第2話 王宮の思惑
宴の熱気は一向に冷める気配を見せず、広間のあちこちで歓声と笑い声が混じり合っていた。シャンデリアの煌めく光の下、貴族たちはそれぞれの思惑を胸に会話を繰り広げている。華やかな音楽に乗せて踊る者、勝手知ったる仲間内で気軽に酒を酌み交わす者、あるいは遠くから周囲を観察する者――立場や地位によってその振る舞いは微妙に異なるようだが、どこか全員が同じ舞台を踏んでいるようでもあった。
「これはローゼンハイム公爵殿。今日の宴は格別ですね。殿下との縁組が正式に決まれば、この王国もいっそう盤石なものになりましょう」
そう声をかけたのは、そこそこの領地を持つ伯爵らしき男だ。彼はかしこまった様子で公爵――レオポルト・ローゼンハイムを迎えていた。
レオポルトは高価な刺繍の入った上着をまとい、堂々たる姿勢で相手を見下ろす。笑みを浮かべてはいるが、その瞳はどこか鋭く冷たい。
「ええ、殿下とのご縁がより固まれば、わたくしの家門も安泰。ひいてはこの国の基盤も揺るぎないものになるでしょうな」
言葉だけを聞けば穏やかで、まるで未来を約束されたかのようだ。だが、周囲でその声を聞き耳に立てる者たちは、それが決して単なる“美談”ではないことを知っている。王太子の婚約者として娘が指名されている事実が、どれほど強い政治的カードになるのか――それは誰しもが理解していた。
レオポルトにしてみれば、エレオノーラこそが公爵家をさらなる高みへと引き上げるための確固たる手段でもある。王家の後継者と結びつくことが、権力闘争の激しいこの国でいかに優位な立場をもたらすかは言うまでもない。
だが、一方の王太子ルシアンも、ただ公爵家の力だけを目当てにしているわけではない。それは彼の穏やかな笑みの裏に見え隠れする計算が物語っていた。
「公爵、娘君の姿が見えませんね。先ほどまで一緒にいらしたが」
「少し休んでいるのでしょう。今宵の宴では随分と注目を浴びておりますからな。娘もさぞかし気を張っていることでしょう」
口では気遣うような言い方をするものの、そこに親としての優しさがどれほどこもっているかは疑わしい。レオポルトはあくまで彼女を“有力な道具”として捉えている節がある。
その場に控えていた取り巻きの貴族たちの耳にも、そんな噂は幾度となく聞こえてきていた。ローゼンハイム公爵が幼い頃から娘に厳しい教育を施し、常に宮廷仕込みの礼儀作法や貴族としての振る舞いを刷り込んできたのは、いずれ王太子との縁談が結ばれる日を見越してのことだ、と。
「公爵。いずれにしても、王太子殿下との結びつきが強まれば、公爵家にとっては安定が約束されるのでしょうな」
「もちろん。もっとも、わたくしのほうからすれば、公爵家の未来だけでなく、この国全体を導く覚悟があるのです。殿下もそうお考えでしょう?」
レオポルトは視線をルシアンへ向ける。王太子は苦笑交じりに頷いた。
「ええ、公爵の協力を得られるならば、王家としても心強い限りです。何しろ公爵家は国で最も大きな領土と軍備を擁していますからね」
それを聞いた周囲の貴族たちは、お追従のように笑いを浮かべながら、二人の言葉に同調する。だが、胸の内ではどこか冷ややかに考えている者も少なくない。領土を有すると同時に、あらゆる闇取引や政治工作にも深く手を染めてきたローゼンハイム公爵家。その権勢が王太子との婚約でさらに増していくとなれば、警戒の声が上がるのも当然だった。
それでも、今はまだ祝宴という名目の場。あからさまに批判を示すことは得策ではない。多少の疑念や不安があろうとも、ここでは笑顔で手を取り合う方が得というものだ。
その一方で、宴の隅でひそかに囁かれている話題があった。それは、先ほどから淡い笑みを浮かべている女性――クララ・ブランシェについてだ。平民出身にもかかわらず、最近急速に王宮で存在感を高めているという彼女の存在を不可解に思う者は多い。
「聞いたかね、あのクララという娘。平民の出ながら、宮廷の行事にしばしば顔を出すそうじゃないか」
「ええ、しかも王太子殿下とも近しい間柄らしい。噂によれば、どこかで不思議な後ろ盾を得たとか……」
「しかし、どうやって? よほどの策でも講じたのか。それとも、誰か有力者が後押しをしているのか……」
そんな憶測が貴族たちの間で飛び交うのは当然だ。下層出身の者がここまで上り詰めるためには、それ相応の手段が要る。
クララは遠巻きに見れば優しい笑顔をたたえ、まるで清廉潔白な人物に映るだろう。だが、それだけで王太子ルシアンの庇護を得るのは難しい。彼女がほんのわずかな時間で宮廷に受け入れられた背景には、必ず何らかの根回しや、計算が働いているはずだと、多くの者が感じていた。
「公爵家の令嬢がいながら、どうしてあの平民の娘が。まるで人々の心を掴む魔力でも持っているかのようだ」
そう呟いた若い伯爵の言葉を、そばで聞き留めた年配の騎士は鼻で笑う。
「魔力などありはしないだろうが、世間に訴える術は心得ているのでは。平民の出だというだけで、かえって新鮮さを感じる者もいるのだろう。この宴でも、特に高い身分でない貴婦人たちには評判がいいようだ」
ある者はクララを王宮に吹き込む爽やかな風と誉めそやす。ある者はしたたかな策略家と睨む。いずれにせよ、彼女の存在がこの宴でも目立っていることは事実だった。
そして、そのことを最も冷めた目で見ているのがエレオノーラなのかもしれない。今しがた少し休むと言って姿を消したが、どこか別室から談笑の様子を伺っているかもしれない。
やがてルシアンは自ら杯を手に取り、人々の前で言葉を述べ始める。ほかの貴族たちはその声を聞き逃すまいと耳を傾ける。
「皆さま、本日はお集まりいただき感謝の念に堪えません。わたくしの婚約については、まだ正式な儀式こそ行っていませんが、公爵家のご好意によって、このような場が設けられたことを喜ばしく思います。父王は今、公務のため出席できませんが、早々に祝福の言葉を賜ることでしょう。どうか皆さま、今後とも王家と公爵家をよろしくお支えくださいますように」
その言葉にあわせて、大広間には拍手が湧き上がる。表面上は和やかで、誰もが期待と祝意を示すかのように見えた。
しかし、レオポルトはもちろん、この国の上層部で政治を担う者たちの多くは薄々感じている。王太子と公爵家が結びつくということは、単なる婚姻関係に留まらず、王国の権力図を大きく変える可能性があるのだ。そこには利害が絡み合う派閥の駆け引きや、互いの弱点を探り合う思惑が渦巻いている。
それを象徴するように、ルシアンの祝辞が終わると同時に、レオポルトが続いて挨拶を始める。
「殿下の仰るとおり、この縁組は我が家にとっても大いなる栄誉でございます。王家に寄り添い、国家の発展のために尽くすこと、それが我がローゼンハイム家の使命。この宴を一つの区切りとし、今後さらに殿下をお支えできればと存じます」
周囲の貴族たちは、改めて盛大な拍手を送る。だが、その多くの視線は、エレオノーラの姿を探していた。せっかくの場であるにもかかわらず、花嫁となるはずの本人がいないままの挨拶は、どこか物足りなさを感じさせる。
実際、エレオノーラは少し離れた回廊の一角に立ち、これらのやりとりを遠巻きに見守っていた。高窓から月の光が差し込む中、薄暗い空間に身を置きながら、彼女は父とルシアンの言葉を静かに聞き届ける。
(わたくしの意思など、どうでもいいのね。父も殿下も、まるで商品の価値を示すように“娘”や“婚約者”という言葉を使うだけ)
その思いは、彼女にとって今さら驚くことでもなかった。幼い頃からレオポルトに仕込まれた礼儀作法、行儀作法、それらはすべて“いつか王家に嫁ぐために必要なもの”だと言われてきたからだ。自分がどのように感じ、何を望むのかなど、ほんの一度でも問われた覚えはない。
そして王太子ルシアンも、エレオノーラの人間性を見ているわけではないだろう。彼女の実家が持つ領土、軍事力、影響力――それこそが婚約者としての真の価値なのだ。
もちろん、彼女自身にも引き下がれない立場や責務がある。その重圧はすでに習い性になっていて、どんな場所でも毅然と振る舞う癖が身についてしまっている。大広間で見せる強気で高慢な態度も、その一端なのだろう。
手すりに静かに触れながら、エレオノーラは深く息をついた。回廊の先からは、クララの笑い声がかすかに聞こえてくる。どうやら同席していた貴婦人たちと話しているらしい。
クララがどのような過去を持ち、どうしてこうして宮廷に出入りするようになったのか、その詳細を知る者は少ない。だが、平民出身の彼女がここまで舞台を広げている以上、相応の才覚や運、そして誰かしら有力者の後押しがあるのだろう。
それを探り合う動きも、すでに水面下では活発化しているに違いない。クララはただ控えめでおとなしいだけではなく、適切な言葉と笑顔を使って人心を掴むすべを知っている。それゆえに、ルシアンも彼女に目を留め、近くに置いているのかもしれない。
「ローゼンハイム様は本当にお美しい。わたくしなど足元にも及びませんわ。でも、王太子殿下を支えるお力があるなんて、同じ女として憧れてしまいます」
回廊の陰から、そんな声が聞こえてくる。クララらしいしおらしい物言いに、他の貴婦人たちは愛嬌のある笑顔を返しているようだ。
エレオノーラはそれを、まるで他人ごとのように受け止めていた。仮にクララがここで何を思っていようとも、宴の場ではその本心が表に出ることはない。絶妙な立ち位置と柔らかい物腰を使い分けて、彼女はこの環境に“受け入れられる”ことを第一に行動しているように見える。
(あの人も、結局は同じなのね。周囲の空気を読み取り、自分の利益を追求する。違うのは身分くらいのもの)
そんな冷めた感想を抱きながら、エレオノーラは回廊を離れようとした。背筋を伸ばして歩みだしたところに、足音を立てず近づく人物がいた。振り返れば、それは父の取り巻きの一人らしい。
彼は軽く会釈すると、小声でこう告げる。
「エレオノーラ様、レオポルト公爵がそろそろあなたのご挨拶も必要だと。皆さまお待ちでございます」
もちろん、そんなことは言われるまでもなく承知している。とはいえ、この場を離れ回廊にまで来たのは、ほんの短い時間だけでも、一人になりたかったからだ。
けれど、この家に生まれた以上、心の内の安らぎよりも、公爵家の威厳を保つ務めのほうが優先される。それをわきまえているからこそ、エレオノーラも応じるしかない。
「わかったわ。すぐに戻るから、そう父にお伝えして」
促す者が頭を下げて去るのを見届けると、エレオノーラはそっと胸の奥で息を吐く。まるで飲み込んだ言葉をかき消すように、再び笑みをつくって大広間へ向かう。
そこでは、ルシアンが再び貴族たちと会話を交わしている最中だった。どうやら、今後の政務や領土の整備について話し合っているらしい。彼の落ち着いた物腰と、それでも内に秘めた野心をちらりと見せる語り口に、人々は一定の敬意を払っているようだ。
「父上がご不在の間、わたくしができることは限られていますが、公爵家との連携を進めるべく、早急に体制を整えたいところです」
そんな彼の声を聴きながら、エレオノーラはそっと近寄り、その場の空気に溶け込むように控える。周囲の者たちが彼女に気づき、軽く会釈をする。
ルシアンは彼女の存在に気づくと、わずかに微笑んでみせたが、その奥の瞳には微妙な色が宿っている。まるで「ようやく戻ってきたのか」という苛立ちと、「だがまあ、今は許してやろう」という寛容さを混ぜ合わせたような表情。
エレオノーラはそんな顔を見ても、眉ひとつ動かさない。ただ、淡々と相手に合わせるだけだ。
(王太子殿下にとって、わたくしが多少席を外そうと大した問題ではないのでしょう。ただ、父や取り巻きにとっては、わたくしの存在こそが取引の要……)
そのことを思えば、もはや呆れるを通り越して諦念しかない。娘としての愛情をかけられた覚えなどほとんどないが、その代わりに植え付けられたのは“公爵家の利益のために生きる”という使命感だ。
かつてはそれでもよいと思っていた。自分に与えられた役割をまっとうすることこそが、生きる意味だと信じ込もうとした。けれども、今、こうして実際に王太子との婚約を目前にすると、あまりにも虚しい現実が浮き彫りになっているように感じてしまう。
広間では引き続き音楽が鳴り、円舞を楽しむ貴族もいる。そこに交じるクララの姿は、先ほどよりもいっそう人目を集めていた。控えめな仕草でありながら、要領よく会話に参加し、時には踊りの輪に誘われて微笑む。どことなく嫉妬を買いそうなほど愛嬌がありながら、誰も露骨には非難できない絶妙なバランスだった。
王太子も、何度か視線を送っているようだ。その理由をエレオノーラは正確には測りかねる。単に目新しい存在だから興味を抱いているのか、それとも別の意図があるのか。いずれにせよ、その目が向けられた先が、自分でないことは確かだった。
「エレオノーラ様、そろそろいかがですか。宴の主人役として、もう少し皆さまの前に立たれるべきかと……」
再び取り巻きが声をかけてくる。どうやらレオポルトからの命令でもあるらしい。
エレオノーラは短く答える。「ええ、わかりましたわ」
こうしていつものように大広間の中央へと赴き、貴族たちに挨拶をする。背筋を伸ばし、一片の隙も見せない微笑を湛える姿は、確かに周囲を納得させるに十分なものだろう。婚約者にふさわしい振る舞いと言えるかもしれない。
だが、その胸の奥にはどこか冷めた光がいつまでも揺らめいている。
(そう……わたくしは皆から見れば“この国の未来を象徴する存在”なのでしょう。それがどれほど皮肉に満ちたことか)
レオポルトやルシアンが思い描くように、この華やかさが国の繁栄を意味するのならば、それも一つの理想かもしれない。だが、そこには彼女の意思も心もなく、ただ“利用価値”だけが取り沙汰される現実がある。
それを見抜いている者たちも少なくはないはずだが、誰も口にしようとはしない。宴の場で嘆きや不満を漏らすのは愚行とみなされるし、表向きは笑顔と祝福の言葉で取り繕うのが宮廷の流儀なのだ。
その流儀を守りながら、エレオノーラは優雅に踊り、酔わない程度に酒を口にする。周囲がそっと耳打ちする政治の噂や、牽制の言葉を受け流しながら、さらにその先へと進んでいく。
(本当にこのまま進むのかしら。この国の全員が、何もかもを見ないふりをして)
クララにしても同じことだ。あれほどの計算高さをちらつかせながら、今は平凡な笑顔を張り付けているだけ。それが王宮で立ち回るための必要な技術なのかもしれないが、エレオノーラの目には、その“飾り”がどこか痛々しくも映る。
そして、ふと視線が合ったとき、クララは一瞬だけ笑顔を引きつらせたようだった。だが、すぐに穏やかな表情を取り戻し、軽く会釈してみせる。
「今宵は皆さま本当に優しくしてくださるので、つい舞踏に熱中してしまいましたわ。ローゼンハイム様も、息抜きに踊られてはいかがです?」
その申し出に、エレオノーラは小さく首を振る。
「お気遣いには及びません。わたくしは、踊りたいときに踊りますので」
クララは申し訳なさそうに笑うだけだったが、心の底では何を思っているのか――そんなことを考える余地さえ、エレオノーラには感じられないほど、今はただ喧騒の波にさらわれている。
やがて夜も更け、宴がひとつの区切りを迎えようとしていた。貴族たちの間には程よい疲労感と、まだ熱の冷め切らない高揚が漂っている。レオポルトは主催者の立場として、今後の正式な婚約発表についてちらりと触れながら、締めくくりの言葉を述べる。
それを聞き届けるエレオノーラの胸には、得体の知れない息苦しさが広がっていた。歓声と拍手の音が大広間に満ちる中、さも完璧に機能しているように見える王宮の裏側が、ゆっくりと動き出しているのを感じる。
(これがわたくしたちの生きる場所。煌びやかな衣装と上辺だけの祝宴の裏に潜むのは、人々が互いを利用し合う醜い現実。それを承知で、この場に立ち続けるしかないというのなら……)
そう思いながらも、エレオノーラは表情を崩さず軽く頭を下げる。
この夜はまだ幕を閉じきってはいない。人々が帰路につくまでには、あと幾度かの儀礼的な挨拶と、こまごまとした応対が必要だ。だが、その奥底では、政治の駆け引きが一段と激化する予感が絶えず渦巻いている。
レオポルトは王太子との縁組でさらなる権力を得ようとし、ルシアンは公爵家の後ろ盾を利用して自分の地位を磐石なものにしようとしている。クララは平民でありながら宮廷に昇り詰めるために何かを隠し持っているようだ。
その狭間で、エレオノーラは周囲から「婚約者としての価値」を求められ続け、逃れられぬ境遇にいる。
広間を覆うざわめきが微かに静まり始めると、彼女はそっと背筋を伸ばしながら自分に言い聞かせた。
(確かに、わたくしにはどうしようもない現実がある。だけど、今のままで終わるとは限らない。いずれ、すべてが大きく動き出すときが来るはず……)
夜の深まりとともに、飾り立てられた世界の綻びが少しずつ顔を覗かせるような気がしてならない。公爵家と王太子の政略結婚、クララの不可解な台頭、そして各地で芽吹き始めている不穏な気配――あらゆる要素が今はまだ小さく見えるかもしれないが、いずれはどうにもならない形で顕在化していくのではないか。
エレオノーラの心の奥には、その不吉な予感がすでに巣食っていた。
そして、そう遠くない未来に起こるであろう激変を想像しながら、彼女は静かに目を伏せる。まるで、この王宮を揺るがす嵐がすぐそこまで来ているということを知りながら、今はまだ踊り続けるしかないと覚悟を決めているかのように――。