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第5話 破滅の微笑

 婚約破棄を宣言された翌日。

 王宮の廊下を歩くエレオノーラに向けられる視線には、同情と嘲笑が入り混じっていた。

 だが、彼女はまるで周囲の反応に興味がないかのように、飄々とした足取りで歩みを進める。従者の姿もないまま、人気のない通路を選んで遠回りをしているようだった。


「お気の毒に……結局、殿下には捨てられたかたちね。いくら美しくて名門の令嬢でも、行いが悪ければこうなるものなのね」


 そんなひそひそ声が聞こえても、エレオノーラは眉一つ動かさない。彼女を遠巻きに眺める侍女や下級貴族の気配を感じ取りながらも、淡々と床を踏みしめているだけだった。昨日まで、王太子の婚約者として讃えられていた華々しさとは裏腹に、今はすっかり“見世物”のように扱われている。

 だが、彼女自身の内面には、かえって不思議な静けさが広がっていた。あの大広間で婚約を破棄された瞬間、息を呑んだ貴族たちのざわめきの中で、むしろ満たされるような感覚があったからだ。


(やはり、こうなるのね。ずいぶんと手際がいいじゃない。わたくしを糾弾することで、王太子派は一枚岩になった。父も突然の事態に取り乱して、どうせ自分の身を守るのに必死なのでしょう)


 心の底でそう呟いても、エレオノーラの唇には僅かな笑みしか浮かばない。彼女は“破滅”という言葉を、幼い頃からずっと意識しながら生きてきた。公爵家の娘として高い位置に据えられ、いつしか王太子と婚約関係になったときにも、それは決して楽園への道ではなかった。むしろ、周囲の思惑に押し潰される未来をうっすらと予感していた。

 そして今、その見え透いた未来をあえて自らの手で崩しにかかっているのだ――そう解釈している節さえある。


 広い中庭へ抜けると、石畳の向こうに大きな噴水が見えた。その縁に腰掛けている数人の貴族の姿があるが、エレオノーラが視界に入った途端、途端に会話をやめ、さも「気まずい場面を見られた」ように立ち去ってしまう。

 苦笑しか浮かばない。昨日までは彼女に取り入ろうと必死だった者たちが、今日は掌を返したように逃げていく。

 それでもエレオノーラは追うような真似はせず、中庭を横切る風に身を浸すようにしばらく立ち止まる。触れるものすべてが冷たく感じられる一方で、体の奥から不思議な昂揚が湧き上がるのを自覚していた。


(破滅。そう呼ぶにはあまりにも陳腐だけれど、わたくしは今、確かにその道を歩みはじめた。だが、これこそが待ち望んでいた機会でもある……)


 誰も聞く者のいない独白を心の中で繰り返し、エレオノーラはふと噴水の水面を見つめる。

 そこに映る自分の横顔は、穏やかな微笑を漂わせながら、どこか影を帯びている。昨日までとはまるで違う、自分自身の姿がそこにあるように感じた。

 深く息をついて立ち去ろうとしたとき、遠くから慌ただしい足音が聞こえる。レオポルトの取り巻きの一人が駆け寄ってきたのだ。


「エレオノーラ様、ここにいらしたのですね……。大変です、公爵がお怒りになっておられます。すぐにお戻りいただきたいと」


 取り巻きは血相を変えたまま、彼女の返答を待つ。エレオノーラはわずかに首を傾げるが、構わず重い足取りを再開する。


「そう。父が怒っているのは今に始まったことではないでしょうに。わざわざ呼びに来るなんて、よほど切羽詰まっているのでしょうか」


 まるで他人事のような言い方に、取り巻きはさらに慌てた様子を見せた。


「殿下のあの糾弾の後、公爵家の信用は大きく揺らいでいます。すぐにも何らかの手を打たなければ……。公爵は、娘であるエレオノーラ様からも釈明の言葉を出してほしいと……」


 だが、エレオノーラは取り巻きの言葉を遮るように早足で宮殿の廊下へ戻り始めた。

 そこへ辿り着くと、ちょうどレオポルトの声が聞こえる。部屋の中にいるのだろう。どうやら大声で部下を叱責しているようで、その苛立ちは廊下にまで届くほどだ。

 エレオノーラは扉を開け、父の顔を見据えた。レオポルトは怒気を含んだ視線を彼女に向けると、周囲の者を一喝して部屋から下がらせる。


「おまえは……! なぜ、あのような場面で何も言わずに黙っていたのだ! 王太子を糾弾してもいいから、せめて少しは抵抗しろと!」


「言ったところで、どうにかなりましたか?」


 エレオノーラは静かに問い返す。その目には、父に対する恐怖も申し訳なさも見当たらない。レオポルトが苛立ちを募らせるのも無理はない。彼が築いてきた公爵家の威光は、いまや一夜にして大幅な信用を失っている。

 だが、レオポルト自身の言動からは、娘を守ろうという意志は微塵も感じられない。あるのは、自分の地位が危うくなることへの焦りだけだ。


「おまえが黙っていたせいで、我が家の権威は大打撃を受けたのだぞ! 殿下との縁組が破断になれば、せっかく長年かけて築いてきた取引や関係が崩壊しかねん!」


「では、わたくしにどうしろと? 今さら殿下のもとへ駆け寄って泣きつけとでも?」


 エレオノーラの淡々とした態度は、レオポルトの神経を逆なでする。彼は机を叩きつけ、怒声を上げた。


「ふざけるな! わたしは、おまえにそういう意味で言っているのではない! 少なくとも無実を主張して、クララとやらの言葉が過剰であることを証明すべきだろう!」


「父上こそ、わたくしを“ただ利用する”だけの道具としか考えておられないではありませんか。そんな方が、今さら必死にわたくしを弁護する道理がわかりませんの」


 言い捨てると、レオポルトは言葉を失う。確かに、彼の行動原理は常に公爵家の維持と拡大にしか向いていない。娘がどう思うかなど、二の次だったことは否定できない。

 だが、今のレオポルトにとっては、その“娘”こそが命綱だった。エレオノーラが自ら声を上げてくれねば、王太子派の攻勢を防げない。にもかかわらず、彼女は興味を失ったかのように平然としている。

 エレオノーラは無表情のまま、軽く肩をすくめた。


「公爵家の当主である父上なら、ご自身の力で反撃策を講じられることでしょう? わたくしは、あなたの脚本どおりに動くつもりはありません」


「……おまえは何を考えている……! 本気でこの家を、そして自分自身を破滅させるつもりか!」


「ええ、破滅。それはあまりにも皮肉な言葉ですが、わたくしには合っている気がします」


 その冷ややかな一言を残して、エレオノーラはくるりと背を向ける。レオポルトは追いかけようと手を伸ばすが、躊躇したまま踏み出せなかった。

 彼の脳裏にあるのは、王太子との婚約破棄がもたらす政治的なダメージをどう回避するかだけ。もはや、娘の命運について真剣に案じているわけではない。娘が傲慢に振る舞っていた頃も、今こうして窮地に立たされたときも、結局は自分の保身のことしか考えられないのだ。

 廊下に出ると、さほど時間も経たないうちに、通りがかった侍女の間からクララの名が聞こえてきた。彼女があれからどうしているのか、嫌でも耳に入ってくる。


「クララ様は、王太子殿下からお見舞いの言葉をかけられたんですって。あんな大広間で傷つけられたというのに、殿下が自ら慰めてくださるなんて……」


「本当にお気の毒よね。あの令嬢……ほら、公爵家の……がどんなことを言ったのか、聞いただけでも身震いするわ」


 耳障りな噂話を聞いても、エレオノーラは無関心を貫く。もともと、これらの噂を制御できる立場にいたのは彼女と公爵家だったが、一夜にしてそれが崩れ落ちたのだ。

 一方のクララは表向き、まさに“勝利者”として宮廷内で賞賛されている。王太子ルシアンの擁護も得て、貴族たちの同情や称賛が集まっているようだ。しかし、そのクララ本人が心の底から安堵しているかどうかは、また別の話だろう。

 実際、クララが面会に応じた席で控えめに微笑む姿には、少し陰りのある躊躇いが混ざっていたという話も聞こえてくる。何かが引っかかっているような、あのエレオノーラの不気味な余裕が忘れられないのかもしれない。


(婚約破棄を宣告され、王太子から見放されたはずなのに、どうしてあれほど落ち着いていられるのか……。クララにすれば、そう思うでしょうね)


 そう想像しながら、エレオノーラは微かに唇を歪める。クララいじめの首謀者として名指しされた彼女は、社会的には大きく後退することになった。通常なら、宮廷にはいづらい立場になるはずだ。

 だが、エレオノーラはまだここにいる。何故かといえば、公爵家が完全に没落したわけでもなければ、王太子派が彼女を即座に追放しようとしていないからだ。それより先に、ほかにも狙いがあるのだろうと感じている。

 エレオノーラは、自分を取り巻く政治の波を読みながら、その波に飲まれるどころか、逆に乗りこなそうとしていた。破滅が迫っているのは事実。しかし、それをただ受け入れるのではなく、むしろ利用しようという意図をうかがわせる。


 そんな気配は、ごく一部の敏感な人々にも伝わりつつある。特に、王太子派の一員であるはずのクララが、一抹の不安を抱いているという話は象徴的だ。

 周囲は「クララこそ真の勝者」と讃えるが、彼女自身が安心しているわけではない。王太子の庇護を受けたとはいえ、それがこの先どこまで続くのかはわからないし、何より、エレオノーラの瞳に宿るあの不可解な光を忘れられないのだ。

 まるで、まだ何かが続いていく、あるいは始まっていないかのような――そんな、氷の刃が潜んだような光。


(クスッ……そう、わたくしはまだ終わらない。むしろ、ここから始まるのよ)


 長い廊下を抜け、別の部屋へ向かおうと歩みを進めるエレオノーラの瞳には、確固たる意志が浮かんでいた。周囲は彼女の破滅を確信しているかもしれない。しかし、彼女自身はその“破滅”を己の糧として、さらに深い策謀の渦に踏み込むつもりだ。

 公爵家が失墜しようが、王太子派が勝ち誇ろうが、そんなことはもう問題ではない。重要なのは、この出来事をどのように利用し、自分の思惑をどこまで実現できるかだけ。

 それが、エレオノーラの抱える“秘密”に深く結びついているのは間違いない。


 時折、廊下で擦れ違う数少ない公爵派の人間たちは、彼女に向けて小声で状況を報告する。だが、その内容はどれも芳しくない。いくつもの派閥が王太子に傾き始め、レオポルトは焦燥を募らせながら動き回っているという。それでも娘を守る策を講じようとはせず、むしろ“エレオノーラをどう処分するか”という声まで聞かれる始末だ。

 その話を聞いても、エレオノーラの心はまったく揺らがない。既に公爵家の一員としての未来が閉ざされた今、父の庇護を期待しているわけでもないからだ。むしろ、自分の存在を切り捨てようとしている父の足元を掬うことも選択肢の一つだと思っている。


(わたくしはただの飾りではない。少なくとも、王太子やクララよりも、父レオポルトよりも、より奥深い暗闇を覗いてきたから)


 その闇の中には、数え切れないほどの汚職や陰謀、賄賂、裏切りの記録がある。貴族社会の膿を集めたような秘密を、エレオノーラは幼少期から少しずつ見聞きし、自らもそれを利用できる立場にあった。

 破滅を迎えるというなら、いっそその膿を全部暴いてやろう――内心にはそんな決意すら滲んでいる。それを考えれば、王太子の婚約者の地位を剥奪されることなど、大した問題ではないのかもしれない。

 元より、その立場は彼女にとって“偽りの牢獄”のようなものだった。


 すると、ふと廊下の角からクララが姿を現す。先ほどまでルシアンと面会していたらしく、まだ瞳の奥に紅を宿しているように見えたが、エレオノーラの顔を認めるや否や、かすかに息をのんだ。

 クララは一瞬だけ躊躇したが、やがて決意したように歩み寄り、深く頭を下げる。


「……先日は、あのような形で皆さまの前に出てしまい、申し訳ございませんでした。わたくしも……心苦しかったのです……」


 その声音には確かに後ろめたさが感じられる。だが、エレオノーラは軽く首を振るだけだ。


「いいえ、気にすることはないわ。あなたも、そうせざるを得なかったのでしょう?」


「え……?」


 クララは驚いたように目を瞬かせる。もっとも、エレオノーラの声色に責める調子はほとんど含まれていない。それどころか、どこか諦観に近い淡い響きを帯びている。

 その態度に、クララはかえって困惑する。婚約を破棄され、宮廷での地位を失いつつある人物が、こんなにも静かでいられるのはどうしてか――そこに不可解な恐ろしさを感じるのだ。


「あなたにとっても、これが終わりだなんて思っていないでしょう?」


 そう呟いたエレオノーラの瞳は、まるで底の見えない湖のように深い。クララは言葉を返せずに身じろぎするが、エレオノーラは続けない。

 そのままクララの脇を通り過ぎると、冷たい風が廊下を吹き抜け、衣擦れの音が微かに響いた。振り返ると、エレオノーラの姿は遠く、小さくなっていく。後に残されたクララは、胸の奥にじんわりとした不安を覚えていた。周囲が自分を祝福し、王太子との絆を称賛してくれているはずなのに、その温かさを素直に享受できなくなっている。


(あの人は、本当に追い詰められたのかしら。まるで、もっと大きな渦を引き起こすつもりでいるみたい……)


 不安げに自問するクララの背後では、遠ざかるエレオノーラの足音がしだいに響きを失っていく。

 誰もが彼女の破滅を信じて疑わない。あるいは、それを嘲笑し、あるいは哀れんでいるかもしれない。だが、エレオノーラの表情は、まるで自分が勝利者であるかのように落ち着き払っている。

 その姿にこそ、これから訪れるさらなる嵐の予感が濃厚に漂っていた。まるで、断罪を受けた今こそ、エレオノーラという存在が真に牙を剥きはじめる――そんな暗い兆しを含んだ、不敵な微笑が刻まれているかのようだった。

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