05 不要不急の外出は控えろと言われても
失態を取り戻すべく、亜由美は仕事に邁進した。無理しなくていいよと小野路は言ってくれたが、電話もさらに率先して受けるようになった。
この会社では派遣は最長でも三年までしか契約できない。よほど能力が高ければ紹介派遣に切り替えて直雇用される道もあるが、際立った得意分野もない亜由美には、みなが嫌がる仕事を率先して請け負うことしかできなかった。
だから、台風の影響で「不要不急の外出は控えろ」という気象庁からの警告が昨夜から出ている状況ではあったが、重要な資料の取りまとめがあることもあって、迷わず出社した。
「馬場さん、上期評価データの取りまとめ状況はどう?」
「ええと、第六とカスタマー部が未提出です」
「……あの二人さぁ、本当にさぁ、何回言ったら分かってくれるんだろうね?」
「何回言っても駄目なタイプなんでしょうねぇ……」
「よーこさんには僕がリマインドしとくから、KSお願いできる?」
「はい。……すみません」
松野に完全に苦手意識ができてしまった亜由美は、申し訳なさそうに小野路に頭を下げる。「いいのいいの」と軽く返されたが、最近の小野路は社内制度改革の中心として忙しそうにしていた。派遣として仕事を減らすどころか増やしてしまっている現状に、心苦しさを覚える。
それにしても、春日部にも昨日メールを送っていたのに結局未更新のまま期日を迎えてしまった。最近は前日にリマインドすればその日のうちに対応してくれていたのだが、やはり賞与を決める評価データともなると一日では難しいのかもしれない。
下期では二日前にリマインドを投げようか。そんなことを考えながらメールを作成していると――。
「――まずい、電車止まったみたい」
気象情報を気にしていた小野路が顔を曇らせる。あらかじめ分かっていた事態なのでリモートワークに切り替えた社員が大半だったが、亜由美は派遣社員という立場ゆえにパソコンの持ち帰りが許されていなかった。
「何線ですか?」
「ほとんど全部。だってほら、予め止めるって言ってた路線もあったでしょ?」
「おお……夜には再開しますかね?」
「どうかな、早く台風が行ってくれればいいんだけど。……ちょっと上と相談してくるね」
恐らく今残っている社員に早期帰宅を促すかどうかの検討をしに行くのだろう。とはいえ、もう電車が止まってしまった以上はどうしようもない気もするが――。かくいう亜由美も、どうしようもない一人だ。
もともと直ぐに止まる路線な上に通勤時間は一時間以上かかる。……泊まり込みかな、と覚悟はしていたので、歯ブラシなどを持ってきて正解だったようだ。
しばらくして社内放送が流れる。それはやはり「帰れる人はとっとと帰れ、帰宅困難者は会社に残ってもいい」というお達しだった。社内サイトにも同様の通知が上がり、近場から通っている者やまだ止まっていない路線の利用者は慌ただしく退社していく。
「こんな状況でリマインドなんかしたら、さすがに鬼か……」
人事総務部が「早く帰れ」と言っている中で仕事の催促をするのもどうなのだろうか? ……いや、リモートワークをしていればワンチャンあるかもしれない?
チャットツールを開くと、春日部は在席を示している。必要なデータであることには違いないので、様子だけ聞いてみることにした。
『春日部さん、お疲れ様です、人事総務部の馬場です。お忙しいところ大変恐縮なんですが、今日って在宅ですか?』
ほどなくしてチャット画面に「入力中……」の文字が表示され、『会社ー』という返事が返ってきた。
『なんかあった?』
『いえ、帰宅命令が出ているところ大変恐縮なんですけど、評価データのご状況っていかがですか……?』
『うん、本当にごめんね。いま頑張ってるところ』
一応、覚えてはいたらしい。それにどうやら今まさに作業中のようだ。とはいえ、こんな状況では夕方に予定されていた各部の取りまとめ結果の社長報告も流れてしまうことだろう。
今日は金曜日。休日勤務を促すようで気が引けたが、最悪日曜日中に仕上げてもらえれば問題ないと伝えようかと思ったところで、小野路が戻ってきた。
「評価の報告、月曜の朝一にリスケになったよ。馬場さんは帰れそう?」
「いえ……止まってるみたいです。泊まっていこうと思うんですが、大丈夫ですか?」
「うわぁ、ごめんねぇ。昨日のうちに部長を説得しておけばよかったよ。僕も残りたいんだけど、娘を迎えに行かなくちゃいけなくて……下手したらこの部署で一人になるけど、大丈夫?」
「大丈夫ですよ、逆に申し訳ないので、早く娘さんのお迎えに行ってあげてください」
ほんの少し不安もよぎったが、亜由美のために小野路を引き止めるなんて申し訳なさすぎて胃が痛くなる。それに彼は大層な親馬鹿だ。こうしている間にも、すぐにでも帰りたくて仕方がないだろう。
「休憩室にあるものは全部使って構わないから。総務チームで防災食の配布や毛布の貸し出しもやってるから、遠慮せずに借りてね?」
「私もそっちを手伝ったほうがいいですか?」
「大丈夫大丈夫、気を遣わないでいいから。仕事も切り上げてのんびり過ごしててよ。早く復旧するといいんだけどね」
「分かりました、くれぐれもお気をつけて……!」
「今日はみんな所定時間働いたってことにしておくから、そのへんも心配しないでねー!」
最後まで亜由美を気遣いながら小野路も執務室を出ていく。部屋に残されたのは、亜由美一人だった。
話したこともない社員が残るよりは気まずくない。むしろ逆に良かったかもしれない。そうポジティブに考えながら、亜由美は総務チームの受付に向かった。
受付にはそこそこの人が並んでいた。窓口対応をしている人たちもこうなってしまっては帰るに帰れないのだろう。仕事の一環とはいえ気の毒に思っていると、奥の情報システム部から一人の社員が出てきた。パーカーの上にジャケットを羽織るその姿は、先ほどチャットでやり取りをした春日部だ。
「……あれ? 馬場さんは帰らないの? 帰れない?」
「はい、止まっちゃいました。春日部さんはご自宅近いんですよね?」
「そ。モニターのケーブルの調子が悪いから貰いに来たの。みんな偉いよね、こんな天気なのに真面目に働いて」
「それは春日部さんもなのでは……?」
「あれ、褒めてくれるの?」
「いえ、残念ながら期日を過ぎてますので」
だよね、と朗らかに笑う姿に、亜由美もつられて笑ってしまう。台風の影響で会社に泊まる、という非日常の中に片足を突っ込んでいたはずなのに、いつもと変わらぬ春日部の姿を見て不思議と安心感に包まれた。
「小野路さんは? 帰っちゃった?」
「娘さんのお迎えがあるみたいで。部長はいるみたいですけど、役員室に詰めてるそうです」
「他の人は?」
「今日はリモート組が多くて私だけなんですよね。……あ、春日部さんも気をつけて帰ってくださいね」
窓口に並ぶ列が途切れたのを見て、春日部に挨拶をした亜由美も防災食と毛布を受け取りに向かう。寝床は執務室内の会議室を借りればいいだろう。
ただ、のんびりしてていいと言われたものの、時間は有り余っている。
運行情報を気にしながら、せっかく誰もいないのだからとキャビネットの片付けに手をつけていると、執務室のロックが解錠される音が響いた。誰だろうと顔を覗かせると――。
「……春日部さん? どうしたんですか?」
「んー? 評価データ、一応は今日中でしょ? ここでやっちゃおうかと思って」
「えぇ……家に帰ったほうがいいんじゃないですか? 今なら雨も弱まってそうですし」
「家にいても会社でやっても同じだからね。それに俺の家、洪水ハザードマップに入っちゃってるから、こっちの方が安全なんだよ」
そうなんですね? と首を傾げるも、なぜこの部屋に来たのかはよく分からない。自分のデスクでやればいいだけの話ではないだろうか?
疑問が顔に出ていたのだろう。春日部は亜由美のデスクの隣にノートパソコンを置くと、肩を竦めて笑った。
「第六もほとんど全員帰したんだ。残ってるやつもいるけど、俺がデスクで仕事してたらみんなも仕事しちゃうでしょ? やりたい奴にはやらせとけばいいけど、気を遣わせたくないからさ」
……そんな気配りも出来る人なのに、どうして提出物を期日内に提出する、という基本的なことが出来ないのか不思議で仕方なくなる。
同時に、部長に推薦された理由が『実力のある若手』というだけではないのだと、なんとなく分かった気がした。
「邪魔だったら戻るけど、いい?」
「邪魔だなんて、とんでもないです。お好きな席を使ってください」
一人のほうが気楽で良いと思っていた亜由美も、春日部なら良いかと思ってしまう。そんな空気を作ることが出来る人なのだ。与えられた仕事を淡々とこなすだけの自分とは、根本的に違うのだろう。
凄いな、と思うと同時に――……自分の中でうまく言語化できず、ただ「凄いな」と語彙力の落ちた感想が浮かぶ。
カチカチとマウスを操作する音が聞こえてくる。その表情を盗み見ると、春日部は真剣な顔で画面に向き合っていた。
窓には大粒の雨が叩きつけられ、ごうごうと鳴る風が不安を煽る。どうやらまだ暴風圏内にいるようだ。その合間を縫うように、春日部がキーボードを叩く音が聞こえてくる。気を散らせてはいけないと、亜由美は外れにあるキャビネット内の片付けに集中する。
――ああ、進藤さんが顔を青くしながら探していた書類はここにあったのか。もう不要かもしれないが、念のため労務チームのキャビネットに移動させておこう。
シュレッダーは音が大きいから、別のフロアのものを使ったほうがいいだろう。定時近くになれば仕事を切り上げ、会議室でスマホでも見ながらのんびりしてもいいかもしれない。
段取りを考えながら備品の補充をしていると、不意に春日部が「あー!」と声を上げながら頭を掻きむしっていた。突然の声に驚いて、ビクリと肩を震わせる。
「ど、どうしました?」
「いや……、休職者の賞与ってどうなるか知ってる?」
「……ええと、確か休職期間で按分されるみたいです」
そんなやりとりを小野路が別部署の部長とメールしていたのを目にした。
疑問が解消されてスッキリしたのか、「ありがと」と返事をした春日部は、再び難しい顔をしながらパソコンに向かっていた。