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契約が切れて一年が経っただろうか。
あれから亜由美はすぐに新しい派遣先を紹介され、通勤時間を優先して働き始めた。仕事内容に不満はない。これまでの経験をある程度活かせる職場だ。
子を産んだ進藤とは細々と連絡を取り合っていたが、月日が経つにつれ、その間隔も開いていった。仕事と育児に追われているのだろう。縁が薄れていくことに寂しさを覚えながらも、仕方のないことだと割り切るしかなかった。
両親からは相変わらず心配する声が定期的に届いたが、生きていけているのだからと、軽く受け流していた。また雇い止めに遭い、どうにもならなくなったら地元に戻ることも考えるかもしれないが――都会の便利さに慣れてしまった今は、そんな気にはなれなかった。
そんな日々が続く中で――。
インストールしたまま放置していた、かつての会社のアプリから一件のDM通知が届いた。
何だろうと久しぶりにアプリを開くと、送り主のユーザーネームには、『春日部豊』と表示されていた。
――◇◆◇――
「遅くなってごめんなさい! 電車が遅れてしまって……」
「うん、本当に遅かったね」
以前にも似たようなやり取りをしたことを思い出す。あの時はなんて失礼な男なのだと憤ったものだが、続けて「迷ってないか心配したよ」と言われ、亜由美は思わず目を瞬かせる。
一年と少しぶりに再会した春日部は、パーカーにジャケットといういつもの装いだったが、どこかスッキリとした表情をしていた。
「突然呼び出してごめんね。予定、大丈夫だった?」
「はい。……でも、びっくりしました。まさかアプリ経由でご連絡を頂くなんて」
「社員は強制でインストールさせてたからね。退会しないでいてくれたから、ユーザー検索で辿れたんだ」
なるほど、とアプリ経由での連絡には納得する。だが、今さら自分に何の用があるのかは分からない。
まったく見当がつかずにいると、春日部はウェイターにメロンソーダを注文し、「馬場さんは?」と問われたのでアイスココアをお願いした。
「マスクは、花粉症?」
「そうなんです、この時期は本当に酷くて。春日部さんは花粉症じゃないんですか?」
「今のところは大丈夫そうかな」
「そうなんですね。いつでもこちらの世界にお越しください。お待ちしてますよ」
「ハハッ、嫌な誘いだなぁ」
何気ない会話から始まり、愉快そうに笑う春日部を見て、亜由美の緊張も和らいでいく。そのうちに注文した品がテーブルへと届けられた。
「……メロンソーダとは、ちょっと珍しいですね」
「お子様っぽい? 喫茶店ではだいたい頼んじゃうんだよね」
「たまに飲みたくなりますよね。それで……突然ご連絡をいただいた理由を伺っても?」
ストローを軽くかき混ぜながらそう切り出すと、春日部は視線を落とし、しばらく考え込んだ。そしてグラスを見つめたまま、「実はね」とぽつりと口を開く。
「俺さ、会社辞めたんだ」
「え?! そ、そうなんですか?」
驚きに目を見開く。あの会社を辞めた? あんなに忙しく働いていたのに?
「この春から正式に降格も決まってたんだ。だったら、もういいかなって。……ネガティブな理由でしょ?」
「降格、ですか? なんで……?」
期待された若手のホープ。提出物の進捗管理には大いに難があったが、それもリマインドを続けた結果、改善傾向にあったはずだ。
思いもしなかった報告に戸惑っていると、春日部は照れくさそうに頭をかいていた。
「……馬場さんのリマインドメール、今はシステムからの自動通知に変わったんだ」
「自動通知、ですか?」
「そう、コンピューターが決まった時間に送ってくれるの。一週間前、前日、当日の朝……って感じでさ。便利だけど……そんなの、見逃すに決まってるよね」
あはは、と笑う姿に、小野路や進藤の苦労が忍ばれる。何度となくリマインドしてようやく提出したような男だ。それが機械的になり、関心を向けなくなったのであれば――。
「マネジメントの適性なし、だってさ。そんなの最初から分かってたじゃんね?」
「いや、えーと……。ご愁傷さまです?」
「恐縮デス。でもまぁ、それは建前かな。リストラの動きの時にいろいろ口出ししちゃってさ。上からは扱いづらいって思われたんだろうね」
「……そうだったんですね」
実際に早期退職に関わる手続きが発生したのは、亜由美が退社した後だから詳しくは知らない。ただ、進藤とやり取りしていたメールの中で『小野路がやつれすぎてぺったんこになりそうだ』とあったので、対応した人は相当な苦労があったことだろう。
「あれさ、部長が直接説明しないといけなかったの。予算があるからって馬鹿みたいに人増やしてたの、俺の前の部長なのにね。……通知面談でさ。もうすぐ定年だって人には恨み言言われたし、後輩には『あんたらは何の責任も取らないんですか』ってド正論言われて堪えたなぁ。うん、部長なんてやるもんじゃないね」
重たい溜息を吐き、ウェイターを呼び止めるとチョコパフェを注文する。「甘いもの食べないとやってらんないよね」と嘯いているが、きっと、心を擦り減らしたのだろう。
……大きな理想を抱いていた人なのに。会社って、本当に残酷だ。
企業としては「成功事例」だったのかもしれない。でも、切り捨てられたのは、血の通った生身の人間だった。
業績が悪いのでやめてください。
貴方は会社にとって不要と判断されました。
そんなことを言われて納得出来る人がいったいどれだけいるのだろう? 亜由美とて、他人事とは思えぬ話だった。
「本当に、お疲れさまでした」
「ありがと。でも俺の部署はそんなに対象者いなかったから、まだマシかな。……覚えてる? よーこさん。あの人もね、リストラの対象だったんだ。小野路さんが対応したみたいだけど、きっと色々言われたんだろうね。さすがにしばらく落ち込んでるように見えたよ」
「松野さんが……?!」
叱責された嫌な思い出しかないが、女性管理職として華々しく抜擢されたはずだ。そんな人すらも対象になってしまうなんて、と驚きのあまり声が大きくなる。
「そ。ただ、あの人はパワハラで何人か部下を潰してるから仕方ないかな。ほら、覚えがあるでしょ?」
……確かに。あの時は別部署の、しかもやらかした派遣が相手だからあの態度なのかと思っていたが、あの調子で部下にも接したとすれば、今の御時世コンプライアンスに引っかかるのも当然だろう。
「……コンプラ研修、受講してもらったはずなんですけどね」
「動画の垂れ流しじゃみんな内職してるでしょ。それに、自分は関係ないってタイプなんじゃない? ま、あの人も人間性はともかく優秀なのは間違いないから、すぐ転職先を見つけたみたいだよ。退職メールでわざわざアピールしてたし」
かつてのトラウマともいえる存在がリストラの憂き目にあっているとは思わなかったが、驚いたものの、それ以上の感情は湧かなかった。……過去の出来事として、きちんと消化できていたらしい。
「いろいろと大変だったんですね……。それじゃあ、春日部さんも転職ですか?」
「それなんだけどね、会社を立ち上げたんだ。長谷川さんや、俺を慕ってくれた人を誘って、小さいけどソフトウェア開発会社をね。……災害対策専用のアプリを開発しようと思って」
「わぁ……! それはおめでとうございます! 社長さんだなんて凄いですね!」
「大したもんじゃないよ。本当に立ち上げたばかりで、右往左往してる感じ」
謙遜してみせるけれども、起業だなんて、ちょっとやそっとの努力ではできることではない。しかも憧れと言っていた人ともまた働けるというのだから、とてもめでたい話だった。
「いやいや、なかなかできることじゃないですよ。えぇ、なんか私まで嬉しくなっちゃいます」
「ほんと? ありがと。……で、馬場さんはいま何やってるの?」
「私ですか? ……配膳BBAです」
ブッ、と噴き出した春日部に、ニヤリと笑みを浮かべてしまう。
「は、配膳BBAってどういうこと?」
「正確には、ホテルのレストランでウェイトレスやってるんです。昔は飲食業で働いてたんで、その経歴を買ってもらって」
「そうなんだ。……楽しい?」
「うーん、そのへんのレストランに比べれば客層はいいのでマシですかねぇ。……当社比ですけど」
「そうなんだ」ともう一度独り言ちた春日部が、うーんと唸りながら口籠る。だが、意を決したように顔を上げ、まっすぐに亜由美を見つめた。
「……あのさ、馬場さんがよければ、なんだけどさ。……俺の会社に入ってくれない?」
――予想もしなかった提案に、亜由美は面食らってしまう。なにせ、自分は誘われるような能力を何一つ持ち合わせていない。意図が全く分からなかったのだ。春日部の人となりを知らなければ、詐欺だと疑ったかもしれないくらいに、現実味のない話だった。
「……何を、企んでいるんですか?」
「どゆこと? え? 俺、なんか疑われてる?」
「だって春日部さんなら、もっと優秀な知り合いがいくらでもいそうじゃないですか。それに私、人事総務部にいたからって採用とか給与には関わってないですよ? 私にできることなんて……リマインド送るくらいです」
「ええ……本気でそう思ってるの?」
怪訝げに問われ、素直にこくりと頷いた。春日部はまるで理解できないと言わんばかりに頭を振り、はぁと息をつく。
「あのさ、リマインドだけって言うけど、それは案件のスケジュールをきちんと管理してるからできることでしょ? データを取りまとめるのだってそれなりのExcelスキルが必要なわけだし、作業は丁寧で、電話対応も頑張ってたって小野路さんから聞いたよ?」
「でも、それは与えられた仕事なんですから当然のことですよね?」
「その当然のことができない連中、あの会社にたくさんいたでしょ? ……俺も含めて」
「…………」
他の部署の社員の仕事ぶりは正直分からない。だが、欠勤を繰り返す社員がいたり、挨拶も返してくれなかったり、不備だらけの提出物を見るたびに「こんな人でも正社員になれるのか」と嫉妬めいた感情が湧いていたのも、事実だ。
「それにさ。馬場さんからのリマインドメールが来ないと俺、マジで仕事に取り掛かれなかったんだよね。なんだろ、ルーティンになってたのかな?」
「ルーティン、ですか?」
「そ。馬場さんからメールが来たら『やらなきゃ!』ってスイッチが入る感じでね。……いや、本当にその節はお手を煩わせて申し訳なかったと思ってるんだ。でも、退職の意向を小野路さんに伝えたらさ、『起業するにしても、お前には馬場さんみたいな人が必要だ』って言われてさ。もう、その一言で納得しちゃったんだよね。他の人を探そうと思えば探せるけど……やっぱり、最初に声を掛けるなら俺のことをよく知ってる馬場さんだなって」
どこか飄々としていた彼が熱弁を振るう姿に、亜由美の心も激しく揺さぶられる。
――こんなにも誰かに必要とされることなんて、初めてかもしれない。
ただのリマインドBBAに過ぎなかった自分のことを忘れるどころか、こうしてわざわざ足を運んでくれたことに、胸が熱くなる。
「……スカウトってことでいいんでしょうか?」
「そ。今どのくらい年収もらってるか知らないけど、派遣会社に回収されてる分に上乗せくらいはできると思うよ」
「ええと、契約社員ということですか?」
「うちの会社に非正規はいないよ。……正社員でどうかな? 軌道に乗るまでは賞与は寸志程度になっちゃうけれど、もちろん、通勤費も支給させていただきマス」
これまで一円ももらえなかったことを思えば破格の待遇だ。美味しい話すぎて、夢ではないかしらと震えそうになる。
――何よりも、春日部に必要とされている。
それだけで、迷う必要はどこにもなかった。
「……今の契約が二ヶ月後までなんです。不義理はしたくないので、それが終わってからでもいいですか?」
「もちろん構わないよ。……うん、そういう真面目なところも買ってるんだ」
「それは……褒めすぎです」
「そう? 部下は褒めて育てるタイプなんだよね」
それならば職場環境としても申し分ないだろう。
亜由美が「是非に!」と返事をすると、春日部は安堵の表情を浮かべる。
「――良かった。断られたらどうしようって心配してたんだ。……あぁ、これで仕事に集中できそうだ。俺のスケジュール管理も任せたいって思ってるから」
「それは……秘書ってことですか?」
「いいね、実に社長っぽいじゃん。……それじゃあ、お願いできますか?」
「はい! ……あ、福利厚生はどうなってますか?」
亜由美の食い気味の質問に、春日部は苦笑を漏らす。
彼はリュックサックの中から書類を取り出し、「一つ一つ説明するね?」と、雇用契約書をテーブルの上に広げた。
――そして、季節がいくつか巡った頃。
「春日部さん。昨日お願いした業務提携書の捺印、早めにお願いします。それと、明日の採用面接用の資料はサーバーにアップしましたから、面接前までにご確認くださいね。あと、仕様の確認を早くしろって、長谷川さんから何故か私に言われました」
小さいながらも真新しいオフィスで春日部に連絡事項を通達すると、パソコンとにらめっこしていた春日部が、「りょーかい」と手を挙げる。以前はフロアが離れていたからメールでリマインドしていたのに、今ではこうしてデスク横に立って直接伝えられるようになっていた。
まだ会社としては立ち上がったばかり。だが、やはり春日部は優秀だったのか、すぐに企業から案件を取ってきてアプリの開発に着手していた。彼が信頼する部下たちも、慣れた様子で二人のやり取りを聞き流している。
秘書とはいえ、春日部のスケジュールを管理するようになったくらいで、業務内容は大きく変わらない。ときおり鳴る電話を取り、各種ファイルを取りまとめ、郵便物を出してくる。
そして、社長に似たのか、提出物を後回しにする社員たちにリマインドを送るのも、もはや日課だった。
「あ、あと小野路さんが、一人退職者を紹介してくださるそうです。アポ取っておきますね」
「ありがと。助かるよ」
「それと健康診断ですが――皆さん受診義務がありますので、必ず期日内に予約してくださいね」
「……はい」
頬を引きつらせる春日部に、つい笑みをこぼしてしまう。
ミーティングも兼ねて昼食を共にする機会が増えたのだが、「採血の注射が嫌だから健康診断も避けている」という子どもじみた言い訳を聞いて、呆れ返った覚えがある。どうせ退職するからと前職では結局逃げ回ったと聞くし……どうしても嫌がるようなら、すっかり仲良くなった長谷川に一喝してもらうしかないだろう。
「馬場さん、ごめん。明日締切の案件ってなんかあったっけ?」
「明日は大丈夫ですよ。夜に会食はありますけど、それまでは気が済むまでコードでも書いててください」
「それは嬉しいな。……会食の一時間前に、リマインドもらっていい?」
「了解です」
終業後にはなるが、その程度なら問題ない。彼へのリマインドなんてもうすっかり慣れたものだ。
笑顔で応じると、春日部も微笑み、またモニタへと視線を戻した。
――まさか、こんなに充実した日々が訪れるなんて、夢にも思わなかった。
すっかり諦めていた正社員として働けることも。
そして、春日部とこうして肩を並べる日が来るなんてことも。
この先、定年までここで働けるかどうかは分からない。
でも、もしできることなら――彼が理想とするアプリのマスターアップを、この目で見届けたい。
それに、安定した職を得た今、少し欲張りになっているのかもしれない。
――ずっと、この人の傍で、必要とされ続けられたら。
そんな淡い願いが、見て見ぬふりをしてきた感情とともに、胸の奥からこみ上げてくるようだった。
ここまでが亜由美視点、次回からは春日部視点となります(全3話)