01 一年目、春
――――――
TO: 春日部 豊
CC: 人事総務部_事務局
件名: ※Remind※ 予算確認データの提出について
春日部さん
お疲れ様です。人事総務部の馬場です。
先日ご依頼した予算確認データにつきまして、昨日が提出期限でしたが、いまだ確認が取れておりません。
お忙しいところ恐縮ですが、なるべく早めにご対応いただけますと幸いです。
何卒よろしくお願いいたします。
人事総務部 馬場
――――――
どうせ提出していないだろうとは思っていたが、やはり案の定だった。
最終更新日が依頼日で止まったままのExcelファイルを確認し、いつものようにリマインドメールをしたためる。
「馬場さん、おはよう。修正予算データ、提出状況は?」
「すみません、まだ三部署が未提出です」
「……あれだけ期日厳守って言ってるのになぁ。どうせ、いつもの部署でしょ? リマインド送っておいてくれる?」
「了解です」
ポチッと送信ボタンを押せば、メール自体は確実に届く。だが、相手が目を通すかはまた別の話だ。
お昼まで待って反応がなければ、チャットでも催促する必要があるだろう。メールならまだしも、リアルタイムでのやりとりが発生するチャットは、正直なところ少し苦手だ。それでも、電話をかけるよりは気が楽だと、この会社のチャット文化に改めて感謝する。
さて、次は健康診断の受診状況の確認だ。
提携医療機関から送られてきたファイルにパスワードを入力し、リストを展開する。そして、未受診者一覧の中に『春日部 豊』の名前を見つけ、思わず溜息が漏れた。
「本当にこの人は……」
担当者から「もう三年も健康診断を受けていない」と聞かされている。早急に受診を促さなければならないだろう。
別案件とはいえ、同じ相手に何度も催促するのは気が引ける。
しかし、これも仕事のうちだ。受信トレイの中から健康診断のやりとりのメールを検索し、再びリマインドメールの作成に取りかかった。
派遣社員として大手IT企業に勤める馬場亜由美は、主に雑務を担当していた。
かつては飲食業界で正社員として働いていたが、世界的な感染症の影響をモロに受け、会社都合で解雇となった。
特別なスキルもなかったため、仕方なく派遣会社に登録して気づけば数年。幸い事務職の適性がCランク程度にはあったようで、各社を転々としながら働き続けていた。
そして今度の派遣先は、誰もが知る有名IT企業。CMでも流れる主力アプリを提供し、亜由美ですら名前を知っている会社だった。
大手ならば、きっと福利厚生も整っているだろう――。
そう期待して喜び勇んで派遣されたのだが、いざ蓋を開けてみれば、そこは社会不適合者の巣窟だった。
「ごめんねぇ、うちの会社、ちょっと変わった人たちばかりだけど、まぁそのうち慣れるから」
出社初日、亜由美を出迎えたのはよれよれのTシャツにハーフパンツという、およそ社会人らしからぬ格好の男。しかも、この男こそが直属の上司だった。
確かに「楽な格好でいいよ」とは聞いていたが、初日くらいはとスーツで出社した亜由美は完全に面食らう。しかも足元はサンダルときたものだ。
この上司が特別なのかと思いきや、廊下ですれ違う社員たちもみな似たような服装だった。コンビニでも行くのかな? といった装いの集団が、会議室では真面目に議論している。
いくつもの会社を見てきたが、ここまでラフな職場は初めてだ。明らかにスーツ姿の亜由美のほうが浮いていた。
「明日からは普通の服でいいからね? スーツだとみんな萎縮しちゃうから」
「そ、そうなんですね……」
「あと、時間にルーズな人が多いから、会議を設定するときは遅刻も見越してね」
どうやらこの会社では裁量労働制が採用されており、昼前に出社する社員も珍しくないらしい。あまり馴染みのない勤務形態だったが、遅刻という概念はないのだろうか?
毎朝満員電車に揺られ、十五分前には出社するのが当たり前だった亜由美にとって、この会社の文化はまさにカルチャーショックの連続だった。
肝心の仕事内容は、主にメールでのやりとりだ。
カスタマーハラスメントに辟易していたせいだろうか。飲食業界にいたにもかかわらず、人と対面で話すことに苦手意識が芽生えていた亜由美にとって、この環境はむしろありがたかった。
だが――。
「……あの、第六開発部のデータ、また未提出です」
「またぁ? 期限ぶち破るのが当たり前になっちゃってるんだよね。リマインドメール送っておいてくれる? 第六ってことは、KSのとこでしょ?」
「……けーえす?」
「部長の春日部のこと。事務作業が壊滅的に向いてないクソでカスだから、KS」
思わぬ毒舌に吹き出しそうになる。確かに、亜由美が知る限りでも春日部という男が期日内に提出物を出した試しはなかった。
「あと、よーこさんとこも出てないんじゃないかな? まとめて送っておいて」
「了解です」
どうやら、この小野路という上司は、部長たちの名前を隠語や渾名で呼ぶのが常らしい。
また一つ、この会社の独特な文化を知った亜由美だったが、さすがに真似をするのは憚られた。
亜由美の毎日の業務は、提出物を取りまとめ、未提出の部長に催促のメールを送ることが主だった。ありとあらゆる案件に対して、リマインドメールを送りまくるのだ。
案件によっては一日に何度も同じ相手に送ることもある。その都度、メールの冒頭には『お忙しいところ大変恐れ入りますが』や『重ねてのご連絡となり大変恐縮ですが』といった枕詞を付けるのだが……こんなの、受け取る側も嫌にならないのだろうか?
「馬場さんもすっかり仕事に慣れたみたいだね?」
「そうですね。そろそろ『リマインドBBA』なんて呼ばれててもおかしくないんじゃないかなって思ってます。ゴミ箱に振り分け設定されてたらどうしましょう?」
「っはは! 面白いこと言うね! ババさんだから、リマインドBBA?」
どうやら上司のツボに入ったらしく腹を抱えて笑っている。なんとなく思いついた自虐ネタではあったものの、真面目一辺倒だと思われていた亜由美の発言は思いのほか上司のお気に召したようだ。
「じゃあ僕は、退職勧奨おじさんかなぁ。小野路だから」
それは冗談でも笑えない……と思いつつも、小野路は陰の気を漂わせながら、一番奥の会議室へと消えていった。……恐らく、問題社員との個別面談が控えているのだろう。
小野路の指摘通り、苗字と名前をBBAにかけたこともあるが――実際問題、亜由美ももう四捨五入すればアラフォーという年齢。
我ながら渾身のあだ名を思いついてしまったな……。そう自嘲気味に笑った。
***
「――馬場さん、悪いんだけど、これをKSのところに持っていってくれない?」
いつもの調子で軽く声を掛けられ、小野路に渡されたのは灰色の封筒だった。
「あいつ、何度『取りに来い』って言っても来ないんだよ。デスクに置いても気付かないかもしれないから、手渡しでお願いできる?」
「分かりました。……ええと、重要な書類なんですか?」
「資格試験の結果。今どき紙かよってね」
なるほど、それなら確かに直接手渡したほうが良さそうだ。納得した亜由美は封筒を受け取り、早速春日部にチャットで連絡を試みる。同じ部署以外の人間と対面する機会などほとんどないが、業務の一環であれば対応せざるをえない。
――が、返事がこない。
チャットのステータスは在籍を示しているはずなのに、春日部からの反応はなかなかない。仕方なく、お昼ごはんに行こうとジャケットに袖を通したところで、ようやく返信が届いた。
『今から五分以内なら席にいます』
「五分……!」
あまりにも急すぎる。だが、この機会を逃せば次はいつ捕まるかわからない。KSと罵られようと春日部は部長であり忙しい身なのだ。予定表を見ても、いつもみっちりと予定が詰まっている。
仕方ない。封筒を手に取りエレベーターホールへ急ぐ。
しかし、ちょうどお昼時と重なってしまい、エレベーター前には人が溜まっている。乗るのは到底無理そうだ。
一瞬だけ迷ったが、時間を無駄にするわけにもいかない。踵を返し、急いで階段へと向かった。
春日部のデスクは、役職持ちらしく第六開発部の一番奥にある。
フロアに入ると、パソコンに向かっている彼の姿を見つけ、小走りで駆け寄った。
「春日部さん、ですよね?」
なにせ、直接会うのは初めてだ。社内サイトの社員一覧で顔写真を確認したとはいえ、やはり実物はどこか違う。
写真では眼鏡をかけていなかったので若干の不安を覚えたが――呼びかけると、春日部と思わしき男は胡乱げに顔を上げ、眼鏡の位置を整えた。
「遅くなってすみません。先ほどチャットでご連絡した、人事総務部の馬場です。こちらをお届けに来ました」
「うん、本当に遅かったね」
思いもよらぬ返しに、完全に虚を突かれた。
確かに、数分は遅れた。でも、社会人ならここは嘘でも「お疲れ様」くらい言う場面ではないだろうか?
客相手ならともかく、同じ会社の人間にこうもストレートに言われたのは初めてだ。何も言い返せないまま固まっていると、春日部は封筒を受け取り、手早く中身を確認した。
……と思ったら、何を思ったのか、次の瞬間、そのまま封筒を突き返してきた。
「悪いんだけど、シュレッダーしといてくれる?」
「え、でも……大事なものなんですよね?」
「結果なんてネットで見られるし、証明書もオンラインで確認できるんだよね。これはわざわざ紙でも送ってきただけで、ほんと、時間と紙の無駄遣い」
そう言いながら、封筒を亜由美の手に押し戻す。
そのままノートパソコンを片手に持ち上げると、社内携帯の着信に応答しながら立ち上がった。
本当に忙しい人なんだな……。呆気に取られながらもそんなことを思っていたら、春日部は肩で携帯を挟みながら、ちらりと亜由美を見た。
「……馬場さん、だっけ? 君がリマインドBBAさんかぁ。いつもごめんね、手を煩わせちゃって」
軽く手を振りながら謝罪の意を示し、春日部は足早に席を離れていく。
――リマインドBBA。確かに、自分で言い出したことではある。
でも……なんでこの人が知ってるの?!
言葉が出ないまま、ただ呆然と立ち尽くす。
気づけば春日部の姿は消え、手元には、乱雑に開封された灰色の封筒だけが所在なげに残されていた。