03 こうして一年は過ぎていく
年末年始を実家でだらだらと過ごした亜由美は、連休ボケを引きずったまま会社へ出社した。
結婚はいつするのか、いい相手はいないのか――母親のお小言を適当に聞き流せば、実家は快適だった。
だが、上げ膳据え膳の生活に加え、お餅の食べ過ぎで少し太った気もする。
恐る恐る脇腹の肉をつまむと、やはり指に挟まる肉の量が増えている。
体重計には恐ろしくてしばらく乗っていない。三十路を超えると痩せにくくなる上、肉がつきやすくなるという悲しい現実を突きつけられつつあるが――そろそろ本格的になんとかしないとまずいかもしれない。
今年の目標は運動だ。
そう決意し、七階まで階段で上がろうとしたら――三階の扉の前で立ち尽くす男の姿があった。
何をしているのかと訝しみつつ、「お疲れ様です」と声をかけて通り過ぎようとした瞬間、男がパッと急に振り返った。どこか焦った様子のその男は、春日部だった。
「あ、すんません! 鍵を開けて欲しくって――って、馬場さんじゃん」
「……春日部さん?」
首には、通常ならぶら下がっているはずの社員証がない。
……なるほど、締め出されたのか、と亜由美は即座に理解する。自分も何度か経験があるからだ。
「社員証、忘れてきたんですか?」
「そ。まさか階段から外に出るにも社員証が必要とは思わなかったよ」
セキュリティの関係で、そういう仕様の会社も少なくない。
とはいえ、業者用に内線電話があるはずだが……と目を向けると、「この時間、まだ来てる人少ないんだよね」と、問いかける前に説明された。
たしかに、開発の人間は出社が遅い傾向にある。しかも年明け初日とくれば休みを取る社員も多いだろう。
すっかり途方に暮れていた様子だった。
「年始早々、災難でしたね。――はい、開きましたよ」
「ありがと、助かったよ。……ああ、七階に行けば人事総務部の誰かしらがいたのか。思いつかなかったよ」
「焦ると忘れちゃいますよね。ええと、第六まで行く必要ありますよね?」
「ごめんね、付き合ってもらえるとありがたいです」
「ゲストカード、いりますか?」
「デスクに置きっぱなしなだけだから大丈夫。ありがと」
それなら、春日部を部屋まで送っていけば問題ないだろう。ただ、二人で並んで廊下を歩くのは、なんとなく気まずい。
扉を開けたらすぐに戻ろう――そう思っていると、春日部は途中の自販機で足を止めた。
「馬場さんは、コーヒー? 紅茶?」
「え?」
「お礼に一本」
「そんな、大丈夫ですよ」
ただ社員証をかざしただけで、そこまでしてもらうのは気が引ける。
遠慮していると、ガコンという音がして、取り出し口から650mlの麦茶が現れた。
「借りを作るの、好きじゃないんだよね。お茶ならいけるでしょ?」
真冬に、量を考えなければ――だが。
とはいえ、これ以上断るのも気が引ける。春日部を困らせるだけだろうと判断し、亜由美はペットボトルを受け取った。
一方の春日部も道すがら缶のプルタブを開け、エナドリを傾ける。
さすが開発職。朝からすごいものを飲むなと感心しているうちになんとなく戻るタイミングを逃し、そのまま春日部のデスクまで同行してしまった。
春日部の言うとおり、まだ開発の人間は出社していないようだ。
室内は部長デスクの周りだけ照明がついていた。
「……もしかして、休日出勤してました?」
「そ。マスター控えてるから、年末年始返上でね。で、コンビニ行こうと思ったらデスクに社員証を忘れてったってわけ。……たまには階段で運動でもするか、なんて考えるもんじゃないね」
そう言いながら、デスクの片隅に置かれていた社員証を手に取り、首から下げる。
改めて見ると、春日部の服はくたびれているし、無精髭もうっすら伸びている。目の下には薄く隈が残り、年明け早々から疲労の色が濃い。
「まさか泊まり込みですか?」
「家は近いから風呂に入りには帰ってたよ? ……え? 臭い?」
そう言って脇のあたりをくんくんと嗅ぎ出す姿に、思わずプッと吹き出してしまう。
年明け早々に階段で運動しようとした姿勢も含め、なんだか親近感が湧いてきてしまった。
「大丈夫ですよ。ただ、お疲れみたいだなぁって思いまして」
「ほら、最近はサブロクきょーてーとかうるさいでしょ? だから管理監督者の俺が働くのが、一番面倒がないんだよね」
首をコキコキと鳴らしながら、春日部は椅子に座る。
デスクの周りは雑然としていて、つけっぱなしのPCを触ると、モニターに画面が表示された。
「……あんまり無理しないでくださいね。倒れたら大変なんですから」
「ありがと、世話になったね。……ごめん、俺、なんか忘れてる仕事ある?」
「ええと、確認してみないと何とも言えませんが、登用データはやりましたか?」
「……いつまでだっけ?」
「……今日の9時半までです。後でリマインドメール送っておきますね」
「ごめんね、なる早でやるね」
「そうしてもらえると助かります」
春日部はPCに視線を落とし、仕事を再開するようだ。
デスクの奥に、食べ終わったカップ麺の容器がいくつも重なっている。
それを見つけた亜由美が「捨てときますね」と容器を手に取ると、春日部が少し慌てたように顔を上げた。
「何から何までごめんね。俺、馬場さんのリマインドメールで仕事思い出すからさ。面倒かけて悪いんだけど、よろしくね」
まさに『リマインド』メールなのだなと、なんとも複雑な気分になる。
本来ならメールを送る前に対応してほしいのだが――。それでも、頼られていると思うと悪い気はしない。
なにせ派遣という、いつ切られてもおかしくない立場だ。他部署の人間の役にも立っているなら、それが評価に繋がる可能性もある。
「はい、確認次第、メール投げますね」
軽く頭を下げてその場を離れると、「ありがとね」と、どこか柔らかな声が背中に投げかけられた。
結論から言えば、春日部は登用データ以外にも、二つの案件の期日を過ぎていた。
あの疲れた様子を見ると催促するのも気が引けるが、登用データは社長にも報告する重要な資料だ。すぐに回収しなければまずい。
優先順位をつけ、案件ごとにまとめて順番にリマインドメールを送ることにする。
……そういえば。直接顔を合わせたにも関わらず、新年の挨拶を言いそびれてしまった。
――――――
TO:春日部 豊
CC:人事総務部_事務局
件名:※Remind※ 登用データ提出のお願い
春日部さん
お疲れ様です。人事総務部の馬場です。
今年もよろしくお願いします。
新年早々に恐縮ですが、登用データの提出が確認できておりません。
至急、ご対応のほどよろしくお願いいたします。
人事総務部 馬場
――――――
部署のメーリングリストもCCに含めたが、この程度の挨拶ならビジネスマナーとして問題ないだろう。
「KS、予定が埋まってて健康診断の予約取れないんだけど……」
隣に座る進藤が、すっかり困り果てた様子で頭を抱えている。
この規模の会社ともなれば、従業員には年に一度の健康診断受診が義務付けられている。未受診者がいると、労務管理の観点からも厄介なことになるからだろう。
「てかさ、有給も五日取ってもらわないといけないんだけどさ。あと三日分、三月末までに消化してくれると思う?」
「……年末年始も返上で働いてたみたいなので、厳しいかもしれないですね」
「ああああああああ!」
錯乱した進藤をなんとか宥めつつ、二人で春日部の勤怠実績を確認する。
マスターアップはもうすぐと言っていた。それが終われば、多少は余裕ができるかもしれない。……とはいえ、年度末は年度末で何かと忙しくなるものだが。
「……馬場ちゃん、KSのことは頼んだね」
「いやいやいや、無理ですよ……!」
「メールでもチャットでも直接でもなんでもいいから! 引きずってでも連れてってくれればいいから! ……もう社長に言ってもらうしかないかな。てかさ、部長がこんなんだから部下もだらしなくなるのよ……!」
相当鬱憤が溜まっているらしい。
妊婦にストレスは厳禁だと考えつつも、亜由美は「頑張ります……」と返すだけで精一杯だった。
――結局、登用データは午後一時に無事提出された。
『遅れてほんとにすみません。今年も何卒よろしくお願いします』
メールを確認した小野路が呆れたようにぼやいている。
「……なんだか殊勝な態度だけどさ、だったら早く提出してほしいんだよね」
「ええと……でも、当日中に提出できただけ、成長してますよね?」
「ハハッ、本当にそうだね。……成長速度は牛歩だけどね」
各部署からの登用データを統合し終えた小野路は、「『第六開発部、未提出』って赤ペンで書いて社長に報告するとこだったよー」と朗らかに笑いながら、出力した資料を持って社長室へ向かった。
――ちなみに。
春日部の健康診断は、「セミナー」と称して嘘の予定を設定することで、なんとか受診させることに成功したらしい。
「会議室に誘い込んでね、そのまま小野路さんと両脇抱えて健診クリニックまで連行したの。……どんだけ手間取らせるのよ、子どもかよ……!」
おかげで、今年の受診率は百パーセントに達したそうだ。
晴れやかな顔で進藤は産休へと突入し、「来年度は任せたね!」と重たい宿題を残して去っていった。