第7話 水面下の駒
薄曇りの朝、エレオノーラは王宮からそう遠くない一角にある私邸へと馬車を走らせた。婚約破棄の報が広まって以降、彼女の姿を見かける者はめっきり減ったようだが、その理由は単に王宮から遠ざかったからだけではない。この私邸を拠点に、彼女は独自の動きを本格化させつつあった。
周囲の貴族たちは、すでに彼女が“公の場”で行動を起こす術などないと考えている。実際、王太子派からは暗に邸宅に籠もっているよう勧告されたという話もあり、エレオノーラに近づく者は日に日に減っていた。しかし、それはまさに彼女が望む状況でもあった。存在感を消すことで、持てる手を動かしやすくなるからである。
馬車を降りると、馭者が深々と頭を下げて去っていく。玄関口に立ったエレオノーラは、かつて公爵家の敷地内で見せていた豪奢な衣裳ではなく、落ち着いた仕立ての黒いドレスを身にまとっていた。特別な装飾はほとんどなく、靴音も控えめだ。
邸内は決して広くはないが、それでも最低限の使用人は配置されている。もっとも、ここにいるのはエレオノーラが信頼を置く少数の召使いのみ。以前は公爵家の令嬢として、優雅に振る舞う姿を支える取り巻きが大勢いたが、今は必要のない贅沢品だとすっぱり切り捨てていた。
「ただいま戻りました」
一人の青年が、彼女を出迎えるように玄関に姿を現す。服装は一般の従者よりも質素な印象だが、身のこなしにはどこか軍務経験者のようなきびきびとした面差しがあった。
エレオノーラは小さく頷くと、周囲を遠ざけるように促す。
「例の書類はどうなっている?」
「すでに整理してあります。保管場所はご指示どおり、近くの文書庫に移しました。鍵はこの屋敷には置いておりません。金庫も二重、念のため偽装の鍵穴も設けました」
「よくやったわ」
彼女は相手の功を称えつつ、少し奥へと足を進める。応対が終わった使用人たちがそっと離れ、廊下の突き当たりまで来ると、そこには簡素な扉が一枚。その向こうは書斎のようになっていて、外界からの窓がひとつもない。
扉を開けると、ランプの灯りに照らされた室内に数名が待機していた。エレオノーラの計画を手伝うために集まった者たちだ。小役人や下級役職に就く者、あるいは公爵家を辞してからも彼女に忠義を尽くす古参の召使いなど、それぞれに訳ありの面々である。
部屋の中央に置かれた長机には、王家や貴族たちの不正に関する書類が束ねられていた。賄賂の帳簿、密貿易の記録、縁故採用のリストなど、いずれも表沙汰になれば関係者を窮地に追い込みかねない代物ばかりだ。
一同の前に立ったエレオノーラは、まず手元の書簡を手に取り、声を落として言った。
「わたくしの失脚を喜ぶ者たちは、今頃公爵家を切り崩すことに余念がないでしょう。それはもちろん、王太子派の連中も同じ。けれど、この書類を少しずつ世に広めていけば、彼らが揺らぐのも時間の問題よ」
彼女の言葉を受け、集まった人々の表情には緊張と期待が入り混じる。公の舞台から降ろされたエレオノーラが、どのようにして現勢力と渡り合うのか。周囲には疑念も少なくないが、その策の要がこれらの証拠資料だと誰もが理解していた。
召使いの一人が前に進み出て問う。
「具体的にはどのように拡散を……?」
「まずは信頼できる新聞記者や官吏を介し、小出しに複数の場所へ送りなさい。特定の人物に対しては、あえて疑惑をちらつかせる程度で構わない。いきなり全容を出せば、彼らは一致団結して事実を隠蔽しようとするでしょうからね」
エレオノーラの冷静な指示に対し、部屋の奥に座る男が頷く。彼は王宮内の下級役人で、細かな書類仕事を請け負っている。
「では、まずは都の外れにいる役人たちにも、噂として広めましょう。例の汚職や贈賄の話は、一部の商人を経由すればすぐに飛び火します。公爵家の内紛も含めて、王太子派が脆弱な部分を抱えていることを民衆に示すことになるかと」
「そう。民衆は権力を持たないようで、時に武器にもなるの。特に、今の王都は貴族たちの対立が激しく、少しの火種で一気に人心が揺れる。あなたたちには、見えない糸を張り巡らせて、彼らの信用を蝕んでもらいたい」
部屋の中には張り詰めた空気が漂う。かつてのエレオノーラを知る者ならば、その豹変ぶりに戸惑いを感じるだろう。しかし、今の彼女には、もはや守るべき立場や体面など存在しない。失うものがなくなったからこそ、徹底的に攻めの手を打てるのだ。
書類の束から何枚かを抜き取りながら、エレオノーラは小さく笑みを浮かべる。
「それと、いくつかは父レオポルトの周辺にも差し向けておきなさい。王太子派に限らず、公爵派も同様に腐敗を抱えている。公爵家を支える重臣たちが裏でどんな金の流れを作っているか、証拠を押さえているのはわたくしだけじゃないわ」
そう言って差し出された紙には、レオポルトの重鎮が関わっている疑惑の金銭記録が詳細に記されていた。官吏のひとりはその一文に目を走らせ、思わず息を呑む。
「ここまで具体的に……。もし、これが公に出れば、彼らは一巻の終わりかと」
「ええ。公爵家は自分たちがまだ安泰だと思い込んでいるでしょうけれど、すでに内部から瓦解し始めている。父がどう動こうと、これで揺さぶりをかければ、必ず派閥の裏切り者が出るはず」
エレオノーラの瞳は、炎のように燃え上がるのではなく、むしろ凍てつくような冷徹さを湛えていた。それは、幼少期から培ってきた観察眼と情報戦の結晶だ。
しばらく打ち合わせが進んだ後、彼女は一同をそれぞれ別々の仕事へ送り出す。誰がどの情報を扱うか、どのタイミングでどこへ送るか――そのすべてを細かく指示していく。いずれも念入りな計画で、下手をすれば自分たちが危険にさらされる。それでも集まった者たちには、エレオノーラへの不思議な信頼感があった。
(この人となら、勝てるかもしれない。たとえ王太子や公爵家を相手にしても、彼女は一歩も引かないだろう……)
そう確信する者もいる。彼女の姿には、その強かさと覚悟が如実に現れていた。
人々が退出していった後、エレオノーラは部屋に残った青年に視線を向けた。私邸に仕える配下の中でも特に腕の立つ人物で、かつて軍属経験があるという。彼が残されたのは、王太子派がエレオノーラの存在を完全に潰すため、何らかの動きを見せ始めたという情報を持っていたからだ。
「殿下は、あなたの排除を早めるよう、周囲に圧力をかけているようです。公爵家にも働きかけて、エレオノーラ様が宮廷に戻ってくることは許さない、と。実質的には追放に近い状態を続けるつもりでしょう」
「わかっているわ。最初からそのつもりだったでしょうし、あの方がわたくしを自由にさせるはずがないもの」
エレオノーラは口元にかすかな笑みを宿す。彼女を恐れるあまり、行動を封じ込めようとしているのかもしれないが、それは逆効果に近い。表舞台から降りたことこそが、彼女に自由と選択肢を与えているのだから。
青年は続ける。
「もう一つ、クララ様の動きがかなり活発化しています。殿下の後ろ盾を得ていることもあり、複数の貴族から援助を受けているようです。もともと平民の出ということで警戒する向きもありましたが、今では彼女を担ぐことで王太子派の名声が高まると期待している者も少なくないとか」
「そう。クララは賢い人よ。わたくしがいなくなった今、あの柔らかな笑顔で宮廷を味方につけるのは簡単でしょう。けれど、彼女も気づいているはず。殿下の庇護は同時に不安定要素を孕むことを」
エレオノーラの言葉には、クララに対する特別な敵意は見られない。むしろ、境遇が似通う部分をどこかで感じ取っているのかもしれない。あの柔和な態度と裏腹に、したたかに行動するクララが王太子の支持を受けて成り上がっていく姿は、かつての自分と重なるようでもある。
ただし、今はそれを哀れむ気持ちなど微塵もない。自分に有利な条件を積み重ねることが彼女の最優先であり、クララを出し抜く策も当然考えているはずだ。
時間が経ち、やがて青年が退出すると、エレオノーラはしばらく一人きりで書類に目を通す。王太子やクララ、さらに公爵家に属する者たち――彼らの弱みを握る記録が次々と並べられ、そこには日にちや人物相関が精緻にまとめられている。
ふと、彼女は机の端に差し込まれた封書に目を止める。差出人の名は書かれていないが、印象的な紋章が封ろう部分に押されている。どうやら、中位貴族の一人が密かにエレオノーラへ連絡を寄こしたらしい。
中を開くと、短い文面が現れる。そこには「王太子派との対立が激しくなる中、自分は公爵派にも付けず、一方でエレオノーラを助ける意向がある」と暗示するような内容が書かれていた。政治家特有の婉曲的な言い回しだが、意図は明白だ。
(やはり、王太子派の独断専行に危機感を抱く者が出始めているのね。ならば、この人には今すぐ資料を送るのではなく、少し揺さぶってから様子を見ましょう。わたくしを助けるふりをして、実利だけ奪おうという考えもあるかもしれないし)
封書を読み終えると、彼女は火皿にそれを落とす。あっという間に紙は黒く焦げ、灰となる。自身の計画を遂行するうえで、証拠を残すのは得策ではない。
不敵な沈黙が部屋を満たす中、エレオノーラは一枚一枚の書類を丁寧に確かめていく。これらが暴露されれば、王太子派と公爵派の双方が激しく動揺することは間違いない。問題は、それをどのような順番で、どの規模で放っていくか。そして、どのタイミングで自らの破滅を仕上げに織り込むか――。
彼女にとって、破滅とは終着点ではなく、ある種の契機でもある。何もかも失ったときこそ、周囲を引きずり下ろせる最大の機会が訪れる。幼少期から抱いてきた復讐心や虚無感のすべてを、今こそ解き放つときが近いのだ。
ランプの炎が揺れ、書類に落ちる影が歪む。その様子を見つめながら、エレオノーラは確信していた。自分が何もかも投げ捨てる覚悟をしたからこそ、この周囲の人々は自分に協力している。失うものがない者ほど怖い存在はいないと、彼らも知っているのだろう。
外の空が徐々に暮れていく。邸内の廊下からは、使用人が夕餉の支度をしている気配が伝わってくるが、エレオノーラはまったく意に介さない。彼女の思考は、すでに次の手駒をどのように動かすかという点に集中しているのだ。
(王太子派とクララの連携も、父の反撃策も、そう長くは維持できない。わたくしが投じる一石で、いずれ誰もが自分の身を守るのに精一杯になるでしょう。ときには彼らが互いを責め立て、醜く争い合うように……)
この上なく冷淡な思考に浸りながらも、エレオノーラの唇には微かな笑みが刻まれる。その笑みには、哀れみも戸惑いもない。ただ、底なしの決意と冷たい炎だけが宿っていた。
こうして、彼女の手駒たちが次々と動き出す中、王太子派もまた黙ってはいないだろう。公爵家の内情を知る者を取り込んで、完全にエレオノーラを排除する策を練り始めるはずだ。クララもまた、新たな支持を得るために外面の清らかさを使い、人脈を広げるに違いない。
だが、エレオノーラにとってはすべて織り込み済み。彼女は己の破滅が、やがてすべてを巻き込む決定打になることを確信しているからだ。あらゆる駒が動き始めた今こそ、彼女の計画は最終段階へと一歩ずつ進もうとしている。
室内は深い静寂に包まれ、ランプの灯だけが小さく揺れている。その灯火に照らされるエレオノーラの横顔は、まるで夜闇に佇む黒豹のように鋭く、そして孤独な光を放っていた。




