07 独身、アラフォー、崖っぷち
年末を迎え、今年も実家に帰省する。相変わらず母親からは「いい人はいないのか?」、「こっちへ戻っては来ないのか?」と口うるさく言われたが、考えておくね、と亜由美は生返事を返していた。
兄も一度は上京したが、結局地元に戻った。親からすれば娘も手元に戻ってきてほしいのだろう。それに、派遣社員という雇用形態への不安もあるようだ。さらには所謂適齢期を過ぎてなお、結婚どころか恋人すら紹介する気配がないことに将来を悲観されているらしい。
だが、母親の言うことも理解できた。
今、亜由美の勤める会社の空気が――とても悪いからだ。
最初は、なんとなく退職願を提出する人が増えたな、と思う程度だった。
だが、四半期決算発表のたびに株価が下がり、主力であるコミュニケーションアプリに対抗するように海外産のアプリが席巻し始めたのも打撃となった。
もちろん、第六開発部の手がけるアプリだけではなく、会社としては飲食口コミアプリや業務アプリなど手広く展開している。だからそれだけで会社が傾くようなことにはならないが、社員の間でも「この会社ヤバいんじゃないか」と囁かれるようになり、次第に食堂でも経営陣への不満の声を耳にするほどになった。
実際、同じ派遣会社から派遣されている別部署の女性社員が契約更新されなかったらしい。派遣会社の担当に「馬場さんは大丈夫だと思うけど……」などとフォローされたものの、不安は拭い去れなかった。
「あんた、いつまで今の会社に勤められるの?」
そう問われても、亜由美にだって分からない。業績が悪化しているのは確実で、そんな状況で真っ先に切り捨てられるのは、亜由美のような派遣社員なのだから。
リフレッシュするつもりだったのに、重たい気分を引きずったまま仕事始めを迎えることになってしまった。
年末年始に溜まったメールをチェックすると、やはり退職願代わりの退職メールが複数件届いていた。
この人たちは、行き先があるから退職を決められるのだろう。
――では、自分はどうだろう?
これまでの派遣業務で事務の経験はそれなりに積んできた。事務系のソフトは一通り使えるし、電話対応も時折困ることはあるものの、もうあんな失態は繰り返さない。あの困った客にだって、今なら毅然とした態度で終話させられるはずだ。
飲食業界での経験もある。今はどこも人手不足らしいし、働き先はあるだろう。
ただそれは、どれも非正規という立場であれば、の話だ。またどこかで働けたとしても、雇い止めの恐怖に苛まれることに変わりはない。
恋人はもう幾年もいない。
婚活する気力も、金もない。
結婚という選択肢がない以上、老後二千万を貯めるまで働き続ける必要がある。
……考えるだけでも頭の痛い話だ。まだ身体も連休気分が抜けきっていない。
切り替えるようにメールをチェックし、データの提出状況を確認する。そして健康診断の未受診者リストの中に春日部の名前を見つけ、呆れるように笑ってしまった。また今年度も騙し討ちする必要があるかもしれない。有給もきちんと取得しているのだろうか?
次年度には労務チームの進藤が育休から復職する予定だ。その時に自信を持って引き継ぎできるようにしなくてはいけない。――たとえ、その時には亜由美自身がこの会社から離れていたとしても、与えられた仕事は最後まで全うするつもりだった。
「……あ、馬場さん、お願いがあるんだけどさ。各部署のフォルダから『検討リスト_最終版』ってファイルを回収してくれない?」
「はい、了解です」
どこか疲れた様子の小野路にそう頼まれ、すぐさま作業に取り掛かる。会社全体を覆う暗い空気は日に日に増していくようで、役員会議室から怒号が響き渡ることもあるほどだった。
「ごめん、内容に不備がないかもあわせてチェックしてもらっていいかな? 空白行がないかだけの確認でいいから」
「了解です」
「……中身、あくまでもただの数値として見てね」
「……? はい、分かりました」
それは、評価データでもよく言われることだ。全社員の賞与データが記載されたファイルの閲覧は、業務上の必要があるため許可されている。とはいえ、いつもこうして小野路から「ただの数値として見てね」と釘を刺される。当然、言いふらすような真似はしないが、それでも個々の賞与額を知ることができる超機密データであることには変わりない。
恐らく今回頼まれたデータもそういった類のものなのだろう。送られたパスワードをコピペしてファイルを開くと――そこに並んでいたのは、『早期退職制度』のための候補者を記した一覧表だった。
早期退職対象――いわゆるリストラの対象とする場合はフラグ列に「〇」、留めたい人材であれば「×」。その隣には簡単な理由欄まで設けられている。
――こんなもの、とてもじゃないが人には見せられない。
だが小野路も多忙を極めている。データの不備や未提出に対するリマインドを亜由美に任せたいのだろう。
ある種の信頼を感じ取り、亜由美は無表情で確認を進める。さすがに自部署のファイルを開いた時は心臓が早鐘を打つようだったが、必要なチェックだけ済ませて静かに閉じた。
「……第六、まだ出てないです」
「だよねぇ、昨日リマインド送ってたけど、どうせ見てないだろうからなぁ。急ぎだから、チャットでつついてもらえる?」
「了解です」
チャットツールの履歴から春日部の画面を呼び出す。最後のやり取りは、年末に送っていた別案件の督促だった。
『忘れてた、ありがとう。良いお年を』
その言葉で締めくくられていたが、『明けましておめでとうございます』という気にはなれず、かといって『今年もよろしくお願いします』と言うのも今の現状を鑑みれば憚られた。
結局、いつものように『お忙しいところ申し訳ないです』から書き出して反応を待つことにする。
『おつかれさん』
『すみません、検討リスト_最終版の更新が確認できなくて、なる早でと小野路さんからもご指示頂いてます』
『あれね、ごめん、夕方までには必ず仕上げるよ』
『お手数おかけします、よろしくお願いします』
既読になったことを確認し、メールのチェックに戻る。最優先で対応してくれたのだろう。昼過ぎにはサーバーのファイルが更新され、『おまたせ、これでお願いします』とチャットが届いた。
すぐに中身を開き、不備がないか確認する。
――あ。
台風の夜。小野路が憧れている人だと言っていた伝説のエンジニア。
その『長谷川大介』の名前の欄に「〇」がつけられている。
いったいどんな気持ちで春日部がその判断を下したのか、亜由美には分からない。ただ、備考欄に「苦渋の判断です」とメモ書きされているのを目にし、あの日、長谷川との思い出を語った春日部の横顔が脳裏に蘇る。
鼻の奥が、つんと痛むのを感じた。
――◇◆◇――
――あっという間に一月も過ぎ去り、亜由美は契約更新の面談を名目に小野路に呼び出されていた。
執務室の一番外れにある会議室。ある程度の防音設計がされているため、叫び声でも上げない限り声が外に漏れることはない。先に会議室で待っていると、時間ぴったりにドアがノックされ、いつもの人好きのする笑顔を浮かべた小野路が入ってきた。
少しやつれたように見えるのは、あの早期退職制度の動きのせいだろうか。かつて『退職勧奨おじさん』などと自虐していたが、誰も好き好んでそんな仕事をするわけがない。心をすり減らしているように見えた。
小野路の心中も、この会社の現状も、亜由美は充分に理解している。
だから、「今後に関する大事な話をするね」と切り出された時、その内容を察するのは容易だった。
「今年の三月末で契約は――終了となります。……正社員にも推薦したんだけどね、今はそんな余力はないんだって。馬場さんにはいつも尽力してもらってたのに、僕の力不足で本当に申し訳ない」
深々と頭を下げる小野路に、亜由美は慌てた。
大丈夫。またどこかに派遣されるだけだ。
この会社にはそれなりに愛着もあったし、自由な風土にも慣れたおかげで「よその会社でやっていけるかしら」と不安がよぎるものの、自分の実力を出し切った結果なのだから、不満はない。
ただ、せめて三年間勤めたかったなという思いと――。
春日部は、ちゃんと三月末までに健康診断を受けてくれるかな、なんて見当違いな心配が脳裏をよぎった。
忙しい時期にも関わらず、「三月は有給を全て使用していい」と言われたので、引き継ぎを終えた亜由美は、各所に『【私信】退職のご挨拶』という優先度を低に設定したメールを送付した。何人かから退職を惜しむ返信が届き、心がじんわりと温かくなる。
最終出社日には寄せ書きと小さな花の置物をもらい、派遣用の社員証を小野路に返却した亜由美は、どこか晴れ晴れとした表情で会社を後にした。
春日部には、個別にメールをした。どうしても彼だけには伝えたかった言葉――『健康診断は予約日に絶対に受けてくださいね!』という一文を添えて。
返信はなかった。ひょっとしたら、亜由美がパソコンの電源を落とした後に何かしらの反応があったのかもしれないが、それを確認する術はない。個人のアドレスを渡していたわけでもないし、会社という環境下でなければ接点すらなかった人だ。
……最初は、面倒な人だと思っていたのに。
彼のことを知るたび、心のどこかで意識していたのは否定できない。
でも、それは燃え上がるような恋にはならなかった。
もうアラフォーだ。先に進むには腰が重たくなりすぎて、恋心を膨らませることもなく、静かに萎ませてしまった。
それに、所詮自分はリマインドBBA。
小野路にとっては、数ある部下の一人でしかない。業績が落ち着けば、新たな派遣を迎え入れるだろう。
春日部に至っては、即座に記憶から消し去るに違いない。
部下ですらない。人事総務部の、口うるさい派遣社員に過ぎないのだから――。