10 部長の責務(Side_春日部)
怒り狂う松野のことは小野路がうまく取りなしたらしい。昔からそうなのだ。松野は既婚者である小野路に対して、何かと気を引くような素振りを見せる。さらに、小野路の信頼を得ている様子の馬場の存在が気に入らなかったのだろう。……あくまでも、春日部の見立てに過ぎないが。
この一件を小野路が社長にどう報告したのかは分からない。だが、「すぐに呼んでくれてありがとね」とポッキーを差し出されたので、口止めだと判断しそれ以上の詮索はやめておいた。
馬場もあんな人前で罵られては相当こたえたことだろう。涙を堪えながら頭を下げていた姿を思い出すと、もやもやとしたものが胸の奥に広がる。
だから、台風で帰れなくなったと言う馬場の元を訪れたのも――義務感もあったかもしれないが、ただ気になったからだった。あの奥まった執務室に一人だけ取り残されるのは、さすがに心細いだろうと。
評価データと格闘する中、彼女と会話を交わしているうちに、入社したばかりの青臭かった自分を思い出す。
大震災の経験を基に防災アプリを作ろうと思っていたはずなのに――今では若者向けのコミュニケーションアプリに心血を注いでいる。
それ自体は悪いことではない。会社の業績を考えれば、妥当な判断とも言える。
だが、多忙を理由に、自分が何をしたかったのかを忘れてしまっていたのも事実だった。
「……馬場さんはここで寝るの?」
「はい、会議室の中でのんびりさせてもらおうかと。……机の上で寝るのはまずいですよね。椅子でも並べようかな」
「救護室を借りてもいいんじゃないの? ……ああ、他にも利用者がいるかな」
「そちらは他の方にお譲りしますよ。春日部さんはもう更新完了しましたよね? ご自宅に戻られるんですか?」
一瞬悩んだが、さすがにここに居座るわけにもいかない。会議室ならば中から施錠もできるだろうし、仕事が終わった以上はただ馬場に気を遣わせるだけだ。
「んー、俺は酒盛りにでも参加してこようかな。一仕事終えて、いい気分だしね」
「それは楽しそうですね。食堂も盛り上がってましたよ」
「そっか。じゃあちょっと顔を出してみるよ。馬場さんもお疲れ様。……鍵、かけ忘れないようにね?」
「ありがとうございます。春日部さんも、明日はちゃんと帰ってゆっくりしてくださいね」
それは単なる労りの言葉か、それとも十二日を超えて連続勤務中なことを暗に指摘されているのか。
どちらにせよ気遣われていることには違いない。どこか優しい声色が、心地よかった。
それ以降も相変わらず忙しい日々を過ごしていたが、臨時の部長会が開かれたのは、十月も終わる頃――。
「……早期退職制度、ですか?」
社長の説明を受け、最初に声を上げたのは第三開発部の部長だった。あそこは最近成績が振るわない。鳴り物入りのアプリ開発が頓挫し、プロジェクトが空中分解してしまったのだ。第六開発部では考えられないことだが、手の空いた部員が暇を持て余していると聞く。
「幅広く希望者を募るということですか?」
「いえ、それでは優秀な人材ほど流出してしまいますから……各部で選定し、説明会を実施した後に個別に説得にあたっていただきます。成績が芳しくない者、勤務態度に難がある者、そして勤続年数が長いだけの方も対象です」
その後に続く施策の説明どおりであれば、第三開発部からは相当な人数を選ばねばならないだろう。もちろん第六開発部とて他人事ではない。直近の評価の低い者や成長の見込みがない者を、忖度なくリストアップせよというお達しだった。
当然、抗議の声を上げる者もいた。だが、右肩上がりだったはずのこの会社の業績が、近年落ち続けているのも、また事実。
『致し方なし』
そんな空気が、経験の長い部長たちを中心にじわじわと広がっていく。
誰もが口を閉ざす中で沈黙を破ったのは、最年少であり部長歴の浅い春日部だった。
「……いや、俺は反対です。業績が悪いからって、そんな簡単に切り捨てられるものじゃないですよね?」
「もちろん保障は手厚くするつもりです。あくまでも会社都合ですので、転職支援サービス会社と提携し、退職金も上積みします」
「それなら率直にお尋ねしますけど、上には何の責任も無いと言い切れるんですか?」
「選定対象は全社員です。当然、我々も含まれます」
この制度の主導者でもある小野路の言葉に場が静まり返る。どこか安全圏にいると思っていた部長たちが、現実を突きつけられて再び沈黙した。
「後日、それぞれの部署の社員データを配布します。期日厳守で、お願いします。また、絶対に外部へ漏れることのないよう徹底してください。副部長への相談も厳禁です。対象者の選定は、各自が責任を持って行ってください」
改めて口外を禁じられ、苦々しい表情を浮かべる者もいる。人員の多い部署ほど途方もない作業になるだろう。春日部も、今から気が遠くなるようだった。
「……俺はまだ二年目です。部員のことを、すべて把握出来ているわけじゃありません」
「それでも今、部長なのはあなたです。適宜ヒアリング頂き、過去の評価データを基に責任を持って判断してください。……過去にどれほどの実績を上げていようと、今この会社に貢献できていない者は、対象に含めるべきです」
「ここまでこの会社を成長させてきた先輩方に敬意すら払えないんですか……!」
「……今は転換期なのです。大胆な舵取りをしなければ、会社の存続すら危うくなる。感情論では経営は成り立ちません。社員を守るためにも、どうかご協力ください」
捲し立てながらも、春日部にも分かっていた。
この会社の未来を思えばこそ、今やらねばならぬのだと。
暗礁に乗り上げてからでは遅いということも。
社長が深々と頭を下げる。
部長たちは、重い溜息を吐きながらも、反論を飲み込む。
春日部も、それ以上何も言えなかった。
デスクに戻り、送付されたファイルの中身を確認すれば、見知った名前がずらりと並ぶ。
最近、子どもが生まれたと喜んでいた後輩や、定年後も働き続けるつもりだと意気込んでいた先輩の顔が、次々と浮かんでは消えていく。
「……最悪だ」
なぜ自分がこんなことをしなければならないのか、まるで理解できない。
どうしてこの会社に入社した?
災害時に役立つアプリを作るためではなかったのか?
それなのに今、自分は何をしている?
ファイルを開いては、何も更新できずに閉じるだけの日々が続く。社内には暗い影が差すような、陰鬱な空気が漂い始めていた。さっさと作業を終えた部長たちもいるのだろう。密かに"説得"された社員たちが、一人、また一人と会社に姿を見せなくなった。
「……春日部。今夜飲みに行くぞ」
「長谷川さん……。いや、そんな気分じゃ……」
「いいから。先輩の言うことは聞いておくもんだ」
よほど酷い顔をしていたのか。めっきり酒に弱くなったと言って昔ほど飲みに誘わなくなった長谷川が、珍しく神妙な顔をしている。それを見て、春日部は静かに頷いた。
馴染みの居酒屋で、カウンターに肩を並べて座る。注文したポテトを摘まんでいると「相変わらず子ども舌だな」なんて揶揄われた。
「うまいじゃないですか、ポテト。ここのは塩気がちょうどいいんですよ」
「まぁなぁ。だが、歳を取ると油もんがキツくてな……」
そう自嘲気味に笑う長谷川は、塩辛をつついている。――きっと、長谷川は例の件について言及したいのだろう。だが、緘口令が敷かれている以上、春日部の口からは言い出せない。
開発中のアプリの話でお茶を濁していたが、会話が途切れたタイミングで、長谷川がおもむろに口を開いた。
「……俺を最初に選べ」
何を指しているのか、わからないほど春日部も馬鹿ではない。だが、思いもよらぬ言葉だったことに違いはなかった。
「何のことですか?」と、微かに震える声で尋ねると、長谷川は呆れたように笑った。
「人の口に戸は立てられねぇんだからよ。今この会社で何が起こってるのか、みんな、薄々察してるんだよ。お前が死にそうな顔でモニタを睨んでるのだって、分かってる。……俺も対象のはずだ。だから、まずは俺を皆の前で面談に呼び出せ。そうすりゃ、後は話が早いだろ?」
「無理です。嫌です。俺がどれだけ長谷川さんに世話になったと思ってるんですか……」
「だからこそだよ。確かに昔は世話焼いてやったけど、今はただの相談役でしかないだろうが。……俺もエンジニアの端くれだからな、新しい技術や設計思想なんかは常にキャッチアップしてきたつもりだよ。でもな、やっぱり実際に手を動かすとなると、若い連中のスピードには敵わないんだ」
エンジニアである以上、日々進化する技術に追いつくため学び続ける必要がある。だが、長谷川は後れを取るようになっていた。
そうは言っても過去の技術や経験が無駄になるわけではない。システムの歴史を理解し、最適な設計や技術選定を後進に伝えることもまた、重要な役割だ。長谷川はまさにその役割を担っていたはずなのに――。
世話になった人に対して、自分は何をしようとしているのか。
悔しさと歯がゆさで、頭がおかしくなりそうになる。
「歴だけは重ねちまったからな、すっかり高給取りだろう? こんなロートル、いつまでも残しておくわけにはいかないんだよ。次のことだって、どうとでもなる。フリーランスでもやっていけるだろうしな。……俺クラスの人間でも対象になるんだと分かれば、他の連中も納得しやすいだろ?」
長谷川の言うことは、理に適っている。頭では分かっている。
だが、それを春日部が呑み込むには、まだ時間が必要だった。
「……俺、こんなことをするために会社に入ったわけじゃないんです」
「そりゃそうだろ。お前、誰が人を切るためなんかに会社に入るんだよ。……でもな、誰かがやらなくちゃならないんだ。今回はたまたまお前だっただけで、十年前なら、俺がその立場にいたかもしれない」
「それでも、俺は……!」
理解はしている、でも納得ができない。酒の力もあるのだろう。涙声になりながらなおも言い募ろうとする姿は、まるで駄々をこねる子どものようだった。
ずっと呆れたように笑っていた長谷川が、スッと真顔に戻る。真正面から見据えられたその表情は、これまで春日部が叱られるときに向けられてきたものだ。
条件反射のように背筋を正すと、肩を掴むように手が置かれた。
「お前は、使われなくなったレガシーコードを、いつまでも抱え込むような男じゃなかっただろう? ……俺のことは本当に気にするな。だから、もし俺を削ることで空く枠があるなら、それは若手のために残してやってくれ」
「長谷川さん……」
「退職金はどんくらい上乗せされるんだろうな? ちゃんと説明してくれよ、部長さんよ」
――果たして、自分が年を重ねたとして、こんな達観した男のようになれるのだろうか。
この人には、一生敵わない。
そう、改めて理解し、春日部は微かに頷いた。




