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第3話 危うい均衡

 翌朝、宮廷の回廊には昨夜の余韻がまだ漂っていた。大掛かりな宴があった翌日は、貴族たちがそれぞれに浮ついた表情を見せる一方で、疲労も残るのか、いつもより静かな雰囲気が広がっている。壁際には生け花が新たに飾られ、来訪する者たちを迎え入れていた。

 その花々の彩りを眺めながら、エレオノーラは重厚な扉を抜けて、礼拝堂へ向かう廊下を歩んでいた。ドレスは宴の日に比べると簡素なものに替えているが、背筋の伸びた立ち姿と冷ややかな表情が醸す威圧感は変わらない。

 この朝も、王太子の周辺や貴族の集まりに顔を出すことは求められている。しかし、昨夜のような浮ついた空気とは異なり、彼女の胸には微妙な重みが滲んでいた。あの華やかな夜の裏側でうごめき出した思惑を、エレオノーラは肌で感じ取っているからだ。


 曲がり角を抜けると、先の方でクララ・ブランシェの姿が見える。彼女は数人の侍女らしき者たちに囲まれ、笑みを浮かべながら何かを話していた。優しい声音と柔らかな身振りは平民出身という出自を微塵も感じさせず、まるで生まれながらの貴婦人のようだ。

 エレオノーラはその光景を遠目に捉えると、わざわざ足を止めてしばし眺める。クララが気づいた気配はなかったが、侍女たちのほうが真っ先にエレオノーラの存在を察知したらしい。何やら小声で話すと、クララがこちらを振り返る。

 すると、クララは慌てて軽く会釈した。侍女たちも一斉に頭を下げる。エレオノーラはゆっくりと歩み寄り、彼女たちを見下ろすように立ち止まった。


「今日はやけに楽しそうね。こんな朝早くからおしゃべりをしているなんて、あなたもすっかり宮廷暮らしに慣れてきたようだわ」


 皮肉とも取れる言葉に、クララは微笑みを崩さない。

「少し用事があって、こちらの侍女の方々に教えていただいていただけですわ。宮廷での作法や、細かい行事の段取りなどを……まだまだ勉強中の身なので」


 そこまで言うと、クララはわずかに目を伏せた。まるで素直な謝意を表すような仕草だが、その奥底にある感情は読みにくい。

 エレオノーラはふっと鼻で笑うように、口の端を上げる。

「平民出身だから知らないことが多いのは当然ですものね。もっとも、殿下のご厚意でそんなに甘やかされていては、学ぶべき作法も曖昧になってしまうかもしれないわ」


 その言い方は明らかに皮肉交じりで、侍女たちは緊張したように顔をこわばらせる。クララはというと、表情に微かな曇りが走った気がしたが、すぐに笑顔に戻った。

「いいえ、わたくしは身分相応の立ち振る舞いを弁えようとしております。甘やかされているなどとんでもない。宮廷の方々の助力がなければ、何もわからないままでしょうし……」


「そう。まあ、あなたがどこまで学べるかは、周囲の理解しだいというわけね」


 エレオノーラはあえて冷たく言い放ち、踵を返す。クララたちが見送る視線を背中に感じながら、そのまま廊下を進む。

 一見すれば、彼女は単に意地悪を言っているだけかもしれない。だが、その態度にはわざとらしさが混じっていた。周囲がどう受け取るかを計算したかのように、強い言葉をわざと選んでいる節がある。

 実際、廊下の一角には誰かが立ち止まっている気配があった。エレオノーラが顔を向ける前に、その姿はさっと消える。まるで“クララとのやりとり”をそれとなく観察していたかのようだった。


 こうした小さな行為の積み重ねは、宮廷にいる者たちにとって格好の噂の種になる。エレオノーラがクララを軽視している、あるいは嫌がらせをしている、という話は瞬く間に広まるかもしれない。しかし、彼女には気に留める様子はない。

 むしろ、自分がそうした立場に据えられることを知りながら、あえて“挑発”するような言動をとっているようにも見える。王太子派と公爵派の間には微妙な緊張感が漂い始めており、どちらが先に相手の不備を突いて出し抜くか、探り合いが続いている状態だ。


 それから数時間後、エレオノーラは別の広間で書類に目を通していた。公爵家が管理する領地や経費に関する報告書が山積みにされ、退屈極まりない仕事ではあるが、彼女にとっては小さい頃から慣れ親しんだ領分でもある。

 書類に目を走らせる傍らで、彼女の侍女が申し訳なさそうに口を開いた。

「先ほど、別の侍女仲間が申しておりました。クララ様がご機嫌を損ねられたとか……エレオノーラ様にきつい言葉をかけられたと言っていたそうです」


「そう。わたくしがそんなにひどいことを言ったかしらね」


 エレオノーラは書類から視線を外さず、気だるげに言葉を返す。侍女は動揺したように眉をひそめる。

「おそらく、周りの人々が誤解をしているのです。クララ様が平民出身だからといって、エレオノーラ様が意地悪をしている……そんな噂が一部で」


「放っておけばいいのよ。どうせ噂なんて、耳にした人が勝手に解釈するものだわ」


 その返答に侍女はそれ以上何も言えなくなる。周囲がどう言おうと、エレオノーラはどこ吹く風といった態度なのだ。

 しかし、彼女の内心ではまったく意図なしに動いているわけではない。昨夜の宴以降、王太子派と公爵派の間で小競り合いのような動きが見え隠れし始めた。エレオノーラが知る限り、どちらの派閥も隙あらば相手を失脚させようと狙っている気配がある。

 クララに対する“いじめ”の噂が確固たる“事実”となれば、王太子派は公爵家に矛先を向ける材料を得ることになるだろう。さらに言えば、クララは王太子に可愛がられている存在として一目置かれつつある。公爵派に属するエレオノーラが彼女を傷つける構図ができあがれば、公爵派の立場は悪化するかもしれない。


(そこを利用しようとしているのは、果たして誰かしら。裏で糸を引いている者がいるのなら、わたくしの行動はむしろ“好都合”なのかもしれないわね)


 エレオノーラはそんな推測を胸中で巡らせながら、書類のページをめくる。まるで、意地悪な行動をすることで人々の視線を集め、それによって見えない勢力の動きを炙り出そうとしているかのようにも見える。

 そして、もしそれが叶わなくとも、周囲が作り出す“彼女がクララを嫌っている”という図式は、いずれ何らかの形で噴き出すだろう。下手をすれば、このままエレオノーラが一方的に悪評を背負わされる可能性だってある。


 日が暮れかかった頃、宮廷の別の一角では、クララがまた別の侍女と話している様子があった。先ほどの一件を相談しているようにも見える。

「エレオノーラ様は昔から、他の貴族令嬢にも厳しい態度をとられてきたのでしょうか……」


 クララの問いかけに、侍女は少し考え込むように視線を落とし、遠慮がちに答える。

「子供の頃から堂々としていらっしゃったのは確かです。公爵家の誇りを体現するように教育されてきたとか……。ただ、最近は少し、言葉遣いがきつくなったという声もありますね」


「そうなのですか。何か、理由がおありになるのかしら……」


 その声にはほんのわずかな憐れみの色が混じっているようでもあった。しかし、クララが何を考えているのか、侍女にはわからない。彼女は曖昧に微笑み返すのみだ。

 クララはそっと息をついて、窓の外に目をやる。遠くに見える庭園では、季節の花が静かに揺れている。

(公爵家の令嬢と王太子との婚約は、国の中でも大きな力関係を動かす。わたしは……それにどう関わるべきなのだろう)

 そんな思いがあるのかもしれない。周囲が言うように、彼女がただ無邪気に行動しているだけではないことは、エレオノーラにも察せられている。しかし、今のところはその正体が何なのか、まだはっきりとは見えない。


 一方、エレオノーラは執務室での用事を終え、廊下を歩いていた。途中、取り巻きの貴族とすれ違うたびに、丁寧な挨拶を返しつつも、その目は鋭く周囲を観察している。

 少し前、彼女がクララに向けて放った言葉を聞きとがめた者たちが、どのような動きをするか。それを把握しておく必要があると思っていた。

 実際、先ほどまで彼女の様子を陰から窺っていた人影があった。その者が公爵派であれ王太子派であれ、証拠を揃えて一気に攻めに出る機会を狙っているのかもしれない。


(いずれにしても、この均衡が崩れ始めるのは時間の問題。わたくしが今こうして強い態度を見せることで、どちらが動き出すのか――楽しみにしておきましょう)


 そんなことを考えながら、エレオノーラは表情をほとんど変えずに回廊の角を曲がる。そこには、先ほど顔を見せなかった者の気配をほんのわずかに感じたが、結局誰も姿を現さなかった。

 夕刻になると、宮廷のあちこちで蝋燭が灯されはじめる。夜の宴ほど豪華ではないが、それなりに人々が集まって会食や情報交換を行う時間帯だ。公爵派の者も、王太子に近しい者も、それぞれが真意を隠しながら会話を交わす。

 エレオノーラはそうした輪に入るでもなく、早めに公爵家の客間へ引き上げるつもりだったが、扉を開けたところで一人の侍女が駆け寄ってきた。


「エレオノーラ様、先ほどクララ様が大理石の床で転んでしまったそうです。大事はないそうですが、外套に泥がついてしまい、お部屋に戻られたとか……」


「それが何か。わたくしに報告しに来るほどのことかしら」


 冷たく返すと、侍女は恐縮しながら言葉を継ぐ。

「クララ様はお気に召しの外套に汚れが付いたので、とても残念がっていたそうで……。もしかすると、エレオノーラ様とのいざこざが原因ではないかという声もあり……」


 そこまで聞いたエレオノーラは小さく息を吐いた。これまた都合のいい話だ。まるで、「公爵家の令嬢が押し倒したのではないか」と勘繰る者が出てきてもおかしくない状況が用意されたように思える。

 だが、それを証明できるものは何もない。クララ自身も自分で転んだのだと言うだろうし、周囲がどう解釈するかは想像に難くない。

 エレオノーラは侍女を下がらせると、人気の少ない廊下を一人進む。淡い光を落とすランプの下で、彼女は自らの影を見つめながら静かに思索に耽る。


(誰かが“いじめ”の事実を作り上げようとしているのかもしれないわね。あるいは、わたくしの振る舞いがそれに利用されているのかもしれない)


 ひとたび“公爵令嬢が平民出身の女性を嫌悪している”という印象が固まれば、あとは些細な出来事でも「いじめだ」「嫌がらせだ」という声が上がるだろう。しかもクララが王太子に目をかけられている立場ゆえ、公爵家は疑いをかけられやすい。

 そうなれば、王太子派は喜んで公爵家を攻撃する口実にするかもしれない。あるいは、公爵派の内側からエレオノーラを排除しようと画策する者も出てくるかもしれない。どちらにせよ、彼女を標的に据える動きが加速する可能性は高い。

 この危うい均衡の中で、エレオノーラはわざと厳しい態度を取り、クララとの対立を演出している。それを周囲がどう見ているかはわからないが、その結果として次第に現れる“影”を掴み取ろうとしているのだろう。


 夜のとばりが下り始めた宮廷では、あちらこちらで小さな灯火が生まれる。光と影のコントラストが強まるほど、背後に潜む思惑がくっきりと映し出されるようだ。エレオノーラは窓辺に佇み、遠くの夜空を見つめたまま、微かに唇を歪める。

 王太子派と公爵派の争いは、まだ表立っては動かない。しかし、その緊張感は少しずつ高まっているのを、誰もがうすうす感じているはずだ。クララいじめという噂がこれ以上大きくなれば、表面化するのは時間の問題だろう。

 そんな中で、誰がどこまで事態を操ろうとしているのか――それは、今はまだ闇の中に隠れたままだ。けれど、エレオノーラはその暗闇に向けて冷徹な視線を投げかけている。


(いずれ、全員が真意を隠せなくなる時が来るでしょう。それがいつかはわからないけれど……)


 部屋の奥から人の気配がしたのを感じ、エレオノーラはゆっくりと扉に向かう。そこには彼女を呼び止める声があるかもしれないし、あるいはただの通りすがりかもしれない。

 いずれにせよ、この静かな均衡が崩れるのは遠くない。その時を待ち構えるように、エレオノーラはわずかに微笑を浮かべ、扉へと手をかけた。

 まるで次の幕が開くことを予感するように、廊下の灯がちらりと揺れ、彼女の影を床に伸ばしていた。

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