第6話 幼少の記憶
エレオノーラが旧い図書室の一角に足を運んだのは、ちょうど昼下がりのことだった。使い古された机や書棚の埃っぽい匂いは、幼い頃から変わらない。
人の目に触れないこの場所は、彼女が幼少期によく身を潜めていた隠れ家のような空間でもある。まるで繭にくるまれるような静寂が広がっていて、外界の喧騒を遠ざけてくれるのだ。
今も彼女は、ふとその頃の感覚を思い出すかのように、そっと机の上に手を置いた。緩慢な手つきで埃を払うと、そこにあった数冊の古い帳簿を何気なく開く。遠い記憶の断片が、風に乗って運ばれてくるように、胸の奥を微かに刺激した。
(あの時は、本当に何もわからない子供だった。だけど、それでも父がどんな存在かははっきり理解していたのかもしれない……)
そう思い返しながら、エレオノーラは無意識に目を閉じる。やがて、幼き日の光景がはっきりと脳裏に映し出されていく――あの冷たい公爵邸の大広間、厳格にして無慈悲な声を持つ父の姿、そして彼女が初めて“公爵家の道具”として叩き込まれた瞬間。
まだ小さかったエレオノーラは、人形遊びに興じることを許されなかった。母は早くに亡くなっており、父レオポルトは子を慈しむというよりも“公爵家の後継者”あるいは“利用価値のある存在”としてしか娘を見ていなかった。
なけなしの自由を奪うかのように、早朝から深夜まで礼儀作法や馬術、剣術、舞踏、そして政治や経済についての学習が詰め込まれる。短い手足で文字を書くのに苦労していた記憶さえあるのに、父は容赦なく罵声を浴びせた。
「公爵家の名に相応しい振る舞いを身につけろ。この家に生まれた以上、おまえの意思など必要ない。おまえは我が手駒として生きるのだ」
そのとき、幼きエレオノーラの胸に芽生えたものは怯えだった。同時に、父が求める“完璧な従順さ”を装わなければならないという諦念もあった。
それでも、彼女は賢かった。父の思惑に反抗すれば何が起きるか――あまりにも幼いころから思い知らされていたからだ。父の目の届かない場所を求め、館の片隅や庭の隅に逃げ込むこともあったが、ほどなく従者に見つかり、父の前へ引きずり出される。
そして、その厳格な監視下でまた新たな授業が始まるのだ。
父の教育方針は熾烈だったが、エレオノーラは常に期待以上の成果を出した。なぜなら、それだけが彼女の身を守る術だったからである。逆らって制裁を受けるよりも、求められることを完璧にこなし、必要以上に目立たない形で地位を固めるほうが得策だと悟っていたのだ。
そうして彼女は、いわゆる“理想の公爵令嬢”として成長していく。だが、その美しく着飾った姿の裏側で、貴族社会の腐敗を嫌というほど見聞きしながら、ゆっくりと心を冷やしていった。
小さなきっかけは、会議室の扉越しに聞こえた父と商人との会話だった。父レオポルトは、とある商人に対して大陸から違法な商品を密輸する手筈を整えるよう指示し、見返りとして莫大な金銭を受け取る相談をしていた。
子供ながらにそれが法に触れる行為だということは理解できていたが、父の言葉にはそのことに対する後ろめたさが一切見られなかった。むしろ涼しげな口調で、互いに得をするために当然のことだと語っているようだった。
「金に替えられるものなら、何だって取引の材料になる。時には娘の縁談ですらもな」
それを盗み聞いていたエレオノーラは、自分が“あらゆる取引の材料”になり得ることを改めて思い知らされた。
さらに、あくる日には屋敷の使用人たちから、耳を疑うような噂話が漏れ聞こえてきた。高位貴族の一人が愛人を囲い、莫大な領地を裏で王太子に献上しようとしているとか、賄賂として宝石を用いた密約があるだとか。
幼心に、それらが醜悪な話だという認識はあった。けれど、それは自分が生きる貴族社会では当たり前のこと。大人たちは誰もが普通に受け入れているようだった。
日を追うごとに、エレオノーラのなかに“これが公爵家や貴族の本質なのだ”という冷厳な認識が刻まれていく。表向きの礼節や美徳が隠しているのは、欲望や権力闘争の泥沼――幼いながらに、その真実を噛み締めざるを得なかった。
そして、父は娘にさらなる計画を押し付ける。
「王太子との縁談が、すでにほぼ決まった。おまえは将来、彼の婚約者として相応しい品位を示すのだ。そうすれば、この公爵家はますます栄華を極められる」
エレオノーラはまだ十にも満たない頃だったが、その言葉がどれほど大きな重荷を背負わせるものかは理解できた。それは王太子という存在への憧れなどではなく、純粋に“公爵家に従属する意味”を深めるものでしかなかった。
やがて公の場で初めて王太子――ルシアン・ヴァルモンドと顔を合わせた時、彼はまだ少年の面影を残していたものの、その瞳には今と同じ暗い打算の色が宿っていた。まるで鏡のように、エレオノーラは彼の底にある野心を悟ってしまったのだ。
(ああ、この人も父と同じように、わたくしを“道具”として見ているのだわ)
そう気づいた瞬間、彼女の中で希望という名の芽はすっかり枯れ果てた。王太子との結婚が、自分にとっての幸せや喜びなどとは無縁だと理解したからである。
けれど、当時のエレオノーラには選択肢がなかった。公爵家の娘として生まれた以上、父が敷いたレールから逃れる術はほとんどない。だからこそ彼女は、すべてに従ったふりをしながら、その裏側で貴族社会の腐敗を少しずつ記録に留めていくようになった。
きっかけは、ほんの好奇心からだったかもしれない。いつか何かの役に立つかもしれないと、父の机に隠されていた賄賂の記録や、有力貴族との裏取引の証拠となる手紙、さらには王家の汚職に関する断片的な書類……そういったものを子供の手でこっそりと写し取り、小さな箱にしまい込んだ。
次第にそれは執念にも似た行為となり、公爵家内部の不正だけではなく、知り得たあらゆる派閥の闇を可能な限り収集する行為へと発展した。
誰にも知られず、誰の信用も裏切らぬよう巧みに立ち回り、しかし裏で少しずつ腐敗の証拠を集めていく――それが、彼女の幼少期からの隠れた日課となっていったのである。
王太子ルシアンとの婚約が正式に発表される頃には、エレオノーラはもはや自分の自由意志など持ち合わせていないかのような人形を演じ切っていた。周囲の貴族は、彼女を“素晴らしい公爵家の令嬢”と褒めそやし、王太子の横に並んでいる姿を称賛する。
当時の彼女は、外面こそ淑やかで完璧な礼節を保っていたが、その内側では自らを嘲笑する声が鳴り響いていた。
(いずれ、わたくしは父や王太子と同じように、この腐敗を利用する立場になるのね。あるいは、都合が悪くなれば捨てられる道具にすぎない。けれど……それだけでは終わらないわ)
そう呟いたのは婚約発表の晩、窓辺で月明かりを仰いだときだった。幾重にも張り巡らされた利害と欲望の網。その中央で自分が囚われの立場にあることを理解しながらも、どこか冷めた意志が燃え上がっていた。
彼女が幼少期から見聞きし、集め続けた“証拠”や情報は、もはや一人の若い娘が扱うには危険すぎるほど膨大になっていた。だが、エレオノーラは決してそれを放棄しなかった。いつか、自分が破滅するその瞬間に、一緒にすべてを道連れにしてやる――かすかな決意が、彼女の微笑の奥に潜んでいたのだ。
今、この図書室で帳簿をめくるエレオノーラは、かつての自分に小さく嘆息を漏らす。あの日々の辛酸は決して消えやしないし、同情を欲するつもりもない。
けれど、いよいよ婚約を破棄され、公爵家からも事実上見限られ、完全に“道具”としての価値を失った今こそ、彼女の本性が表に出る時が来ているのだと思う。
幼い頃の彼女が感じた絶望と痛み。その上に積み重ねられた腐敗と闇。それらすべてを吐き出すように、そして、王太子や公爵家が隠してきた秘密を暴くことで、この虚飾の世界を足元から揺るがしてやる――そんな想いが胸の奥で膨れ上がっている。
静かな室内には、古い扉の軋む音だけが響いた。エレオノーラは帳簿を元の位置に戻し、軽く埃を払ってから立ち上がる。思い出に浸っている暇はない。今、彼女はあの幼い日に誓ったことを実行に移す準備を整えつつあるのだから。
公爵家の権威が崩れ、王太子派の勢力が広がる中でも、彼女が幼少期から培ってきた情報収集の網は未だ健在だ。失うものが多ければ多いほど、彼女の行動は制限される。だが、いったん何もかもを失えば、もう恐れるものなど何もない。
つまり、破滅が近づいている今は、むしろエレオノーラにとって最高のチャンスでもある。周囲が彼女を軽視し始めるほど、かえって動きやすくなるからだ。
(すべてを暴露する……か)
その言葉を口にするだけで、胸に甘い毒が広がるような感覚がある。これまで積み上げてきた白々しい仮面を外し、貴族社会の内臓をひっくり返す瞬間が近い――幼い頃からずっと夢見ていた、ある意味では復讐めいた行為を遂行する時が。
エレオノーラは微かに笑みを浮かべて、図書室を後にした。階段を下りていると、外には遠ざかる夕日の赤い光が差し込んでいる。まるで、長い夜がもうすぐ訪れるかのような真紅の空だ。
その色を眺めながら、彼女は幼少期の自分に問いかけるように、心の中でそっと呟く。
(わたくしは今でも、あの日と同じ。無垢な子供ではいられないけれど、あのときの絶望を糧に、世界を揺るがしてみせる。それが公爵家の道具として育てられた、わたくしの唯一の“自由意志”だと思うから)
嘆くことも、後悔することもない。レオポルトや王太子ルシアンが彼女をどう扱おうと、最終的に笑うのは自分だ。そう信じて疑わない彼女の足取りは、もはや迷いを見せない。
幼少期の苦い記憶と、そこから生まれた冷酷な決意。エレオノーラは、そのすべてを自分の力へと転化しようとしていた。夕闇が近づく廊下で、一人の女性が歩む姿は、凛としていてどこか儚く、同時に底知れない闇を感じさせる。
まるで、その先に待ち受ける運命を知りながら、それを自身の意志で操るかのように――彼女の瞳には、幼い頃から変わらぬ冷たく澄んだ光が宿っていた。