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第4話 婚約破棄

 大広間の扉が大きく開け放たれ、普段の謁見とは違う厳粛さが辺りを包んでいた。壁際に控える兵たちは居並ぶ貴族を監視するように視線を走らせ、ここがただの会議の場などではないことを雄弁に物語っている。

 それでも、大広間の空気にはどこか演劇の幕が上がる前のような不穏な期待感が漂っていた。立ち尽くす貴族たちの表情はどれも固く、あるいは険しく、あるいは興味深げに周囲を窺っている。中心にいる王太子ルシアン・ヴァルモンドの姿が、すべての視線を一手に集めていた。

 そして、その正面にはエレオノーラ・ローゼンハイムが立っている。表情の色をまったく変えぬまま、背筋を伸ばし、少しもうろたえた様子を見せない。その冷ややかな雰囲気は、最初からこの場の成り行きを知っていたかのようにも見える。


「本日、皆さまにお集まりいただいたのは、ある重大な疑惑を審議するためです」


 ルシアンがゆっくりと口を開いた。いつになく穏やかさを欠いた声音で、貴族たちは居心地の悪さを感じる。

「皆さまもご存じのとおり、公爵家の令嬢であるエレオノーラ殿は、わたくしの婚約者として長らくその地位を保ってきました。ですが……その人物が近ごろ、我々の中にいる一人の女性に対し、いかなる仕打ちを続けてきたのか、ご存じでしょうか」


 言葉を切ると、ルシアンの周囲に立つ家臣の一人が進み出る。彼は数通の書類を手に持ち、貴族たちに示すようにかざした。そこには、エレオノーラがクララに対して行ったという“いじめ”や侮辱に関する報告がまとめられているらしい。実際の中身がどこまで事実に基づくのかは、ここにいる誰もはっきりとは知らない。

 しかし、大広間にはすでに「エレオノーラがクララにひどい言動をとっているらしい」という噂が駆け巡っていた。多くの貴族がそれとなく耳にしていたため、ルシアンの声を疑う者は少ないようだ。


「被害に遭ったのは、クララ・ブランシェだ」


 その名が告げられると、促されるようにしてクララがルシアンの横へ進み出る。白いドレスの袖を震わせるように、どこか怯えた風情を漂わせていた。普段の穏やかな笑顔からは想像できないほど、彼女の表情には涙が滲んでいる。

「わたくしは……決して大事にしたいわけではありませんでした。ただ、あまりにも辛く……。どうにかして公正な場でお話をするほかないと考えたのです」


 震える声でそう口にすると、周囲にいた貴族の何人かが同情の眼差しを向けた。その場の空気が一気にクララを保護する方向へ傾くのを感じ、ルシアンは再び言葉を重ねる。

「か弱い身分から宮廷に上がり、今や多くの者たちに慕われているクララを、エレオノーラ殿は平素から嫌っていた。時には暴言を吐き、侍女を使って意地の悪い罠を仕掛けたとも聞いている。そして、先日は転倒事故にまで発展し……」


 そこまで言い切ったところで、ルシアンの声が低く落ちる。まるで、これ以上言葉を続けるのも心苦しい、とでも言うように。

「王太子であるわたくしの名のもとに、そんな行いを見過ごすわけにはいかないのです」


 大広間は水を打ったように静まり返る。エレオノーラに視線を送る者が多いが、彼女は微動だにしない。その横には、父であるレオポルト・ローゼンハイムが立っていた。

 レオポルトは必死に表情を抑えようとしているのか、その額にはじっとりと汗が浮かんでいる。こんな場で娘を貶められては、公爵家の面目が丸潰れとなる。しかも、タイミングが悪いことに、周囲の貴族たちはすでに王太子側に賛同するような空気を醸し出している。

 意を決したように、レオポルトが一歩前へ出た。


「待っていただきたい、殿下。確かに、エレオノーラは気が強い性格です。ですが、噂をことさらに大きくしている者がいるだけで、実際には重大な被害など何も起きていない。単なる言いがかりとしか思えません」


 そう語るレオポルトは、かつての堂々たる公爵らしい気迫をなんとか取り繕っている。しかし、その声には焦燥が混ざり、周囲の貴族たちには“必死の弁解”と受け止められたようだ。

「このような公の場で、証拠もはっきりしないままに娘を糾弾するなど、余りにも乱暴ではありませんか。クララ殿が本当に傷を負ったというならば、まずは当事者同士で話し合うべきかと……」


 だが、王太子派に与する貴族の数名が目立つ態度で頷き、ルシアンへ同意を示すような仕草を見せる。レオポルトの言葉には耳を貸さないという意思表示でもある。

 その状況を目にし、レオポルトの顔色がさらに悪くなる。彼は今、危機感を痛感していた。かつては公爵家に膝を屈していたはずの者たちが、次々と王太子側に回っているのだ。

 それこそが、ここしばらく宮廷で囁かれていた“力関係の逆転”を物語っている。レオポルトが支配してきたはずの政治や経済の基盤を、ルシアンが別の手段で抑えようとしているのだろう。それも、エレオノーラとクララの問題を利用する形で。


 クララは、そんな周囲のざわめきを背に受けて、小さく首を振る。


「本当は……こんな形で訴えたくなかったのです。ただ、何度かお話を試みても、エレオノーラ様はわたくしの言葉などまともに聞いてくださらなくて……」


 俯くクララに、同情の視線が一斉に注がれる。彼女の声には淡い涙が滲んでおり、その様子は心優しい被害者そのものだった。

 そして、その対極にいるはずのエレオノーラは、未だ微動だにしない。まるでこの一連の光景があらかじめ台本に書かれていたかのように、冷静に見つめているだけだった。


「エレオノーラ、何か弁解はあるか」


 ルシアンがエレオノーラに問いかけるが、彼女はすっと視線を上げ、口元にごく微かな笑みを湛えるのみ。反論の言葉はない。

 その様子に、レオポルトは蒼白になった。何が起きているのか彼には理解できない。娘が何も発言しようとしないのは、まるで最初から結末を察していたかのようだ。

 貴族たちも戸惑いを隠せない。いつもなら、気の強いエレオノーラが応戦の言葉を放って王太子と激しくやり合うのではないか――そう予想していた者も多いのだ。しかし、彼女は沈黙のまま、すべてを肯定するようにすら見える。


「殿下! これは何か誤解があるに違いありません! 娘には娘なりの言い分があるはずです! 黙っているだけでは真実が……!」


 レオポルトは声を荒らげたが、それはむしろ空回りというべきだろう。周囲の貴族たちは気まずそうに目を逸らす。自分たちが王太子と公爵家のどちらに加担すべきか、もはや明らかなのだろう。

 すると、ルシアンは大仰なため息をつき、はっきりと宣言した。


「レオポルト公爵、あなたがどう弁明しようと、事実は明らかです。何より、これほどまでにクララの涙を見れば、彼女の受けた苦痛の大きさは計り知れない。あまりにも深い傷を負ったこの状況は、王太子であるわたくしにとって容認できない――そう判断せざるを得ないのです」


 その言葉を受けたクララは、まるで自分を責めるようにハンカチを握りしめ、小さく肩を震わせた。傍目には弱々しく見えるが、その仕草が周囲の同情を誘うのは明らかだった。

 レオポルトがもう一度抗議しかけたが、ルシアンは手で制して言葉を続ける。


「よって、わたくしはこの場をもって、エレオノーラ殿との婚約を破棄する!」


 その声は厳かに、しかし確固たる決意を示す響きを伴って大広間に広がった。貴族たちの間にざわめきが奔る。誰もがこの瞬間を待ち構えていたのか、それとも驚いているのか――表情は様々だが、結果的に周囲は完全に王太子派の空気に呑まれつつある。

 レオポルトは愕然とした顔でエレオノーラを振り返る。


「そんな……エレオノーラ……!」


 だが、当のエレオノーラは静かに顔を上げ、ルシアンの一言を受け止めながら、なぜか穏やかな笑みを浮かべていた。反論すらしない。それどころか、まるで待ち望んでいたかのような冷ややかな余裕すら感じられる。

 王太子の傍らでは、クララが涙をふきながら恐縮するように頭を下げている。周囲の貴族たちは、その様子を見てクララに同情や憐れみを寄せる者が圧倒的に多い。今や、誰もエレオノーラの言い分を聞こうとしない。

 こうなると、レオポルトがどれほど必死に擁護しても形勢を覆すのは困難だ。確かに証拠らしいものは未だ十分に提示されていないものの、王太子自らが糾弾の言葉を口にした時点で、ここにいる大半の貴族にとって真実などどうでもよくなる。

 ルシアンは冷酷なまでに状況を読み取っているのだ。公衆の面前でこそ、最大の効果を得られる。加えて、クララの涙が人々の情を揺さぶる――こうした演出は、巧みな政治的策略の一端でもある。


「本件については、以後わたくしの判断で処理を進めます。エレオノーラ殿の行いが許されるのかどうか、しっかりと調査を続ける所存です」


 それだけ告げると、ルシアンは踵を返した。クララは泣き腫らした目のまま、彼を追うように歩み去る。大広間に残されたのは、途方に暮れたレオポルトと、まるで人形のように動かないエレオノーラ、そして各派閥の貴族たち。

 沈黙を破ったのは、レオポルトの掠れた声だった。


「エレオノーラ……何故だ。なぜ抗弁しない……!」


 エレオノーラは父を見やり、微かに唇を開いたが、すぐに言葉を飲み込む。視線は涼やかで、まったく取り乱した様子はない。その態度が余計に周囲を混乱させるようだった。

 王太子派の貴族数名は、勝ちを確信するかのように笑みを浮かべ、そそくさと広間を後にする。逆に、公爵派に近い者たちは狼狽したり、落胆の色を隠せなかったりする者もいる。だが、誰もが決定的な一手を失っているかのように、場を支配する空気に呑まれていた。

 何しろ、正式に「婚約破棄」が宣言されたのだ。ここは王太子の権威が最も輝く宮廷の中心。公の場での宣告をひっくり返すことは至難に等しい。


「これで、すべてが終わりだというのか……」


 肩を落とし、茫然とするレオポルトを尻目に、エレオノーラはそっと一歩を踏み出す。その足取りはまるで氷の上を歩くかのように静かで、視線に揺るぎはない。

 つい先ほどまで誰もが、彼女と王太子との婚約が国の未来を象徴すると信じていた。だが、その幻想は一瞬にして打ち砕かれた。この場にいる者は、皆一様に驚きや戸惑いを抱えている。

 そんな中、エレオノーラだけが人形じみた沈黙を破らず、かつ浮き足立つこともない。その冷めた横顔を間近で見つめた貴族の一人は、思わず息をのんだ。そこには悲痛や絶望ではなく、むしろどこか微笑みにも似た余裕が見えたからだ。


「お前との婚約を破棄する!」


 大広間の奥にまで響きわたったルシアンの宣言が、いまなお耳朶に残っている。エレオノーラはちらりと扉のほうを見やるが、王太子とクララの姿はすでにそこにはない。

 それでも、まるで感傷に浸るでもなく、ただ冷ややかな笑みを浮かべる。まるでこの結末を当然のように受け入れているかのように――。

 彼女の唇の端にうっすらと宿った微笑は、あらゆる感情が混在するこの場の空気に、妙にそぐわない。けれど、それはまぎれもない“笑み”だった。

 そうしてエレオノーラは、沈黙を守る周囲の貴族たちを横目に見下ろすようにしながら、ゆっくりとした足取りでその場を後にする。動揺の色を見せるどころか、むしろ誇り高いままの姿で。

 レオポルトは彼女の後ろ姿に駆け寄ろうとしたが、周囲の視線を感じたのか、その足が止まる。やり場のない苛立ちと不安だけが残り、まるで糸を断ち切られた操り人形のように立ち尽くしていた。


 “婚約破棄”――この国にとって象徴的な政略結婚だったはずの絆が、人々の目の前であっけなく断ち切られた。その事実に衝撃を受ける貴族は多かったが、同時に王太子側に寝返った者たちは、自らの立場を正当化するために賛同の声を上げ始めるだろう。

 そして、ここで主役を下ろされたエレオノーラが、今後どのような運命を歩むのか――公爵派の者たちは想像するだけで薄ら寒い気持ちを覚えた。だが、当のエレオノーラ本人はそんなことには頓着しないかのように、冷たい微笑を残して大広間を後にしたのである。

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