衛士たちまでもが暗黙の圧力をかけるように立ち位置を変えはじめる。
これ以上押し通っても無駄だと判断したレオポルトは、唇を歪めて踵を返した。胸の内には怒りと焦りが混ざり合ったような感情が渦巻く。王太子への接近すら拒まれた今、公爵家の未来をどう取り繕えばいいのか――答えは見えていない。
足早に王宮を後にすると、公爵家の馬車が待機していた。従者が扉を開けるも、レオポルトの苛立ちは収まらず、無言のまま馬車に乗り込む。大柄な体をドスンと背もたれに預け、苛立たしげに窓の外を見やる。
馬車が動き出すと、同乗していた取り巻きの一人が気遣わしげに声をかける。
「公爵、王太子派は随分と公爵家を遠ざける方針のようですね。さきほど別の貴族からも、殿下はエレオノーラ様の処遇を固く拒み、我々との和解を望まぬ姿勢だと……」
「わたしと娘を同じ土俵に並べるな。もともとあれは、わたしが殿下との仲を取り持つための道具にすぎなかったのだ!」
声を荒らげた直後、レオポルトは自分でも少し言い過ぎたかと思った。しかし、苛立ちはそれを上回る。娘の振る舞いが王太子に嫌悪され、結果として婚約が破棄された今、公爵家が大幅に不利な立場に陥っているのは事実だ。
王太子からしてみれば、エレオノーラの失墜は公爵家をも牽制する一手となった。あの娘を挟んで無理に取り結ぶ必要などないと判断しているのだろう。裏を返せば、レオポルトの求める交渉の場さえ設ける気がないということでもある。
馬車が公爵家邸内の門をくぐる頃には、レオポルトの機嫌は最悪の域に達していた。使用人たちが顔をこわばらせて迎えるが、彼の目は屋敷の奥を探すように急ぎ足で廊下を進む。
「エレオノーラはどこだ。まさかまた、あの小さな屋敷に籠もっているわけではないだろうな!」
近くに控えていた執事が、仕方なさそうに応じる。
「すでに出かけた様子です。詳細はわかりかねますが、使用人の話では、今は私邸を拠点にしているとのことで……」
「私邸? よかろう、ならばそこへ呼びつけろ! わたしと直接話をさせろと言っているのだ!」
執事はうろたえながらも、すぐに伝令を飛ばす段取りを整える。レオポルトは苛立ちを抑えられないまま、自室へと向かった。
――翌日。
朝早くに取り巻きが耳打ちしてくる情報によれば、どうにかエレオノーラを公爵家の屋敷へ呼び戻せそうだという。レオポルトは書斎に陣取り、荒れた心を抑えながら娘の到着を待った。
ややあって、静かな足音が廊下から近づき、扉がそっと開く。エレオノーラは黒いドレスに身を包み、まるで公爵家の輝きを放棄したかのような落ち着いた佇まいで立っていた。
その姿を見た瞬間、レオポルトの胸には怒りが再燃する。娘の物腰はどこまでも平然としており、自分が抱える焦燥に頓着する気配がないように見えたからだ。
「随分と気ままに動き回っているな。わたしが殿下との交渉を急いでいるというのに、おまえは何をしているのだ」
言葉を投げつけると、エレオノーラは小さく息を吐き、微かに視線を逸らした。
「何をしているか……さあ、わたくしはもう婚約者でも何でもありません。父上のために働く義務などないはずですわ」
「おまえ……!」
レオポルトは拳を強く握り締め、机に叩きつける衝動を必死にこらえる。だが、声には激しい怒気が滲んだ。
「おまえの一件が原因で、公爵家の信用は落ち込んでいるのだ。わたしがどれほど殿下に尽くしてきたかも台無しだ。なのに、おまえは知らぬ顔か!」
「知っております。もちろん、わたくしの破談による損失が父上にとってどれほどの痛手かは。けれど、今さら謝罪して婚約を戻してもらえるわけでもないでしょう?」
その冷めた言葉に、レオポルトは苛立ちをさらに募らせた。公爵としての矜持が砕かれかけている今、娘の協力がなければ事態を立て直すのは難しい――否、逆に娘が再び頭を下げれば、まだ望みもあるかもしれないと考えていたのだ。
しかし、エレオノーラにそうするつもりは微塵もない。それどころか、彼女の瞳にはすでに“公爵家の存続”といった概念が存在しないかのように見える。
「おまえはローゼンハイム家の娘だ。家に仇なすような行為を続ければ、自分自身の首を絞めることになると、なぜわからん」
「父上が誇りに思う、このローゼンハイム家とやらを守るために、わたくしはどれほどの犠牲を強いられてきたのでしょうね。それでも、父上は自分の地位が揺らげば、すぐにわたくしを厄介者扱いする。そういう意味では、何も変わりませんわ」
言葉こそ穏やかだが、エレオノーラの態度は挑発的にすら映る。レオポルトは唇を震わせ、声を張り上げる。
「今はそう言っていられるが、おまえが父であるわたしを見下ろして得をすることなど何ひとつない! 殿下やクララのような連中が台頭してきた以上、公爵家を一度失墜させてしまえば、立ち直ることは難しいのだぞ。そうなれば、おまえも二度と貴族としての立場は取り戻せなくなる!」
「失墜しても、かまわないのではないですか?」
エレオノーラは静かに言い放つ。その言葉には、貴族社会に対する諦めにも似た響きがある。レオポルトはあまりの冷淡さに眩暈を覚え、机をどんと叩いた。
「何を言い出すかと思えば……おまえはどこまでも愚かになったのか! まさか本気で、この家を潰すつもりではあるまいな。おまえが今すぐ殿下に跪いて許しを請え! そうすれば、まだ打つ手は残っているはずだ!」
だが、エレオノーラはまったく動じない。わずかに口元を緩め、まるで遠い国の話を聞くかのように父を眺めている。公爵である父から見れば、この態度は憤り以外の何ものでもないだろう。
「父上が思うほど、殿下は甘くはないと思いますが。それとも、あの人がわたくしを助ける理由が何かあるとでも?」
「……おまえ……いい加減にしろ……!」
「お断りします。わたくしに跪かせたいのなら、まずご自身が頭を下げて、娘に慈悲を乞うてみてはいかが? とはいえ、そんな日が来るとは思えませんけれど」
その冷ややかな口調は、もはや敵対宣言に等しい。レオポルトは己の感情をどう処理すればいいのかわからず、握り拳を震わせながら娘の顔を凝視する。そこにあるのは、親への畏怖や後悔などではなく、はるかに冷酷な決意の色。
もしかすると、エレオノーラは本気で公爵家を見捨てるつもりなのかもしれない――レオポルトはその思考が頭をかすめるも、どうして娘がそこまで刃を向けるのか理解できないでいた。
「いいだろう、おまえがそこまで言うのなら、もう二度とこの家の敷居を跨ぐな。今のわたしには、おまえを抱え込んでいる余裕などない。……二度と帰ってくるなよ!」
「わかりました。もとより、そのつもりでしたから」
乾いた声で応じたエレオノーラは、身を翻して書斎を出て行く。廊下に出ると、侍女や従者たちが戸惑いの表情で遠巻きに立ち尽くしていたが、彼女は一瞥すらくれずに通り過ぎる。
父が娘をどれほどひどい言葉で罵ったのかは察せられるが、使用人たちが口を挟む余地はない。公爵家の崩壊が目に見える形で進行しているのを、ただ恐ろしく見守るしかなかった。
正面玄関を出る頃、エレオノーラは涼しい風を受けながら、胸の内にかすかな感慨を覚える。それは悲嘆や虚しさではなく、自分を縛っていた一つの鎖が外れたという解放感のようなものだ。
これで、もはや公爵家に気を遣う必要は一切ない。レオポルトが王太子にすがるにしろ、別の派閥と手を組むにしろ、彼女には関係のない話だ。むしろ、その行動が早く混乱に陥ればいいとすら思う。
馬車に乗り込むと、御者が小さく頷く。彼女の行き先は公爵家ではなく、私邸がある通り。今やそこが事実上の拠点となりつつあり、破滅へ向けた準備を進める要でもある。
窓から見える公爵家の外観が遠ざかるにつれ、エレオノーラは静かに目を伏せた。父と娘の対立は、もはや修復の余地などない。父はまだ、それが一時の反発だと考えているかもしれないが、実際にはもっと深い闇が迫っていることを理解していない。
エレオノーラが抱える計画の全貌をレオポルトが知る日が来るとすれば、それは王国全体が絶望の淵に沈む間際かもしれない。あるいは、知る前にすべてが終わるのか――。
さながら大きな裂け目が、父娘の間に刻まれたようだった。馬車の振動を感じながら、エレオノーラは瞼を閉じ、すでに後戻りできない道をひたすら進む自分を、冷徹に自覚する。
こうして、ローゼンハイム家という一枚岩だったものに亀裂が走り、ついには形を保てなくなる。すべてが崩壊へと傾く気配をまといながら、馬車は街の雑踏へ消えていくのだった。