06 理想と現実
――どれくらいの時間が経っただろうか。
別の部屋でシュレッダーをかけていた亜由美は、壁掛け時計に目を向ける。このフロアも大半の社員は帰宅したようで、残っていた人たちはコンビニで買ってきたビールを片手に盛り上がっていた。
いくら自由に過ごしていいとは言われていても――とも思ったが、この会社は常識外れの人間が多いのだ。今さら驚くことでもない。亜由美もすっかり、この企業風土に慣れてしまっていた。
「春日部さん、終わったかな」
自動販売機でエナジードリンクとココアを買い、執務室に戻ると、デスクに突っ伏している春日部の姿があった。……まさか寝てしまったのだろうか? 恐る恐る近づくと、何やらぶつぶつと念仏のようなものを唱えている。どうやら行き詰まっているらしい。
トン、と頭の近くに缶を置くと、春日部が弾かれたように顔を上げた。
「あ、ごめんなさい。驚かせちゃいましたか?」
「いや、大丈夫。帰ったのかと思ったよ」
「挨拶もせずに帰りませんよ。まだ電車も動いてないみたいですし」
仮に動いたとしても鈍行運転になるだろう。幸い明日は土曜日だ。それならば泊まった方がいいと覚悟を決め、すでに会議室に荷物も移動させていた。
「貰っていいの?」
「差し入れです。……大変そうですね」
「愛すべき部下たちの賞与がかかってるからね。適当にやるわけにもいかないよ」
それならばもっと早く手をつければいいのに――と思いながらも、春日部も何かと忙しい身のようだ。カシュッとプルタブを開け、一気に半分ほど飲み干した彼は「ちょっと休憩しようかな」と、鞄の中からポッキーを取り出した。
「馬場さんも食べていいよ」
「ありがとうございます。春日部さんは防災食、もらいましたか?」
「カップ麺常備してるからね、ちゃんと持ってきてるよ」
ほら、と鞄の中から現れたカップ麺を見て、泊まり込みが多い春日部にとって今日は非日常ではなく、日常の延長なのだと妙に納得してしまう。
「人を評価するって、大変ですね……」
「ね。こんなことやりたくてこの会社入ったわけじゃないんだけどな」
「でも、こんなに若いのに部長さんだなんて凄いじゃないですか。会社に期待されてるってことですよね」
何気なく言ったつもりだったが、春日部の表情がわずかに曇った。本心からの言葉だったのだが……言葉選びを間違えたかもしれない。
ポリポリとポッキーを囓っていた春日部は、皮肉めいた笑みを浮かべながらスマホを取り出し、何やら操作した後、ぐいっと画面を亜由美に見せた。
「弊社が提供してるユーザーコミュニケーションアプリ。馬場さんは使ってる?」
「えっと……ダウンロードと会員登録は済ませてます」
「うん、使ってないってことね。これね、開発してるの俺の部署なの。一応、弊社で一番の売れ筋になるのかな」
「そうだったんですね。不勉強ですみません……」
どこの部署が何を作っているのかは範疇外で、亜由美が把握していたのは「この会社がどんなアプリを提供しているのか」くらいだった。ただ、そのアプリはCMでもよく見かける有名なものだ。まさか春日部の部署が開発していたとは、と感心してしまう。
「ユーザー同士で位置情報を確認できて、簡単なやり取りができるんですよね? 私は特に位置を共有するような相手もいなかったので、あまり使いどころがなくて……」
「そうだよね。……実はこれ、最初はあるコンセプトを元に作ってたんだ。でもね、会社の方針で全く違う路線になっちゃったの。結果的に登録者数は爆増したんだけどさ」
「へぇ……。最初はどんなコンセプトだったんですか?」
ポッキーを噛み砕いた春日部は、過去に思いを馳せるように沈黙し、ぽつりとつぶやいた。
「……大震災、あったでしょ? あの時はメールも電話もなかなか通じなくて、みんな海外製のアプリで連絡を取り合ってたんだ。……有り難かったけどさ、正直悔しかったよね。なんで国産のアプリでそういうのがないんだろって。だったら俺が作ってやるんだって思って、あの時はまだ学生だったから、主だった企業に絞って就活したの」
――大震災。それはもう十年以上も前の話ながら、あの日のことは亜由美の記憶にも色濃く残っている。
あの時、亜由美は新卒として採用された飲食業で働いていた。まだ接客が好きで、バイトの延長のような気持ちで選んだ会社だった。
食器が散乱してぐしゃぐしゃになった店内を片付けながら、両親となかなか連絡がつかずに歯痒い思いをしたことを思い出す。両親はSNSなんてやっていなかったから、連絡手段が限られていたのだ。
「もっとシンプルで、災害時には伝言板代わりになるようなアプリを作ってたんだけどね。位置情報が確認できるって点が学生の間でウケちゃって、災害関連のコンテンツは、ターゲット層に合わないって理由でどんどん削られたの」
企業として売れ筋を狙うのは当然の判断だろう。だが、春日部にとっては自分の理想が歪められたようで、複雑な心境だったに違いない。
「まぁ、成績が上がれば予算も多めに振られるからいいんだけどさ。……でも、部長なんてやりたくなかったよ。狙って売り出したわけでもないのに持ち上げられて、若手部長なんてメディアに露出してさ。肝心の開発に割く時間はどんどん減るし、そもそもマネジメントなんて俺には向いてないんだ。……分かるでしょ?」
そう自嘲気味に問いかけられ、亜由美は肯定も否定もできなかった。会社からの期待を受けての抜擢には違いないはずだ。部下や外注会社からの信頼も厚いと聞く。
ただ、本人も自覚している通り、事務仕事は壊滅的といえるだろう。日々のアドミン業務だけがマネジメントというわけではないが、適性がないと見る人もいるだろうし、実際、そう評価する声もあるようだ。
部長という立場ではどうしても管理業務が増え、採用面接にも参加しなければならない。現場の作業に時間を割こうと思えば、休日勤務や深夜残業でカバーするしかない。そんな日々に、春日部は大きな不満を抱えているようだった。
「……でも、春日部さんが提出してくれるデータ、不備がほとんどないので、その点は助かっていますよ」
「ほんと? それならよかった。よその部長に相談したら『そんなの副部長に任せればいい』なんて言われたけどさ。新人部長だからこそ、データの中身や制度の仕組みをちゃんと理解しないとダメじゃんね。自分が理解できないのに、他の人に任せられないよ」
――なるほど。だから小野路が何度となく「補助をつけては?」と助言していたのに、頑なに自分で済ませていたのかと納得した。責任感がとても強い人なのだ。ただ、多忙を極めて事務作業にまで手が回っていないだけで――。
「……うん。とは言いつつも締切破っちゃうのは、せっかくパソコンを触れる時間なら開発を優先させなきゃって気持ちがあるからなんだけどさ。あと俺、夏休みの宿題は提出日の直前にやるタイプで。……はい、言い訳です。ゴメンナサイ」
「……いえ、お忙しいのだから、ある程度は仕方ないと思います」
……元々そういう性格ということもあるかもしれない。ただ、実情を知る前と後では印象が大きく変わる。
能力は高いけれどいい加減でお調子者。
そんなイメージはすっかり覆されてしまった。
「……ごめんね、なんか一人で語っちゃったね。もう少しで終わるから、社長報告には間に合うよね?」
「はい、全然大丈夫です。……本当にお疲れ様です」
「いやいや全然。馬場さんには本当に助けられてるんだよ。リマインドメールをこまめにくれるから、完全に忘れることはないし」
ありがとね、と穏やかに微笑まれると、「KS」と隠語で小野路と罵り合っている手前なんとも言えない気持ちになる。
ポッキーをすべて平らげた春日部は、少し言いにくそうにした後、亜由美に問いかけた。
「馬場さんって派遣さんだったよね? 契約はいつまで?」
「えっと、一旦は年度末までです。また一年更新してもらえたら、ちょうど丸三年になるので……長くても再来年の三月まで、ですね」
「そっかぁ。……そっかぁ」
一人で何かを納得したような顔をする春日部に違和感を抱いたが、それ以上何かを語る様子はない。静寂が包む中、亜由美の視線は鞄から顔をのぞかせるカップ麺に留まった。
「……カップ麺、おいしそうですね。私もカップ麺にしようかな」
貰ってきた防災食の中にはレトルトのカレーとカップ麺があった。お湯でも入れてこようかと亜由美が立ち上がると、春日部がつられて顔を上げる。
「……馬場さんさ、今の仕事楽しい? この会社、好き?」
突然の問いかけに戸惑いながらも、亜由美は小さく頷いた。
「とても良くしてもらっていますし、いろいろと勉強させてもらっています。この会社も最初は自由な風土すぎて驚きましたけど――良い会社だと思います」
「……そっかぁ」
「春日部さんは、どうなんですか?」
話の流れでつい尋ねてしまうと、聞き返されるとは思っていなかったのか、春日部は目を丸くし、顎に手をかけて悩むような素振りを見せつつも、軽く首を振る。
「……昔は良かったんだけどね。エンジニアとして憧れている人もたくさんいるし。長谷川さんっていうね、伝説のエンジニアがいて、とても刺激になるよ。最近は第一線から退いちゃったけどさ、うちの部署で相談役として活躍してもらってるんだ」
「そうなんですね、伝説って……すごいですね」
「この会社を軌道に乗せた人だよ。過去の遺物だとか老害だなんて言う人もいるけどね。……小野路さんもさ、今は人事総務で活躍してるけど、昔は凄腕のプログラマーだったんだよ?」
あの小野路が? まるで想像もつかず、「えっ?!」と驚く。確かにExcelやAccessに詳しく色々と教えてもらうこともあるが、どうしてそんな人が今は人事総務部の副部長なんてやっているのだろう?
「あんまり詳しくは知らないんだけど、なんかやらかしちゃったみたいでさ。それでそっちに異動したんだけど、俺と違ってマネジメントの適性があったみたいだね。いろいろ助けてもらってるし、小野路さんには本当に頭が上がらないよ」
「私もです。本当に頼りになりますし、なんていうか……すごい方ですよね」
「ね。てかあの人、どうせ俺のこと『KS』ってまだ言ってるでしょ?」
「――えーっと」
部署内での隠語ではあったが、まさか本人も知っているとは思わなかった。なんと答えるべきかと悩んでいると、春日部は気分を害した様子もなく、「昔っからそうなんだよ」と笑った。
「昔は俺も天狗になってるところがあったからさ。KSだのKYだの言われたもんだよ」
「KY、ですか?」
「下の名前、豊だから。あと、会議で空気読まずに先輩方に逆らいまくって小野路さんに怒られまくってたから」
どうやら愛のある隠語だったらしい。ホッと胸を撫で下ろす。きっと、亜由美が知らない、長い信頼の歴史が二人の間にはあるのだろう。それは亜由美がこれまでに得ることのなかった、特別な繋がりのようにも感じられた。
「――ま、そんな憧れの先輩方もいるわけだけど。……今は少し窮屈かな。まぁ、悪くはないよ。この会社に世話になったのは事実だし、もう少し頑張ってみるつもり」
「……転職、考えてます?」
「ないしょ」
悪戯に笑う姿は、どこか哀愁を帯びていて、心臓がきゅっとなる。
どうしてそんな感情が湧いたのか分からない。ただ、普段は見せない表情に戸惑っただけかもしれない。
亜由美はその気持ちを振り払うように、二つのカップ麺を手に取り、給湯室へと足を向けた。