大河を歩く
二十四歳の無職 兵護優太郎は小中と虐めてきた吉川連の殺害計画をたてるが失敗、その後社会復帰を目指してアルバイト探しをするも決まらず家出。山で死に絶えるも白い世界で第二の人生を送る。
風を切りながら坂道を自転車で下っていく。汗が風に飛ばされズボンの裾がなびく。Tシャツが肌に張り付き、左にある棚田を過ぎていく。黄色いガードレールを尻目に坂道が終わり左に曲がると道なりにH駅の方へと進む。長くこの町に住んでいると学生時代の記憶が混ざってそれを振り払おうと速度を増す。右折して綺麗に草刈りがされた国道を進みバス停を通り過ぎ駅に着いた。自転車を押してすぐ近くにある駐輪場に停めて輪状の鍵をかけると額の汗をハンカチで拭いて鍵類を左の後ろポケットに入れた。
駅の構内に入り切符を百八十円分買う。昨年新しく設置された改札機に切符を入れて、一番ホームの電車が来るだろう四両目の端に待つ。十三時十一分発までは十分ぐらいある。そこらへんに落ちている空のペットボトルをゴミ箱に捨てて、汚れた手と上半身の汗をハンカチで拭く。他人が見ていたらこんなことできるはずもないが今は僕一人だ。変な目で見られるわけにもいかない。元の場所に戻ろうとすると炭酸ジュースのペットボトルがまだ落ちているのを見つけた。ゴミ箱にもう一度行くのも面倒でどうしようか考えていると悩む時間より行動した方が楽なことに気付きそれを拾ってゴミ箱に捨てた。(そういえば小学生の頃、登校中にゴミを拾って校長に褒められたことがあった)元の場所に戻りながらそんなことを考えて立ち止まる。腕組みをして学生時代を思い出す。夏の教室で授業を受けていると手から汗がじわっと出てくる。小学生から高校生まで手汗は一年を通してかいていた。幸い運動をやっていた時は一役買っていてくれていたけれど、普段の生活では困ることが多かった。誰かと手を繋ぐときは嫌な態度をとられたり、機会はなかったけれど女の子とも手を繋ぐことが難しいと思っていた。ネジなんかも触ると錆びて使いにくくなる。(もしもこの手汗が何らかの病気の特効薬になるのであれば僕は大金持ちになるだろう。それで一生静かな場所に犬と暮らすんだ)そんなことを考えているうちに駅のスピーカーから音楽が流れ始めた。上りの黄色い電車がやって来る。終点はI駅らしいが、そこまで長く居たことはない。音を立てながら止まりドアが開く。誰も降りる気配はなく軽やかに乗り込み入り口付近の席に座る。バッグを隣に置いてハンカチで上半身を拭く。エアコンが効いて涼しくはあるものの、汗は止むことはなく流れ続ける。笛の甲高い音が聞こえるとドアが閉まった。電車特有の車輪が回る音が響き渡り景色がだんだんと過ぎていく。僕の時間も過ぎていく。ここ数年時間に追われることはない。その影響からか心にゆとりが生まれた。腕時計を見る回数も減って人の顔を見る事も減って非常に満ち足りた生活をしていると自分でもわかる。この四両目には十人程度乗車しているが、一人ひとり好きな事をしている。新聞や雑誌を読む者、携帯電話を触る者も居る。そんな姿を見ていると速度が遅くなり次の駅に着いた。降りる人はいないようだが、数秒後に若い女の人が乗車してきた。高校生くらいにも見える幼さで髪の毛は黒色、白と黒色を基調とした服が彼女を際立たせている。どこに座るか見渡している様だが目の前に座った。自然と彼女を目で追う。すぐに携帯電話を取り出し何やら忙しそうに画面を触っている彼女は、こちらの視線に気付いたのか僕を見てきた。すぐに視線を外し床を見る。綺麗な人だなと思って顔を思い出す。(もしこんな人と付き合えたら人生とんでもなく楽しいのかな)と考えているともうじきSN駅に着くらしい。この女の子ともここでお別れかと寂しくなり、視線を向けると目が合った。恥ずかしくなり立ち上がってドアの前に立つ。女の子も気になってくれたのかと思うと心が躍った。その後の甘い展開も想像したが流石に有り得ない妄想で我に返った。
停車した電車の窓からコンクリートの建物を見て無残な自然が悲鳴もあげられずに鎮まっていると思うと先程の女の子なんてすぐにどうでもよくなった。ドアが開き電車を降りて改札を出る。外気と触れた体から汗が噴き返しエアコンの効いた場所に早く行きたいが目的地のホームセンターまで十分は歩かなければならない。ハンカチで額の汗を拭いて歩き出す。コンクリートの上を歩くだけで熱気が足に伝わり、駅前にいるタクシー運転手はエアコンが効いた車内にいて羨ましいが、とんでもない客を乗車させることがあると思うと、まだ歩くだけの方が断然マシの気がしてくる。信号が青になり歩き出して左折すると弁当屋が左に見えて唐揚げ弁当、四百二十円の旗が生暖かい風に揺られていた。立ち止まり昼ご飯は何を食べたか思い出そうとするがなかなか思い出せず頭に手を当てて考えていると食べていないことを思い出した。(そういえば朝起きてお茶を飲んだだけで固形物は食べていなかった)熱中症にはならないと思うが早くホームセンターに到着して、木材とビスそして砂を買って帰りたい。弁当屋と本屋を通り過ぎ、ようやくホームセンターに辿り着いた。車止めに腰かけて少し休み店の中に入って行く。生温いエアコンが効いた店内はそれほど涼しくはなかったが、外よりはいくらかマシだった。先にビスを探し籠に入れる。木材は隣接された建物に並んでおり、どの種類を買えばいいか分からなかったが、杉材の長さ六十センチ幅九センチ厚さ二・五センチを四本と同じく杉材の長さ四十五センチ幅四・二センチ厚さ一・八ミリを一本、長さ六十二・五センチ幅六十二・五センチのベニヤ板そして、レジに行き珪砂を買った。店員さんにいろいろ言われたが聞き流した。袋に入れてもらって歩くが重たく持ち歩きにくい。店の外に出てタクシーを呼ぶことも考えたが勿体なさすぎるという理由で脳内会議の結果却下された。
来た道を戻っていくと行きよりも短く感じた。SN駅に着き切符を買ってホームの椅子に座る。腕時計を見て時刻を確かめる。帰りの電車は十四時二十六分に到着予定だ。それまで何をして時間を潰そうか考えていると、一昨日ネットショッピングで頼んでいた電気溶解炉が既に届いていることを思い出した。三か月悩んで購入を決断した品物で
「早く帰って試してみたい。」思わず声に出して、辺りを見渡した。ずれたマスクの位置を整えると生暖かい風が駅のホームに吹いて思い出したようにハンカチを取り出して額の汗を拭く。ゆったりとした時間が過ぎていく。空を見上げる。電車到着前の音楽が鳴り響く。重たい荷物を持ち一両目の丁度ドアが開くだろう場所に待った。黄色い電車が段々と大きくなり風をまき散らしながら停車する。ドアが開き降りる人を待って乗車する。ドア付近の席に座り笛の音が二回してドアが音を立てながら閉まる。電車がSM方面へと進んでいく。行きとは違う荷物を隣に置いて一息つく。人の量は行きと変わらないくらいで若者はほぼいない。
「あの先生は駄目よ」僕よりも何年も年を重ねた女性がそう言った。気になって聞き耳を立てていると、女性二人が病院の話をしているようだった。他にも子供の話だったり、同年齢の女性の話だったりと話題が尽きないのかと僕は心配した。次の駅に着きドアが開くも誰も乗り降りせずすぐに電車は動き出した。普段と何も変わらない光景に少し飽きてきた僕は突然叫びたくなった。今ここで全裸になって電車ポッポーと叫んだらどうなるのだろうと想像するが面白くもないことをして何になるのだと思って止めた。窓の外の風景を見ると赤色の瓦が通り過ぎていき、流れていく家には人生があって僕がその人と関わりを持つ事は無いに等しいぐらいの確率で・・・急に冷めた感情が押し寄せてきた。と思ったらH駅に到着した。電車を降りて改札機に切符を通して駅を出る。自転車置き場に行き鍵を開けていつの間にか左手に持っていた重たい荷物を自転車の右ハンドルに掛けて九月の日差しを受けながら自転車をこぐ。
車庫に到着して自転車を止めた後、重たい荷物を左手に持ち替えて玄関に向かう。玄関の前には、段ボールが丁寧に置かれていた。鍵を開けて重たい荷物を置き、段ボールも中に入れた。早く開けたい気持ちはあったが先に手を洗い、汗で体に張り付いた下着以外の服を洗濯機に入れた。重たい荷物と段ボールを二階にある自室へと運ぶ。部屋の中は外にも匹敵するほどの暑さですぐにでもエアコンを起動させたかったが電気代が年々高くなっている今、無駄遣いは控えようとそのまま買ってきた荷物をビニール袋から勢いよく取り出す。そして慎重に木材とビス、珪砂を床に置く。
「これで砂型鋳造が出来る」僕は震えと興奮した様子で言った。今までは遠慮していたけれど好きなように動けて買いたいものを買ってすごく充実した日々を送っていると僕自身思う。他人から見てもそう映っているのだろう。段ボールをカッターナイフで開けると箱に梱包された電気溶解炉と亜鉛の金属板が出てきた。それらを先程よりも慎重に取り出した。
「よし、オッケー」抑えきれないほどの感情の高ぶりが僕を快楽へと導いていた。一通り飛び跳ねた後梱包された箱を開けて中身を取り出す。付属された取扱説明書と注意書きの紙をゴミ箱に捨てて電源ケーブルを本体に接続した。コンセントに挿せば使用可能な状態になる。もう一つの亜鉛の金属板はアルミ缶と合わせて亜鉛アルミニウム合金を作る。無職は外出の後何かをしようとするのは体力的にもつらい部分はあるが、長さ六十センチの杉材を使って枠を作っていく。L字を二つ作りそれらを合わせて四角形が出来たらビスでとめていく。次に長さ六十二・五センチのベニヤ板を、作った杉材の下に合わせてビスを六ケ所打ったら枠が完成した。着ていた下着も汗が絞れるほど濡れて水分補給のために一階に降りる。二、三日洗っていないコップに冷たいお茶を注いで一気に飲み干す。空いたコップに氷を入れてもう一度お茶を注ぎ入れて飲む。
「最高過ぎ」食道から胃に流れていく気持ち良さに、今までの頑張りが報われたようだった。お茶を飲み干し残っていた氷を数個口に含むと自室に戻る。でき上がった枠を壁に立てかけて氷をガリガリと噛んでベッドに横になった。一息つくと携帯電話でバイクツーリングの動画を見る。知らぬうちに寝落ちしてパッと起きた時刻は十八時二十分だった。急いで一階に降りて父親が買ってきてくれていたコンビニ弁当を食べて二階へと上がる。
小さい窓を開けて外を見ると紫色の雲が見えた。あと二十分もしたら暗くなる。少し外を眺めていると星がだんだんと姿を現わす。夏から秋にかけての西の空には何座が見えるかは知らないがそこにあるという事実だけで安心する。またベッドに横になった。瞼を閉じてそして、一週間前のことを思い出す。現在二十四歳の僕、兵護優太郎は無職で友達もおらず家族との関係も良くない。高校までは通いその後近くのコンビニとカラオケ屋でアルバイトをするもバックレている。その罪悪感から働くことが億劫になり実家暮らしを六年間している。そして、深夜コンビニに炭酸ジュースを買いに出た際小学校から中学校まで同じであったクラスメイトを見かけ、当時虐められていたことを思い出した。頭の中が赤黒い感情に支配されると血流が早くなり足に力が入らず店の外で彼らがいなくなるのを待った。落ち着くまで待ち炭酸ジュースを買った。自室に戻り電気を暗くした。当時を思い出して冷静に考えてみると現在無職の理由はクラスメイトに虐められたことが原因だと結論に至った。全てアイツが悪い。部屋の窓を開けて星空を眺めてベッドで寝た。翌朝クラスメイトを殺害しようと決意した。(そいつを殺せば僕は変われると思った。後の事よりもやらなければならないという使命感が湧いてきた)使う凶器は自作の刃物で、ガソリン入りの携行缶を持って夜中に放火する計画を午前中のうちに練った。出来上がった時完璧だと思った。
そして現在ベッドの横になって僕のこれからについて本当に正当性があるか、刑法を無視して自然界に生きる動物としてやっていいことなのかを考える。
いつの間にか朝になって昨日出来上がった木の枠を見る。完璧だと思うと、一階に降りてテレビショッピングを見る。頭を使わないで見られるのが朝にちょうどいい。シャワーを浴びてTシャツと短パン姿でテレビをもう一度つける。チャンネルを変えて国営放送の【世界のニュース】を見る。声を当てている女性に興味がわきつつコップにグレープジュースを注いで一気に飲み干す。父親は朝早くから出勤したらしく会うことはほとんどない。帰宅時間も遅く僕になるべく合わないように生活している。不出来な息子には興味がないらしい。(思い返せば小学校に入る前から見放されていたように思う)代わりに姉二人には期待しているようだ。どちらも働いて社会のために貢献している。朝ご飯のコンビニで買ってある梅おにぎりを食べながら家族のことを思い出していた。
グレープジュースでおにぎりを流し込むと部屋に戻った。
砂型鋳造に必要な物は一式揃えてあるが型を作らなければならない。刀をどのような形にするのかは決まっている。杉材の長さ四十五センチ幅四・二センチ厚さ一・八ミリをノコギリで刀の形に合わせて切らなければならない。長さはそのままで刃の先端を尖らせ、持ち手のところを幅三センチメートルに合わせて切る。木材に鉛筆で下書きを書いていく。大体が決まるとノコギリで切っていく。部屋の中に切りくずが舞う。終わると良い出来になった。型としてはこのままで十分だが紙やすりで整えていく。百均で買った十枚入りの安物だが次第に滑らかになっていく。型が完成すると汗で床が濡れていた。それよりも切りくずが足の裏に付いて歩きづらくすぐに箒とちり取りで掃除をした。窓も開けて喚起をすると生暖かい風が吹いてきた。小休憩をとり、いよいよ金属を溶かしていく。外に必要な荷物を持ち出して耐火レンガを敷いていく。なるべく平らにして木の枠の中に珪砂を入れる。足で踏みながら隙間なく珪砂を枠の七割くらい入れて先程の型を上に置く。その周りに珪砂を再び入れて押し固める。ヘラで枠に溢れている珪砂を平らにして型をゆっくり珪砂から外していく。すると木の形の跡がくっきりと現れた。準備は万全のはずだ。燃える物は近くに置いてはいない。気合を入れて電気溶解炉のコンセントを挿すが喉が渇いていることに気付く。どうしようか考えているとトイレにも行きたくなってきた。迷わずコンセントを抜いて家に戻ってトイレと水分補給をした。一息ついて気合を入れなおす。外に出て電気溶解炉のコンセントを挿す。設定温度を八百度にしてゆっくりと電気溶解炉の数字が増えていく。待っている間キャンプ用の椅子に座って空を眺める。一刻一刻と変わっていく雲の形を何かに例える。
「あれはライオン二匹が尻で結合して招き猫のポーズをしているな、あれはスフィンクスが立ち上がったバージョンだな」などと気軽に待っていると郵便屋さんがハガキを届けてくれた。
「すみません、ありがとうございます」と会釈をして受け取ると
「あーすみません、いいですか」と郵便屋さんはそう言ってバイクで駆け抜けていった。家に郵便物を置いて電気溶解炉の温度を見ると八百度に達していた。るつぼを取り出す工具と牛革の手袋を身に着けてイメージトレーニングをして蓋を開ける。熱気が顔全体に当たり保護メガネをして不純物を火ばさみである程度取り除いて、るつぼを取り出し砂型に流し込んでいく。ムラが出ないこと、隅まで行きわたるように集中して流し終えたるつぼを元に戻す。固まるまで待つ。数分後固まったのが分かると工具で金属を持ち上げた。初めてにしては上出来だと自画自賛する。周りに付いた砂を取り払い、あとは金属用のノコギリで余分な部分を切ってヤスリで磨いて持ち手の部分を取り付けたら完成だ。一安心した僕は電気溶解炉の電源をオフにして、コンセントを抜き地べたに横になった。生暖かい風に揺れる木々の隙間から青空が見える。立ち上がって汚れを払うと、後片付けを終えて部屋に戻りノコギリで余分なところを切っていく。ギコギコと音が鳴り小さい塊がカランと音を立てて床に転がる。ヤスリで磨いていくと穴がいくつかあるのを見つけた。もう一度やり直そうかと考えたが不出来な僕が作った不出来な刀に愛着がわいた。(この刀で復讐したいと思った)
あれから三時間ぐらい寝ていたらしい。持ち手を作るつもりだったが体力の限界がきてベッドで寝たのだった。腕時計を確認して十六時過ぎだと確認する。体を起こし再度ヤスリで全体を滑らかにして持ち手の部分を作っていく。二カ所電動ドリルで刀と杉材に穴をあけて真鍮の棒を通した後、はんだ付けで固定する。その上に黒いビニールテープで四、五周巻く。強度が少し心配だが虐めてきたアイツ吉川蓮を殺せるだけの力を持っていればそれでよかった。刀を西日に照らして反射具合を見ても上出来だろう。後は研いだら完成する。今までの工程は経験したことはあるが刃物を研ぐことは初めてで動画サイトを見ながら進めていく。小休憩をして研ぎ始めようと思ったが十八時過ぎており、足早に一階に降りてコンビニ弁当を食べて自室に戻る。ベッドに腰かけながら携帯電話でバイクツーリング、海外サッカーのダイジェスト、包丁を研ぐ動画を見ているといつの間にか寝ていた。
翌朝シャワーを浴びてテレビショッピングを見た後外に出て日光浴をする。
「雨が降りそうだ」黒い雲が山の一帯に伸びて冷たい風も吹いている。烏が大きな広葉樹から出ては戻りを繰り返している。サギが羽を動かし左に進み、車が右に通り過ぎていく。
自室に戻り刀を研ぐ。
「昨日の夜は寝てしまっていたが今日こそは刀を完成させたい」水が入った少し大きめの容器に砥石を固定して準備が完了した。窓が閉まっていることを確認して砥石の百二十番から研いでいく。砥石に少し水を注ぎ刀を三点で支えて手前から奥へと動かしていく。片方にかえりが付いたら裏面も研いで次に二百四十番の砥石で研いで四百番、八百番、千番、二千番、四千番、八千番と研いで試しにコピー用紙を切ってみた。滑るように刀が動き中々の出来だと確信した。立ち上がり窓を開けると冷たい風が吹いてきた。いつの間にか雨がコンクリートを濡らしていた。しばらく止みそうにない雨は昨日の天気を否定しにやってきた。この雨は植物の成長を促しやがて飲料として僕の口に届く。計画を達成した僕はどこにたどり着くのだろう。
刀が夕方に完成してセブン弁当を食べた後ベッドに横になった。天井をぼんやりと見ながら学生時代を思い出していた。思い出したくない記憶ばかりだが良いこともあった。復讐のために残りの人生を賭けてよいのだろうか。人生を賭けてまで果たすべき計画なのだろうか。悩んでいるのか、ただ吉川に会いたくないだけなのか、他にやるべきことはないのか、そんなことを考えて眠りについた。どうやら前に決めた事について気持ちが揺らいでいるらしい。
久しぶりに夢を見た。高校生の時の担任が出てくる夢だった。黒い背景にぼんやりと映し出された担任は何やら分からないことを喋っているが表情は真剣で怒っているようにも見えた。目が覚めて理由もなく怒られた夢は覚えていて苛立った。夢の中で言い返したかったが喋ることが出来なかった。夢に出てきた予想は付く。殺人計画を実行しようとしている僕の中にある感情が無意識に拒絶しようとしているのだ。躊躇い戸惑いは勿論ある。昨日だって悩みながら眠りについた。しかし今日この夢を見て悩みを断ち切ることに決めた。今日の夜、吉川の家に行くことにした。
全身筋肉痛の体を少しでも休めるために極力動かないようにした。ここ数日の働きはこの四年間で一番活動したかもしれない。冷蔵庫にある梅おにぎりを持って自室に戻り封を破って食べる。ぽろぽろと米粒が床に転がるが気にせず食べ終わるとベッドに横になり、携帯電話で都市伝説の動画を見る。悶々とした気持ちは晴れることは無く靴下を履いて外を散歩する。曇り空の今日は雨が一日中降らないらしい。石垣の間から蛇がこちらに顔を出してすぐに走って逃げた僕は自分の臆病さに嫌気がさす。柿の木を見つけてまだ熟していない柿をもぎ取るとかぶりついた。渋かった柿を道端に投げ捨て家に戻る。
十六時になり家を出て吉川の家に向かう。自転車に乗りバッグに直接刀を入れて籠にガソリンが入った携行缶を入れてこぎ出す。自転車で十分のところに吉川の家はある筈だ。一回小学生の時、親に連れられて行ったことがある。その時は姉を迎えに行ったのだった。良くも悪くもない天気のなか道中、地蔵様を通り過ぎた。学生の時お賽銭を盗み十円ガムとカードパックを買っていた。盗んだお金は返したがあの時の記憶は忘れていなかった。罪悪感は残り続ける、この計画を遂行した後僕は晴れた気持ちにはならないだろう。いつの間にか古畑の家に着いていた。家の前でウロウロしていたら怪しまれると考えて、日が暮れるまで近くの小川に行き小魚を眺めていた。石の上にトンボが止まりじっと見つめるとどちらも動かなくなり死体の疑似体験をした。動かないことは死んだことと同じなのか、自分のしたいことが出来ないと死んだことになるのか無職の僕は死んでいるのか分からなくなった。トンボが飛び去ると立ち上がって遠くの雲に隠れた太陽が山に沈んでいく景色を眺めた。
夜になり雲が消え去って月の光に照らされた僕の顔が光と影に分かれて、歩き出した僕は自転車があるところに戻り漕ぎ出した。家の近くの廃れたビニールハウス横に自転車を停めて携行缶とバッグを持って音を立てず近づく。家に明かりは点いておらず生活音もなく不在だった。下調べをしておくべきだったと頭を掻いて溜め息をついた。吉川はおそらく会社員だろうし少し待つことにした。腕時計を確認したら十八時三十分だった。先にガソリンを撒いておこうかと考えたが匂いで気付くだろうから止めた。
二十二時になり一台の車がゆっくりと家の前に停車した。塀の隙間から覗き込みドアが開き楽し気な会話が田舎の夜に響き渡る。よく見ると男性二人女性二人車を降りて家の中に入っていった。一人は吉川蓮本人で間違いないだろう。他の三人は両親と恋人だろう。仲睦まじい家族という関係に打ちのめされ、息をするのも忘れて凝視していた。家に背を向けて僕は夜が開けるまでその場に座り込んだ。
車のエンジン音で目覚め朝になっていることを確認して腕時計を見た。時計は六時三十分を指していた。動き出した車が少し遠くで右折して消えていった。乗車しているのは運転手一人で残りは家にいるだろう。
「朝か・・・」呟くように独り言を言うと、誰にも見つからずに自転車で家に帰った。自室に戻り計画が失敗してよかったのか達成できなかった自分に失望したのか分からず眠ってしまった。
目が覚めて学習机の上にある腕時計を確認すると十三時過ぎを指していた。昨日からのことを思い出して頭を掻きむしってフケが多少落ちる。顔を上げてシーリングライトを見た後、一階に行き冷蔵庫の中にある納豆を食べる。コップにオレンジジュースを注ぎ、ちびちびと飲み干す。カーテンを開けて遠くにある松の木を眺めると枝の先に松ぼっくりがぶら下がっているのを見つける。中学生理科で被子植物、裸子植物を授業でやったが具体的なことは覚えていない。社会だけは点数が良かったから覚えていることは他の教科よりも多い。自室に戻り刀をじっくりと見つめる。(今まで誰かを傷つけるような行動をとったことがない僕がいきなり人を殺せるとは思えない。吉川を脅すだけでいいのだ、一度恐怖を覚えさせればそれで僕は満足するだろう。しかしそれで終わるとは思わない、必ずと言っていいほど仕返しをしてくるはずだ。それならば最後までやるしかないだろう。やらなければ悔いが残る)刀に反射した僕の顔がひどくやつれているように見えて顔を触る。(自分に自信が無いのは確かだ。小学校から虐められてバイトをしてもすぐにバックレて何かを努力して成し遂げた経験がない。自分の成功体験のためにも古畑を殺して自分の将来のためにこの計画を成し遂げなければならない。あまりにも幼稚で稚拙、それに哀れなことは自分自身が分かっているつもりだ。他の大人に聞いたら厳しく叱られるだろう。社会不適合者が真面目に働いている人を殺すことはあってはならないはずだ。社会不適合者は静観しておくべきであろう。しかし僕の気持ちはどうだろうか?)刀をバッグに戻してベッドに横になる。
「僕の気持ち・・・」
今までの僕が歩んできた道は誰にも否定することはできない。法律は取って付けたものでしかない。僕は動物だ。生きているのか死んでいるのか分からない僕は少しでも自分が望んだ方へ進まなければならない。法律によって人を縛ることはできない。自然な状態に戻していかなくてはならない。
そして今夜もう一度吉川の家に行くことに決めた。
「今度は失敗しない」
目を閉じて空想の世界へと入る。
十八時、何も食べずに自転車をこいで吉川の家に向かう。だんだんと暗くなり昨日と同じビニールハウス横に自転車を停めた。腕時計を確認して塀の近くに座る。家の方を見ると明かりが点いており話し声が聞こえた。朝に出ていった車も家の前にあった。星空を眺めて暗闇が深くなるのを待っていると、特徴的な星座を見つけた。持っていた携帯電話で調べてみると白鳥座だった。デネブの方が頭ではないのかと思っていると突然、犬と思われるものが道路から出てきた。驚き素早く立ち上がり犬を見ると、こちらに気付いているがのろのろと道路を歩いていった。一息ついて塀に戻ろうとすると玄関から男が出てきて煙草を吸い始めた。身を隠そうとビニールハウスの陰に隠れて男を観察する。それが古畑蓮本人だと気付くのに時間はかからなかった。手が震えて心臓の鼓動が早くなり頭が真っ白になった。(復讐するのなら今だ)そう思って背負っていたバッグから刀をゆっくりと取り出す。手汗で滑らない様に両手で持ち吉川を見る。襲い掛かろうとした瞬間先程とは違う犬が道路から出てきた。こちらに気付いた犬と目が合ってすぐに目をそらした。ゆっくりと通り過ぎるのを気配で感じ取り視線を吉川の方に戻したがすでに家に戻ったらしく姿は見えなくなっていた。ビニールハウスにもたれかかり刀をバッグに戻す。(このまま何も達成できない自分でいいのか、ガソリンを撒こうかと考えたが漆喰の壁は燃えにくいし異変を感じたら家から出るだろうし出たところを刀で襲うにしても四対一で勝てる見込みは薄い。それにこんなにも星空が綺麗に光っている夜に物騒な事は止めておこう)暗闇の中家に戻り居間に明かりが点いていたが自室に戻った。
「僕はまだ罪を犯してはいない」小さくそう呟いて、古畑に人生を狂わされたが殺すほどの価値はないのであると自分に言い聞かせた。幸せな人生を歩んでほしくはないが僕は幸せになりたい。
そして社会復帰を目指すことにした。
久しぶりに七時に起きて部屋のカーテンと窓を開けて空気を循環させる。箒とちり取りで床を掃除して除菌ティッシュでいたるところを拭いていく。足の裏に付いたゴミを袋に入れる。他にも読まなくなった本をビニールひもで結んで学生時代のテスト用紙、靴、教科書などを全て燃える袋に入れていく。卒業アルバムをさらっとめくり燃える袋に入れた。物が少なくなり軽くなったこの部屋で床に寝転んで天井を見つめる。家を出て燃える袋をゴミステーションに持っていき帰るとオレンジジュースを飲んだ。押し入れに何年も置いてあるだろうバリカンを取り出して自室でぼさぼさに生えた髪の毛を三ミリの長さで刈っていく。軽くなった頭を触り風呂場で洗い流し、よく拭いた後テレビで【ヒルナンデス】を少しばかり見て自室に戻る。携帯電話のカメラでどうなっているかを確認して剃り残しをハサミで切っていく。ある程度整えたら服を着替えて外出する準備をした。窓を閉めて家を出る。自転車に乗り近くのコンビニとガソリンスタンドを目指して曇り空の中進んで行く。社会不適合者が社会復帰のためにバイト探しのぶらぶら旅をするのである。大きな一歩に違いない。僕はいつ父親に家を出されても仕方がない立場にあるのだ。計画を失敗した僕は罪人になることも許されず、生き地獄とも思われるほどの現世を生きていかなければならなくなった。他人に比べれば遅すぎるほどの社会への帰属だが、しないよりはいくらかマシであろう。数年前に潰れた【ナフコ】を通り過ぎてスーパーマーケットを見つけると無人の駐車場に自転車を停めた。どちらも解体作業がまだのようだ。薄汚れたガラスのドアは拭けばまだ使えるほどの意気込みを感じる。小学生の時にここで遠足のおやつを買った記憶がうっすらと蘇る。(地下駐車場で移動販売のたこ焼きを母親が買ってくれたな、年々マヨネーズの量が少なくなって買わなくなったな。広い駐車場に自分一人だけで。昔は大勢の人が買い物をして出ては入ってを繰り返して一日が過ぎて年を取って今になって何十年後になれば今抱いているこの感情も忘れてしまうのだろうな)
次のバイトが僕の生命線になる、そんな気がしていた僕はここから五分のコンビニに向かう。ペダルをより強く踏んだ。
道路を左折して目的地のコンビニに到着した。車の出入りが激しく大型のトラックが駐車場をかなり占めていた。自転車を端の方に停めてエアコンが効いた店内に入る。
「いらっしゃいませ」店員の女性が商品の補充をしながら発した。
「はい、どうも」と聞こえない程の声を発してジュース売り場に行く。腕を組み悩むふりをしながら店員を観察する。お客の人数は多くないが途切れずレジに並んでいる。昼過ぎだというのに忙しく体を動かして笑顔をふりまいている四十代ぐらいの女性と目が合いそうになり急いでそらした。【アクエリアス】を手に取り、アイスクリーム売り場に行き店員を見る。お客が去って商品の補充や談笑をしている。アイスクリームは選ばずにツナマヨおにぎりを一つ取ってレジに行く。
「お願いします」と二つ商品を置いて財布を取り出す。
「いらっしゃいませ。おにぎりは温めますか?」と聞かれて
「あ〜、大丈夫です」と答えると、慣れた手付きで会計を終えた。店を出て実際に自分が働いている姿を想像したが、一度コンビニをバックレていることが足枷になり次のアルバイト候補からコンビニが消えた。自転車が置いてあるところに戻り先程買った【アクエリアス】を少し飲むと次のガソリンスタンドに向かう。ここから自転車で十分ぐらいの道の駅に併設されている。これまでに一、二回行ったことがあるだけで思い出も何もないが高校生の時に取得した危険物の資格を活用することができるという利点がある。平坦な道を自転車で進んでいくと目的地のガソリンスタンドが見えた。車の出入りは多くはないが少なくもなく、ゆっくりと目の前を通り過ぎる。レギュラー百七十円の文字を見ても高いのか安いのか分からないがバイトをするならここだと目星は付けていた。実際にバイトを募集しているのかは不明だが、来た道を戻り、もう一度見渡す。人が給油するガソリンスタンドらしく、三十代ぐらいの痩せた男性が接客をしている。通り過ぎてここのガソリンスタンドで働けるかどうかを想像しながら家に帰った。
自室に戻り、コピー用紙にコンビニとガソリンスタンドの特徴を書き出して比較した。この二つ以外のバイト先も視野に入れるべきだが、近くにある店舗が少なく自然とバイト先も限られてくる。ガソリンスタンド一択ではあるが、昨日殺人計画を失敗したばっかりで翌日にバイト探しをしている自分に人間味があるのか戸惑ったが、明日ガソリンスタンドに行きバイトを募集しているか直接尋ねてみることにした。一階に行きテレビをつけて【ミヤネ屋】を途中から見る。他国のお偉いさんの特集を外国人が話している。全く持って自分の人生に必要のないことを視覚から取り入れる。チャンネルを変えて探偵ドラマを少しばかり見る。有名ドラマの再放送らしくかつての俳優の若かりし頃の姿が映し出されていた。現世を旅立った俳優も出演していた。国営放送にチャンネルを変えると幼児向けの番組が放送されており、終始頭がおかしくなりそうな動物のマネをしたキャラクターが喋っていた。数十分経つと、テレビを消してツナマヨおにぎりを食べ始めた。お茶を注ごうとしたコップが汚れており、すぐに食器用洗剤で洗い水滴がついたままお茶を注いだ。口の中で二つを混ぜながら流し込んだ。
自室に戻ると机の上にあった【罪と罰】を読み始める。少し読むとベッドに横になり目を瞑った。
十八時になり一階に降りてコンビニ弁当を食べて自室に戻る。飲みかけの【カルピス】を飲み干して空のペットボトルをビニール袋に入れる。携帯電話でバイクツーリングの動画を見て北海道の広大な景色と菜の花畑を擬似的に体感する。納沙布岬近くにある海鮮丼を食べるシーンを夢中で見て、VTUBERが歌っている動画を見て眠りにつく。
目が覚めた途端、数年前にコンビニで買ったアルバイト用の履歴書を物置から取り出して、ポールペンで書いていく。手汗でところどころ湿った紙を何年も使っていなかったファイルに入れ、シャワーを浴びて伸びていた髭をかみそりで剃って服を着替えた。コップにお茶を注ぎ少しずつ飲みほす。マスクをして家を出る。腕時計は十時四十五分を指した。自転車に乗ろうとするとタイヤの空気が少なくなっていることに気付き空気入れでタイヤに元気をいれていく。少し動いただけで汗が背中から出る残暑に嫌気がさして家を出た。久しぶりの太陽は気分を晴れやかにさせてくれる。過ぎていく黄色のガードレールとそびえ立つ山々、道路脇に植えられたツツジの木が四角く整えられた姿に税金の悦びを感じる。H駅を過ぎ十分程度走ると目的地のガソリンスタンドが見えてきた。隣にある道の駅に自転車を停めて歩き出すと、目の前から小さい子供を連れた女性が歩いてきた。端に寄ると女性が会釈をしながら通り過ぎていった。僕も軽い会釈をして歩き始め、ハンカチで体の汗を拭いた。喉が乾いていたが、ガソリンスタンドの敷地へと入っていく。車の邪魔にならないように端から事務所に歩いていくと働いている人が警戒した様子で話しかけてきた。
「どうかされました?」目を大きく開け、大きな声で話しかけられた僕は一瞬狼狽えるが、
「あの、ここのガソリンスタンドってアルバイトを募集しておられますか?」と、単刀直入に用件を伝えると
「アルバイトは、一応募集はしてはいるんですけれども…」何か分が悪そうに周りを見ている。
「ここではなんですので、事務所の方に来ていただけますか?」と、お店の奥にあるガラス張りの建物を指差し、作業員の方の後ろに付いていき中に入った。中には、昨日見かけた男性がおり、立ち上がって作業員の方と話した。
「店長あの、バイト希望なんですけど」と作業員が小さめの声で話しかける。
「あーそうなんだ、アルバイトね、アルバイト、えーっとお名前聞いてもいいかな?」と、額のシワを寄せ、目の下にクマがあるのが分かるほどの顔に一瞬思考が止まりかけるが、
「兵護優太郎です」今まで刺激の少ない生活をしていたせいかコミュニケーションに遅延が生じる。
「えっと、兵護君ね、…今はね人手も足りてるし最近、ていうか二、三ヶ月前に新しいアルバイトの子をね、雇ったばかりでアルバイトは募集していないんだよね。それに事前に連絡してもらわないとこっち側としても困りますよ」じっと目を離さず話していた姿に威圧された。言っていることは真っ当だった。
「そうですか、わざわざすみませんでした」一礼をすると扉を開けて事務所を後にした。これからどうするか考えていると道の駅に立ち寄ってみることにした。広々とした一階建ての建物に休憩スペースと近くで採れたであろう野菜などの特産品、レストランが店を構えていた。特産品を一通り見た後で外にあるキッチンカーで売っているバニラアイスクリームを買う。休憩スペースでアイスクリームを食べながら近くの小川を眺める。水量はそこまで多くはないし綺麗でもない川に幼稚園児が川遊びをしていた。止むことはない叫び声に自分も昔はこうだったのかと考えてみると同じだと思い出した。(ヒーローに憧れて必殺技の真似をしたり、木を持って一人チャンバラをしていた)
「これからどうするか」
昨日行ったコンビニにバイトを募集しているか聞きに行くことにした。アイスクリームのゴミを捨てた後自転車に乗ってコンビニに向かう。店内に入り四十代のおばさんに話しかけようとレジの前に止まるも何を話そうか頭が真っ白になり口をパクパクさせていると
「お客様どうされましたか?」と顔を覗き込むように聞いてきたネームプレートを見て近藤さんに
「いえ、この唐揚げの棒を一つお願いします」視線を合わさないように頼んだ。お金を払い商品を受け取ると冷房が効いた肌寒い店内から出た。溜め息をついた僕は唐揚げの棒をバッグに無造作に入れると自転車に乗り家に帰った。
十八時になりコンビニ弁当を食べに一階に降りると父親が帰ってきた。気まずくなる前に自室に戻ろうとするも呼び止められた。リビングにある机に対角に座ると沈黙の時間が流れた。コップにお茶を注ぎ一気に飲み干すと
「くれるか?」父親が言った。腕を伸ばして薬缶を渡すとコップにお茶を注ぐ。そこからも無言が続いた。すると玄関が開く音がして二人入ってきたのが分かった。ドアが開き見てみると姉が二人入ってきた。背中を丸めて下を向き続けていると荷物を置いた姉が机に座った。長女は僕から見て父親の右、次女は左に座った。薄々この先の展開を予想していた僕はついにきたかと察した。沈黙を破ったのは長女だった。
「優太郎、今の状態ってどう思う?」喧嘩腰ではないことがこの言葉で分かった。父親と次女はこちらの返答を待っている様だった。
「確かに働いていないのは悪く思っている、姉が帰ってきたってことは僕はこの家を出ていくよ」そう言って椅子から立ち上がろうとすると長女が
「まだ話は終わってない、無理に家を出なくてもいい、けれどバイトをするなり働くという意思を見せて欲しい」最初から話し合うことを避けていた僕は椅子に座りなおした。
「分かった、探してみる」話を早く終わらせるように言葉を発した。
「分かったならいい、そろそろ目を見て話しなさい」優しいその言葉に驚きを隠せずに一瞬三人の目をみやる。悲しそうな顔をした三人が僕の方を視線を離さずに見つめていた。僕の社会復帰を少なからず願っているこの人たちはお人よし過ぎる。僕に期待をしても無駄なのに家族のことなんか一つも考えていない僕にとって目障りでしかない。
「バイト探してみるよ」顔を上げてそう話すと椅子から立ち上がり自室に戻った。今日のことを思い出して眠りにつく。夜中姉二人が玄関から出る音がした。
翌朝、最低限の荷物を持って家を出た。自転車でH駅に着くとT駅行きの電車に乗りしばらく電車に揺られていた。昨日の姉との会話を思い出して、働く気にもなれない僕は家出をした。大人の反抗期ほどみっともないのは十分承知しているが父親と姉二人が帰ってきたということは家を追い出されたという事なのだろう。今日の寝床さえないがどうにかなるだろうと考えているとT駅に着いた。駅の中にある図書館に入り、数冊手に取って椅子に座り読む。休日な事もあってか家族連れが沢山館内にいた。
陽が沈み読み終えた本を棚に返すと辺りが暗いことに気付いた。何をやっていたんだと自分を責めるが閉館時間ギリギリまで本を読んだ。警備員に外に出るように言われると渋々外に出た。まだ生暖かい気温が体を包むと近くにある公園を目指して歩き出した。
記憶を頼りに十分ぐらい歩いていくと大きな木に囲まれた公園が見えた。暖色系の外灯が葉っぱに隠れて少しばかりの落ち葉をわざとらしく踏んで公園に入る。中央にある木造の椅子に座り腕時計を確認すると二十一時だった。姿勢を正すと近くにある水飲み場で喉を潤した。椅子にもう一度座り所持金を確認すると三百六十円だった。空を見上げて家族のことを思い出す。父親はどうしているのか姉はどうかと考えたが問題はなかった。昔から僕はそこにはいない存在だった。立ち上がり荷物を持って外灯が照らさず人気のない暗い木の下に行って横になった。うずくまって落ち葉と土の匂いを嗅いで眠った。
翌朝になり、生きていることに落胆してトイレに行く。お腹を出して寝ていたせいか下痢で体力を奪われたが水で腹を満たした。残りの三百六十円で食べ物を買うか迷ったが、椅子に全額置いて太陽の方へと歩き出した。今日が休日な事もあってか通り過ぎる人は家族連れと老齢が多かった。九月の太陽は弱まることを知らずビシバシと照り付ける。どこまで行けば太陽に近づけるのか、関東に行けば僕は陽の目を浴びられるのか北海道の知床に行けばいいのか分からなかった。今すぐに家に帰って働くのか何のために歩いているのか右足と左足を同時に出したら歩けるのか何故右足を出したら左手も出さなければならないのか武士は片手足同時に出したら疲れないと聞いたことはあるが本当なのか分からなかった。ずっと下を向いて歩いていたせいかここが何処なのか分からなかった。左手に工場が沢山見える。その先には瀬戸内海が見えるだろう。その海には沢山魚がいて漁師がその魚を獲ってその魚を食べて、僕は海に何を返すことが出来るだろう。無職の家出男には何もできない。
それから一時間ぐらい歩いて田舎にしては大きめの神社へと進んだ。無一文の僕にはお賽銭を投げる程の余裕はないが見えない何かに頭を下げてこの感情の渦を取り払ってもらいたかった。その神社は小高い山の頂上にあった。石段を登って境内に入った。膝に手をやり汗が目に染みて瞬きをすると石の上に落ちた。すぐに水分が蒸発して跡がなくなった。お賽銭箱の前に立つと一礼をして石段を下りた。
また歩き出し大きなショッピングセンターが見えた。その中に入ると椅子に座った。中は冷房が効いて、荷物をテーブルの上に置いて目を閉じた。
少しばかり寝ていたのだろうか、体中が棒のようになって歩けそうにもないほどだった。しかし、いつまでもここにいるわけにもいかず施設内を見てみることにした。一階は薄暗い子供用の遊び場だった。それを抜けると雑貨屋、服屋が並びスーパーマーケットが大部分を占めていた。建物の中央には大きな時計があり、その下には星が散りばめられていた。エスカレーターで二階に上がると、映画館特有のポップコーンの匂いがした。昨日から何も食べていないからか、映画館へと進んでいた。上映している映画の予告がモニターから映し出され、その前を人が通り過ぎていく。無一文だからか子供がポップコーンを持ってトイレ前で待たされている様子を見ると襲いたくなった。子供の前で立ち止まり目を合わせるとトイレに入った。出すものはなく、手を洗って出たら先程の子供が親と何か話していた。慌てて映画館を出ると本屋で自己啓発本を立ち読みした。店員が嫌な顔をしてきたのが分かったが、十ページ読んだところで他の店に向かった。二階には飲食店が立ち並んでおり、カツ丼屋に海鮮屋、たこ焼き屋などもあった。どれもお金がないと買えないものばかりで店の前を一通り歩いて三階に上がった。三階は、服だらけで紳士服女性ものの服がこの階を占めていた。すぐに引き返して一階に帰った。椅子に座ろうと思ったが、老齢の女性が複数人座っているのを見つけて外に出た。
生暖かい空気が僕を包み込みこのまま天へと連れて行ってほしかったが東へと歩みを進めた。
あれから何時間歩いたかは分からなかったが腕時計を見たら十六時ぐらいを指していた。人を避けていたら山の方へとどんどん進んでいき、車もめったに通らない道を歩んでいた。荷物を歩道に放り投げて縁石に腰を下ろして休んだ。靴を脱ぎ蒸れた靴下の匂いが鼻に伝わってきたがそんなことはどうでもよかった。目的地もないただひたすらに東へと進むこの旅路は意味を持たず誰かに命令されたわけでもない。僕が選んだ道なのだ。下を向きっぱなしで首が痛くなり空を見上げたらいつの間にか太陽が雲に隠れていた。気温も落ち着いてきて過ごしやすくなった。靴を履き、荷物を持って歩き出す。一歩の重みを身体中で感じながら進む。
一本道をひたすらに進んでいたら駅と思われる建物が見えた。その駅は昭和を感じさせる年季が入った姿形をしていた。塗装は剥げかけ、駅の名前すらかすんでしまっている。(おそらく一日に一人乗車するぐらいの駅だろう)その駅に着くと金属の脚に塗装が剥がれかけている天板でできた椅子に座った。辺りを見回すと隣にトイレがあるのを見つけた。荷物を置いてそこに行くと蛇口を捻り、出た水をすくって飲んだ。喉が潤って生き返ったような気がした。顔を洗い垂れてきた水を服で拭くと駅に戻った。すると椅子があるところに若い女の子が僕の荷物を持ってキョロキョロしていた。声を出そうとするも出せずに口をパクパクさせていると女の子が気付いて荷物を持ってきた。
「すみません、これってあなたの物ですか?」焦った様子でそう尋ねた女の子は僕と同じ年ぐらいかそれより少し下ぐらいの見た目だった。荷物を受け取ると
「ありがとう」やっと出せた一言だった。視線を合わせずに会釈をして一本道を歩き出そうとしていると
「あのー、大丈夫ですか、具合悪そうですけど」女の子が心配そうに尋ねて言った。
「大丈夫です、すみません」そう言ってまた歩き出した。
そこから東へと進んでいたら見知らぬ山に入っていた。先ほどの女の子と会ってからというものの人とすれ違うたびに人を襲わなければならないという感覚が全身を覆い、擦り切れそうなほどの理性で人とは会わぬ山へ向かったのだろう。もう一度あの女の子と出会ったら僕はこの刀を使って何か恐ろしいことをしていたのかもしれない。空腹で冷静な判断能力が落ちている自覚がある。明日にでも出会ったらどうなるかは分からない。ここ数日は雨が降らなかったからか足元は乾燥していた。一歩一歩足を踏み出すたびに落ち葉が擦れる音が耳を刺激した。先ほどから食べ物と水を探しているのだが、一向に見つかる気配はせず見知らぬ山をただ歩いている。登りばかりで体力を使わされ足腰が悲鳴をあげているが、人と会うよりはマシだった。足が落ち葉ごと滑り落ちそうになったが片手で杉の木の皮を掴んだ。今にも滑り落ちそうだったが体勢を戻して両手足で斜面を掴んだ。
一歩ずつ山を登っていくと獣道か人が通った跡を見つけた。その道を疑問も持たずに登っていくと小さな滝が現れた。水が高所から落ちてくる音を連続して聞いていると少しだけ身体が癒やされた。正座をしてその滝に頭を下げ
「失礼します、少しばかり貰います」そう言うと落ちてくる水を手ですくって飲んだ。立ち上がり木の隙間から太陽が沈んでいくのを座って待った。辺りが暗くなっていく。地球は常に回っていて、月が潮の満ち引きに関係していて僕はその地球に立っている。絶えず季節は変化して雪解け水が草木を成長させて海に戻っていく。僕も生きて死に近づいて終わる。土を触って落ち葉を拾う。山の中腹まで来ただろうか、どこまで行けるのか分からないが今日はこの滝が見えるところで眠るとしよう。手で穴を掘り荷物を枕の代わりにしたら、落ち葉を身体に少し被せた。目を閉じてこれまでのことを思い出した。
目が覚めるとそこには、見知らぬお婆さんが立っていた。飛び起きて落ち葉を払うと
「あんた、何しよる」怪訝そうな顔で聞いてきたお婆さんの見た目は八十代だが声にはハリがあり衰えを感じさせなかった。頭には白いタオルを巻いて左手にはペットボトルを持っていた。
「体調が悪くてここで寝ていたんです」本当のことを言った。頭が空腹と寝起きで回っておらず嘘をつく余裕さえなかった。お婆さんは、頭に疑問符が付いたような僕が言っていることが理解できていないようだった。正確には理解できてはいるが、飲み込めない様子だった。
「あんた、体調が悪いって言ったって、ここ私有地ぞ、それに水神様の前で寝るだなんてとぼけとんか!」呆れと怒りが混ざったその様子に一瞬で覚醒した。
「すみません、喉がカラカラで水を飲んでその後、日が暮れたのでここで休んだんです」
「山奥のここで休んだって、本当…」お婆さんは呆れていた。
「すぐに出ていきます、はい、すみませんでした」荷物を持って来た道を戻っていく。
少し歩いたところで小便をしたくなり、周りに誰もいないか確認して杉の木の側で用を足した。落ち葉は水分を弾き土に次第に染み込んでいく。身なりを整えると、先ほどのお婆さんがどこに行ったのか気になり、また登っていく。先ほどの場所に戻るもお婆さんは居らず、水で一杯になったペットボトルが石の上に置いてあった。キャップもきちんと閉めてありどこかに行ったのだろう。下山するか迷ったが、(人里に下っても未来はなくまた惨めな人生を送るだけだ、それならば人と会わないこの山奥で暮らした方が自分のためになるだろう)そう思って山を登り始めた。何日間食べていないのかを考えながら歩みを進める。バイトの面接をしに行ったのが二日前だから、それからは何も食べていなかった。昨日はキャラメルポップコーンの匂いを嗅げたからそれを思い出して空腹に耐えた。人は何日間食べなかったら死なないのか前にテレビで見た気もするが、三日間だったか一週間だったか忘れた。辺りが開けてきた。頂上が近いのだろう。動物の足跡も微かに残されており、鹿か猪がいるのだろう。初めは竹が生い茂っていたが頂上付近になると細い木ばかりだった。一歩一歩進み、ようやく頂上に辿り着いた。
妙に静かで人がいる気配も全くしない。余所者が来た感じがひしひしと伝わってくる。きっと外国人が日本に来た時もこんな感じなのだろう。近くにある木を触ってみる。意外とすべすべしており、嫌な気は全くしない。少し歩いてみることにした。太陽が出ているはずだが薄暗く方角が分かりにくいが、北側にまだ山が続いているようだった。頂上だと思っていたが錯覚だった。まだ、登れるほどの力は残っておらず、岩が突き出たところに腰を下ろして休んだ。山の頂上付近に石があるということは、ここは溶岩が固まってできたものだと推測した。何百万年も前の石を触っているかもしれないと思うと興奮した。空腹で動き回ることはし難くなったが、立ち上がり小さな木の下で横になった。腕時計を見たが六時を指して針が止まっていた。電池切れだった。目を閉じて思考を巡らす。電池を交換したのはいつだったか、あのお婆さんは、今どこにいるのか、駅で出会ったあの女の子は何者なのかそう考えていると眠っていた。
久しぶりに夢を見た。家には僕がいて父親と姉二人、それに母親もいる。机の上でトランプをして仲良く遊んでいる。机の隅には少しだけ残されたケーキがあった。誰かの誕生日だったのだろうか。
夢から覚めると身体が凍えていた。早く暖を取ろうとするがライターもマッチもない。腕時計を確認しようとするも壊れていたことに気付いてバッグに入れた。力を振り絞り下山することに決めると来た道を戻り始めた。人里に行けば何か食べるものがあるかもしれないそう思って枯れ葉の上を歩き始める。曇り空そして木が生い茂る山の中、太陽の光が届かないからか歩けど一向に体温が戻る気はしなかった。石に左足をついた時、石が崩れてそのまま斜面を滑り落ちてしまった。何メートル落ちたのか分からないが左足が痛んだ。靴を履いたままでも分かったが捻挫していた。それに石が崩れた時に擦り傷もできていた。直線にできた傷から血がダラダラと出ていた。Tシャツの袖部分で血を拭くと唾を傷跡に垂らした。少しだけしみたが擦り傷はなんともなかった。問題は捻挫のほうだった。小学生の時に何回もしたことがある捻挫。人生につまずく時に捻挫をする。僕の人生はどこで間違えたのか流れ出る血を見て考え出す。そんなことを考えても仕方がない、早く下山しなければと立ち上がるが左足に体重を乗せられず落ち葉を掴みながら滑り落ちる。ようやく止まったが歩け出せそうにもない。整備されてもいない山の中を一人で来たことも間違いだったし、働きたくないからといって二十四で家出をするなんて馬鹿げている。杉の木の根本で仰向けになって上を見つめる。枝が放射状に伸びてその先に緑色の葉をつける。春には花粉が舞って花粉症の人が困る。大量の雨を木が吸って土砂崩れを防止している。雨があがれば白い水蒸気が空高くあがって雲を作る。もしも木に感情があるとすればどのようなことを感じているのだろうか。動き回ることもできない直立不動の木は一体何を考えているのだろうか。太陽の光を浴びて成長するということはどういうことなのだろうか。太陽の高度からいってまだお昼過ぎくらいの時間なのだろう。杉の木に手をついて立ち上がると、左足を庇いながら山道をくだる。喉が乾き昨日の滝を目指して歩く。少し歩いたところで立ち止まった。本当に水が飲みたいのか、空腹による幻覚を見ているだけなのか社会でやっていけるのか不安になった。頭では踏みとどまるが身体が滝に向かって歩き出していた。
道中にこれまでのことを思い出していた。不出来な人間がこれまでの人生をどうやって歩いて失敗したのか思い出したくもないが巡らせていた。
滝に着いた。昨日のお婆さんを無意識に探すが見当たらなかった。踏み荒らすように歩いて水をすくって飲んだ。一瞬生き返ったが今度は肉が食べたくなった。山をおりていくも人一人おらず捻挫した左足を庇いながら歩いていく。長く険しい道を下っていく。歩く速度は遅いが確実に人里に近づいていた。見覚えのある一本道を歩いていくと女の子に出会った。【森のくまさん】ではなく駅で出会った時の女の子だった。途端に目頭が熱くなり一筋の涙が頬を垂れた。拭うひまもなく女の子にこう尋ねた。
「助けてください」消え入りそうな声でそう喋ると女の子は驚いた表情を浮かべた。何も喋らずこちらをじっと見つめると獣か何かに襲われたのだと思ったらしく、すぐに距離を保って駆け寄った。
「どうしたんですか、熊にでもやられたんですか」僕には触れず持っていた携帯を触っていた。
「食べ物をください」女の子は何日も風呂に入っていない僕の身体の匂いでむせたらしく咳がでていた。
「おむすびでいいですか、カバンにあります。」肩にさげていたカバンから塩おむすびを取り出すと封を開けてこちらに差し出してきた。凍える手でそれを受け取ろうとした際に女の子の手が触れた。一瞬の温もりを感じた。それを勢いよく頬張ると数回噛んで飲み込んだ。全部食べ終わると落ち着きを少しずつ取り戻していた。女の子の方に視線をやると、引きつった笑顔で
「美味しかったですか?」と女の子が言うと駅の方に僕を連れて行こうとした。ケガのせいで上手く歩けないと肩を貸してくれた。
ゆっくりと駅の椅子に座ると女の子が水道水を手ですくって僕の左足にかけた。血と土を洗い流して持っていた絆創膏を貼ってくれた。手厚い介抱に感情が動かされていた。
「これで応急処置はできたから後は病院に行って診察してもらって、じゃあ私はこれで」
「好きです、僕と付き合ってください」立ち上がり、去ろうとした女の子に僕は呼び止めて告白した。気が狂っていたのは間違いないだろう。会って二回目の女の子に告白をしたってふられるに決まっている。だが、しなければならないと思った。どこまで真剣だったかは分からないがこの女の子に僕は救われたのだ。女神のように思ったのかもしれない。女の子は数秒頭に疑問符がついたようでしっかりとこういった。
「ごめんなさい」それはそうだ、そう思った。女の子は遠く離れていくと見えなくなった。
空を見上げて雲を眺める。これからどうしようかと考えていると一つ解決しておきたいことがあった。それは家出のことだ。無職ならば正式に家を追い出されなければならない。父親から直接。家に帰らないといけない、そんなことが頭に浮かんだ。電車賃をどうするか、また歩いて帰るか迷ったが僕は女の子が歩いて行った方向へと歩き出していた。少しずつだが歩みを進める。女の子が見えなくなった場所まで来たが辺りを見回しても誰もいなかった。家が数軒ポツポツと並んでおり、それらをまわってみることにした。一軒一軒調べていると後ろから声がした。
「何してるの」振り返って見ると困惑と怒りの顔をしているようだった。
「君を探していたんだ」捻挫した左足を庇いながらそう言った。
「気持ち悪い、ついてこないで」
「分かった、ついていかないから電車賃をください」僕は少しだけ頭を下げて言った。女の子は呆気にとられたようだった。
「私を好きになったからついてきたのではないの」
「違う、僕は家に帰らなければならないんだ、だからお金をください。必ず返します」今度は深く頭を下げた。
「私のこと好きなんですよね、なのに何で…あーもういいです」財布から五百円玉を取り出し、女の子は歩いていった。借りた五百円玉を握りしめて駅に向かう。
到着して時刻表を見たら十三時過ぎの電車があった。五百円でいける駅にH駅を見つけた。切符を買うと身体を縮こませて電車が来るのを待った。
少しして電車が来た。乗り込むと一番近い席に座った。流れていく景色を見ながら何を考えるわけでもなく、H駅に到着した。自転車がある場所に行き、鍵を開けてこぎだした。 左足に体重をかけずに右足に力をこめていく。スーパーマーケットとホームセンターを過ぎ左折して長い上り坂を息をきらしながら進んでいく。途中歩いて自転車を押していたがまともに進めず自転車に乗ってゆっくり山に囲まれた道を進んでいく。家に到着すると自転車を邪魔にならないところに停めて家に入った。
中は誰もおらず父親は仕事に行っているのだろうと思った。見慣れたはずのリビングが真新しく見えた。床に座ると仰向けになって横向きで目を閉じた。しばらく眠れなかったが少したら寝ていた。
起きると父親が立っていた。立ち上がって数秒が流れた。
「ごめんなさい」頭を下げてそう言った。父親がその場を離れて少しして一万円を差し出してきた。
「もう、大人なんだから自分のことは自分でなんとかしなさい」
「それは、自立しろということ?」父親は何も言わずこちらを見ていた。
「分かった、ありがとう」荷物を持って家を出た。
受け取った一万円をバッグに入れて自転車をこぎ出した。一瞬家の方を見て前を向いた。正式に家を出たことでいくらか心が軽くなった。女の子に会ってお金を返さなくてはならないと思いH駅を目指す。何度目のH駅か分からないが自転車を置いてじきに来る電車に乗った。
山奥の駅に到着して女の子を探す。前に出会った場所に行き、家を一つ一つ調べていると夕日が雲の間から差し込んだ。オレンジ色に染まった雲、僕の顔もその色になっているのだろう。電柱が影をまして存在感が溢れ出す。もうすぐ夜になる。街灯が灯るだろう。沈みゆく太陽を見送って近くにあった電柱の下で女の子が通るのを待った。(女の子は、仕事をしているのだろう。そう思い僕と女の子の間に差があるのを感じた。)街灯にポツンと照らされた僕。ドアが閉まる音がして近くの家から誰かが出てきた。砂利を踏む音が規則的に聞こえてこちらに向かってくる。立ち上がって見てみると小さな滝で出会ったお婆さんだった。近づいてきたお婆さんはこちらをちらりと見たが何も言わず通り過ぎた。その後またドアが閉まる音がして女の子が来た。バッグに入れておいた一万円を取り出してゆっくりと女の子に歩みよる。女の子もこちらに気付いたようで止まった。
「借りた五百円を返しに来たんです、それだけです、受け取ってもらったらすぐに立ち去るので」捻挫した左足を庇いながらそう言った。女の子は後ずさりして逃げようとしていた。
「ごめん、怖がらせてここに置いておくから」アスファルトの上に一万円を置くと女の子とは反対に歩き出した。前を向くとお婆さんが近づいてきた。
「あんた、うちの孫に何言ったか」怒鳴られて何も言い返すことができずゆっくりと歩き出した。
「ちょっと、あんた!」お婆さんがその場で言うと女の子の方に行って何か話していた。
何かに導かれるように山へと来ていた。左足を庇いながら少しずつ歩いてきたこの人生をどのように終局させるか、それと女の子に会うべきではなかったことを考えていた。
「名前も聞きそびれたな」一歩一歩登って頂上を目指すも、辺りは暗くどこに進んでいるのか分からなかった。体力の限界がきて木の根元に横になった。一歩も歩けそうになかった。目を閉じて眠りの準備を始める。(あのお婆さんに言い返せばよかった、何も知らないのにいきなり怒ってきて、あの女の子の祖母だったなんてなんだそれ、それにあの一万円は受け取ってくれたのだろうか、今頃僕がそんなに悪いやつではないって話しているだろうか、まあいいさ、僕はこういう運命なんだ、昔からそうさ、話す事が苦手で争いは避けてきた、全ては幼稚園の時に争いを辞めたんだ、人を殴ってはいけないと。例え友達同士の遊びだとしても)考え出すと体温が上がり眠れなくなった。起き上がって体を落ち着かせるとうずくまって眠った。
目を開けると生命の危険を感じた。空腹と震え、それと僕を取り囲む猿の群れだった。猿、数匹が十メートルぐらい先におり、こちらを警戒しているのか度々見てくる。刺激しないようにゆっくりと体を起こしバッグの中から刀を取り出すと、ところどころ手汗のせいなのか錆びていた。頼りなく立ち上がると刀を構えて襲撃に備えた。(もしかしたらここで猿を倒せば肉が手に入るかもしれない)自分から動いて仕留める事は難しいが木を背にして立ち向かえればやれるかもしれない。手汗がしきりに出て鼓動が早くなる。猿をじっと見つめるがどこかに移動しているようだった。
「何だよ、逃げるのかよ」食料が手に入らなかった故の失望からか、それとも猿に最初から勝てないと分かっておきながら吐き捨てた先程の言葉からなのか膝から崩れ、生きていることに安心したのか杉の木にもたれかかった。動く気力もなく何をするわけでもなくただ一点を見つめていると猪が近づいてきた。雌か栄養不足か六十センチメートルぐらいの猪だった。戦う気力もなく座ったまま刀を構えるが突然猪が突然僕の右側を走っていった。(背後に回られた、このままじゃ)落ち葉の上を駆けていく音が遠ざかり、しんと音がしなくなったと思ったら音がまた近づいてきた。今度は後ろの左側から駆け抜けていくと軽やかな足取りで方向転換をしてその場で鼻を動かしていた。(そういえば猪の視力は悪いってテレビで見たことあったな、もしかしたら見逃してもらえるかもしれないな)猪が山を駆け上がると勢いをつけてこちらに向かってきた。(このままじゃやられる)立ち上がり両足に体重を乗せて引きつけてから右側に飛んだ。ギリギリで避けて次の突進に備える。方向転換した猪が落ち葉を巻き上げながら山道を駆けのぼる。風に乗って野生の猪の匂いが鼻を刺激した。考える暇もなく突進してくる猪。斜面に足を取られそうになりながらも避ける準備をしたが捻挫した左足がひどく痛み座ってしまった。向かってくる猪。持っていた刀を振り回し続け力いっぱい叫ぶと、急停止した猪が鼻を左右に振り回していた。構わず刀を振り回していると正気を取り戻したかのように猪がゆっくりと去っていった。
もう一度来るかと思ったがしばらく待っても来なかった。寄りかかる木は近くになく山を登り、多少平坦な場所まで来た。仰向けになって休んでいると曇り空が見えた。雨が降りそうだった。目を閉じようとするが猪が再び襲い掛かってくるのではと心配になりしばらく流れていく雲を眺めていた。
目を開けようとしたがなかなか開かなかった。これまでのことがなかったかのように気持ち良い眠りだった。ようやく目を開けると雨が降っていた。もう一度目を閉じようとして、ゆっくりと目を閉じる。空腹など忘れて身体が土に沈みこむのが分かった。意識が暗い底に運ばれた。それは実に素晴らしい心地だった。
目を開けるとそこは白い雲の上だった。正確には雲の上なのか分からないが足元にはふわふわと浮き上がる白いスポンジのような物の上に寝転んでいた。どこまでも長く遠く続く白い雲は先が見えなかった。周りを見渡すと同じように寝転んでいる者もいれば起きてこの世界の者と思われる人に従って上へと続く長く白い階段に長蛇の列で並んでいる者もいた。立ち上がり何をしたらいいのか迷っているとこの世界の者と思われる高校生ぐらいの男の子が話しかけてきた。
「おはようございます、よいお目覚めでしたか?」上目遣いのその愛らしい姿で全てを包み込んでくれそうなその少年は初めて会う人にも臆することはないようだった。
「おはようございます、ここはどこですか?」
「ここは死後の世界です。地球上に生まれた人間のほとんどの皆様はここに運ばれてきます」少年は事務的にそう答えた。
「僕は死んだのですか?」
「はい勿論、この世界にいるということはそういうことでございます。準備ができ次第あの上へと続く白い階段に進んでください」優しい笑顔でそう言った少年は他の人達の方へと歩いて行った。(自分が死んだことに疑問は持たなかったがやはり死んでしまったことについては何故か少し惜しいと思った)あの少年に言われたとおりに白い階段の列に並ぶとズボンの右ポケットに違和感を覚えた。確かめると一冊の本がポケットにあった。それを取り出して題名を確認すると日本語で書かれていたが読めなかった。ページをめくるが白紙でポケットにしまった。長い行列を眺めると一キロメートルはあるだろうか、白い衣装を着た年齢様々な人が進んでいた。前にいたのは大柄な男性で背中が厚く白髪だった。話し声などせず、先ほどの少年の声だけが聞こえた。一歩一歩進んでいると、前の大柄な男性の手には二冊の本があることに気付いた。すると僕のもう片方のポケットが膨らんだ。それを取り出すと何年か前に書いた本だった。すぐにポケットに戻すと再び歩き出した。
この白い階段の先に何があるのか分からず、皆黙々と進む姿が不気味に思えた。それは僕も同然だと気付くのに時間はかからなかった。空気が薄いのか息切れがして他の人達もそのように見えた。階段の終わりが見えた。門の下に少年のようなこの世界の者が案内をしているようだった。道は三つあり、左と右の道そして正面に階段へと繋がる道が見えた。続々と右左正面に歩いていく人達。僕はどこに行くのか考えながら歩みを進める。左に行く人たちは比較的金髪で長身が多い印象だった。右に行く人たちは黒髪でどこか中東にいそうな雰囲気だった。正面に行く人たちは見えなかったが白い階段を列をなして上っていた。そこから何分か経ったかようやく門の付近に来た。そこは階段がなく平坦な場所だった。一人一人案内されて大柄な男性の番がきた。何を話しているか聞こえなかったが日本語ではなく真後ろの人を見ると頷いているふうに見えた。大柄な男性が左の道に案内されて歩いていくと順番がきた。所定の位置に立つと名前を聞かれた。
「あなたの生前の名前はなんですか?」
「分かりません」
「ポケットに入っている本を取り出してこちらに渡してください」そう言われると右ポケットから本を取り出して渡した。ペラペラと素早くめくり読み終わると
「あなたはどのような人生を歩んできたと自覚していますか?」
「分かりません」
「いいでしょう、それで今、現世の記憶は思い出していますか?」
「現世の記憶ですか、いえまったく」
「そうですか、もう片方に入っている本を私に渡してください」左ポケットに入っている本があるのを確かめると取り出し、少年に渋々渡した。少年は中身を見ず、凝視した後ポケットにしまった。
「あなたの前世は犬でした。犬がこの世界に来ることは珍しいですが、あなたの前前世は、人格者で人を助けることに情熱を持っていました。前前世のあなたは、死んだ後この世界で右側の道に行き犬に生まれ変わりました。本来の前前世のあなたは正面の道にいくはずだったのですが、現世のあなたの家族に呼ばれ、一旦犬として経験を積んでから現世に生まれました。そして人間として現世で今の人生を歩みました」突然の告白に戸惑いが隠せず、沈黙していると
「ここにいればじきに思い出します。あなたは正面の白い階段を上ってくださいね」門が開くと風に押されて階段の方に歩いていく。よろけながら少年の横を通り過ぎようとした時
「あなたは本来、現世でも名のある人になれたのですよ」そう言われ少年の方を見るとニコッと笑った気がした。門が閉じ、風に押されるがまま白い階段を上っていく。
先ほど言われた前世や前前世の話がどこまで本当なのか、そして現世でも名のある人になれたとはどういうことなのかを考えていた。
この階段は先ほどに比べれば長蛇でもなく歩く速さはこちらのほうがスムーズだった。前にいる人は同じぐらいの背で年齢は二十ぐらい上だった。その先にいる人たちも誰とも話すことはなく黙々と階段を上っている。およそ二百メートルの階段を上っていくと、そこはどこまでも続くほどの白い広場みたいな場所だった。そこには、何人もの人がくつろいだり輪になって話したりしていた。犬と猫も中にはいて少し歩いてみることにした。五分ぐらい歩いてみると、これまでの人生を自慢したり、もう一度生まれ変わりたい、と言っている人もいた。ここにいる人の年齢はさまざまで子どもが遊ぶための遊具や寝具などが少し離れた場所にあった。それにここは日が暮れないらしく時間経過も早いらしい。
白い雲でできたような椅子に座って人々を眺めていると一人のお爺さんが横に座ってきた。杖を持ったどこにでもいるお爺さんのようだった。邪魔にならないように逃げようとすると呼び止められた。
「おい、待ちんさい、ちょいと、話をしようじゃないか、そこの人」
「あ、はい、いいですけど」座り直して話を聞いてみることにする。
「現世はどうじゃった」
「それが、あまり思い出せないのです」
「じきに思い出す。門の前で少年に本を渡したじゃろ。あれにお前さんの人生全てを記録してある。細かい感情は除いてやが」
「あの本はそういう意味だったのですか、もう一冊の本は何だったのですか」
「もう一冊じゃと」
「はい、もう一冊渡しました。」
「そうか、お前さん物書きしよったか」
「はい、高校卒業してすぐくらいの時に少しだけ。素人が書いた何でもない本ですよ」
「そうか」お爺さんは腕を組んで悩むそぶりをした。
「何か問題がありましたか」
「いや、問題はないが・・・物書きをする人間はここでは重要なんじゃよ」
「それはどういうことですか」
「今わしらが居るここは生まれ変わることはできないんじゃ、生まれ変わるには三つに分かれた道があったじゃろ、あれを右に曲がる人間だけが生まれ変われるんじゃよ。その生まれ変わりの時にどんな人生にしたいのか自分で考える必要があるんじゃよ、その時に物書きは、さまざまな人間の人生を考えなくちゃならん」
「それならば僕には関係がない。僕はそこにはいないのだから」
「それだけではない、物書きというのは宇宙にある星の記憶や想いを手繰り寄せて物語を繋ぐんじゃよ、つまりは星と会話ができるんじゃよ。一方的にじゃが。」
「僕はその値にありません、ただの無職です」
「職がないというのは、社会に染まっていないということ、地球単位の話をしておるんじゃない」
「僕は地球に生まれました。一応地球には感謝しております」
「話がずれたな、物書きは広い目で見なきゃならん、お前さんがまた生まれ変わる時に助けになるやもしれん」考え込んで何かを思い出そうとすると
「確か白い階段を上っている時に前にいた大柄な男性も二冊の本を持っていました。その人も物書きという事ですか」
「そやつは、どっちに進んで行った」
「というのは?」
「三つに分かれた道じゃよ」
「確か左です」
「そうじゃろうな、左に進む者は二冊持っていることが多いんじゃよ。何も珍しくはない」(ということは、正面の道に進んだ人間が二冊の本を持っていることが珍しいのか)首をかしげながら考えていた。
「そういえば、門の前にいた少年に『あなたは名のある人になれた』と言われたのですがどういうことなのでしょうか」
「そのまんまの意味じゃろ、そういう人は少なくない、なんなら沢山いる」
「そうですか」
「気になるんなら、そこの白い雲を掘ってみればいい。分かるじゃろうよ」そう言われると立ち上がり数歩先にある透明なガラスの上に座り覗き込むとだんだんと、もやがかかり映像が映し出された。そこに映っていたのは男性が一万円を渡される姿だった。その後家を出ていったと思われる男性は僕のようだった。映像が逆再生されると、一万円を渡された僕は受け取らず父親に謝罪をしていた。それからどこかの工場で働いている姿が映し出され四十代になった頃だろうか、趣味であろう刀作りで頭角を現して何かの式に出席していた。写真が映されそこには父、母、姉二人が恥ずかしそうに笑っていた。その後も特に変わったことはなく趣味と仕事をして円満な人生を辿っているようだった。映像が終わり、もしかしたらの人生、あったかもしれない人生、名のある人とはこういう事なのかと納得していた。
「お前さんはまだ記憶が戻ってはいないと思うがそういうことじゃよ。分かったか」呆然としていると何かが頭を刺激した。思わず頭を手で支えると現世の記憶が全て脳内に入ってきた。僕が落ち着いたのを確認してお爺さんが話し始めた。
「記憶が戻ったようじゃのう、ここにいる間は残り続けるが、また生まれ変わる時にはその記憶はリセットされる」
「全て思い出しました。はっはっはっは、思い出してみるとしょうもない人生でした」
「じゃろうな、大抵そうじゃよ。あっちを見てみなさい」そう言って僕から見て左側の方を指さした。そこには五十代ぐらいの男性が、僕が先ほど見たガラスのようなものを食い入るように見ていた。
「あの人間は何年も何十年も何百年もああしておる。もしかしたらの人生に憧れて・・・ここは死んだ者たちの憩いの場じゃよ、ゆっくりするための場所じゃ。お前さんもゆっくりするが良い」そう言うとお爺さんはゆっくりと立ち上がりどこかに歩いていこうとした。
「お待ちください、あなたは何者なんですか」座ったままお爺さんを見上げるように言うと
「ただの相談役じゃよ、また生まれ変わりたい時があったらわしに言ってくるといい。じゃあな」お爺さんは遠くの見えないところに行ってしまった。
椅子に座り、お爺さんとの会話を思い出していると周りの人がなにやら拍手をし始めた。僕も拍手をすると白い階段から一人の女性が上ってきていた。女性は片手をあげて拍手に応えていると
「よくやったー!」
「頑張ったなー!」と周りにいた人が声を飛ばしていた。何か現世で成し遂げたのかと思っていると女性が人に囲まれ出した。
「この度は私、カミになることが決定したと門の前にいた少年様から告げられました。ありがとうございます。現世では人助けを生業といたしまして数多くの人を自己満足ですが助けてまいりました。あと少しすれば私のお社が建ちます。皆様お暇がありましたらぜひ私のお社にいらしてください。お酒をですね、少々ですがふるまいたいと思っておりますので、ぜひ・・・」女性は深く頭を下げるとさらに大きく拍手が巻き起こった。人助けをするとカミになれるのかと思っていると一人の男性が話しかけてきた。
「あんた、ちょっといいか」
「何です」
「あれみてどう思った」
「どうって、どうも思いませんでしたけれど」
「そうか、ちょっと来い」
男性が誰もいない場所の方に歩いていくと他にも四人いた。立ち止まり誰が話すのか窺っているとボスらしき人が話しかけてきた。三十代ぐらいの男性ばかりだった。
「そこの、お前、俺らと同じだろ」
「同じとは」
「人様に迷惑をかけたことがあるだろ。そういう顔してるよ。お前」
「傷つけようとはしました。だけどやってない」
「そうか、ここでは皆そう言う。ところでうちのメンバーにならないか」怪しい笑みでそう言った。
「僕はまだ考えなくちゃならないことがあるから、君たちのところには入らない」元いた場所に帰ろうとしたが肩をつかまれて止められた。
「何です」
「いいか、お前はああいうやつらには成れないんだ、分かるか?」
「分かります。確かに僕は誰かに称賛されることはありません。だけど、自分が望んだ方に歩いていかなければならない。不幸で終わらせるわけにはいかないんですよ。今度は自分が自分の人生を変えていかなくちゃならないんです」
「そうか、それはごめんよ。ところでさ、また現世みたいに自暴自棄になったらどうするつもりだ」「それでも自分が望んだ未来へ歩いていこうと思っています」
「お前、頑張ったんだな」ボスがそう言うと周りにいた男性たちが認めてくれたような感じがした。
再び歩き出すと視界が真っ暗になった。
目を開けるとお爺さんが立っていた。仰向けから立ち上がると
「試験は合格じゃ、お前さん、よく頑張ったな」何が起きているか分からずにいると
「理解できていないようじゃからわしが説明するとわしが離れた後からお前さんは夢を見ていたんじゃよ」
「なるほど」
「話が早くて助かるわい。あの褒められていた女性もあの五人の男たちも全てわしが用意した役者じゃよ」
「え・・・」
「なんじゃ、分かっておらぬではないか、現世で人を傷つけようとした者がそうやすやすとここにいられる訳がないじゃろうよ」
「そうか」
「試験の結果、お前さんは合格じゃ、前を向いて進む、例え転んでも歩き出す、それを言ったお前さんは合格じゃ」
「そっかー、怖かった。あの男たちが出てきたところとかどうしようかと思いましたもん。あの女性が皆に祝福された時、羨ましかったもんな」
「詳しいことは言えぬが、あれはお前さんの願望でもある。誰かに祝福や称賛されたい、それは当然のことじゃよ。男たちはこっちでいじったが」
「そうですか、もしあのまま男性たちから暴力を振るわれたらどうする予定でしたか」
「お前さんのポケットに刀が出てくる予定じゃったよ」
「なるほど、その刀を使ったら僕は不合格でしたか」
「言うまでもなかろう」
「もし不合格だったら僕はどうなっていたんですか?」間があいた。
「どうじゃろうな」・・・
「そうですか、それで僕は合格したこの後どうすればよいのですか」
「好きにすればよい。ゆっくりするのもよし、生まれ変わるのもよし」
「そうですか、分かりました。少し休んで決めます」
「うむ、分かった。また会えたらその時はよろしくじゃな、あと現世での生活を見るにはヨシ婆に言えばよいぞ。では」
「はい、ありがとうございました」お爺さんは早い速度で遠くに消えていった。
椅子に座って上を眺めているとこれまでのことが鮮明に思い出された。すると白い階段から一人の女性が上ってきた。夢で見た女性とは違い若い女性だった。大勢の人から拍手をされるとお辞儀をしながら歩いて立ち止まるとこう言った。
「私は科学者です。人類のために命を懸けて研究をし、ついにヒューマノイドを完成させました。私がいた二千八十七年にはもうすでに人々の不安は消え去り明るく豊かな生活が私たちを迎えてくれます。・・・・・・」その女性の話はその後も続き大勢の人が聞き入っていた。生まれ変わりを望む人も増えてお爺さんは忙しくしていた。
椅子に寝転がりながら現世のことや、前世、前前世のことを思い出そうとした。復讐計画は失敗してやはりよかった。もしも成功していたら僕はここにはいないだろう。前前世のことは、人格者で人を助けていたなんて想像もつかないが。それから死んで、正面に行くはずだった。つまりここに来るはずだったが、右の道に行き犬として生まれ変わった。何故犬なんだ、人間に生まれても良かったのでは。忙しくしているお爺さんに聞いてみる事にした。
「お爺さん、僕は何故前世で犬として生まれたのですか」
「お爺さんじゃない、ロウ爺じゃ。何故犬に生まれたか、それは」ポケットから本を取り出して読み上げる。
「『その者、人間として生まれ変わるのに人助けの数が足りぬ故、犬として生まれ変わらせた。』とある」
「なるほど、ありがとうございます。ロウ爺さん。前世のこととか僕に話して良かったのですか?」
「構わんよ、皆ここにいたことは忘れる」
「そうですか、それと、もし僕が復讐を成功させていたらどうなりましたか」
「何にもならん、ただの自然現象じゃよ、地球はそういう星じゃよ、生まれて死ぬ、それだけじゃよ」
「そうですか、ありがとうございました」一礼して椅子に戻る。(僕が虐められたのも自然現象の一つでそこに善悪は無いということか、成功させてもそれも人生か・・・)少し考えると、人間として生まれ変わるにはポイントみたいなものが必要だと知りまた考える。(現世の家族に呼ばれとはどういうことか、僕はあの家族のために人間に生まれるよう一旦犬になったということか、だとしたらあの家族が生まれる前だろうな。年代で言ったら西暦千九百六十三年より前になる、父親が生まれたのがその年だから。それで二千年に僕が生まれたという訳か)立ち上がりロウ爺さんに言われたヨシ婆のところに行ってみることにした。近くにいた高校生ぐらいの髪の毛が黒色の女性に聞いてみた。
「あの、すみません、もしご存じでしたらヨシ婆さんがどこにいらっしゃるのか教えてほしいんですけど」女性は驚いたような顔をして
「私、ここに来たばかりで分からないんです、すみません」
「いえ、こちらこそすみませんでした」見覚えがある顔だなと思いつつ少し歩いたら人だかりができていた。そこに行ってみるとヨシ婆さんらしき人が眼鏡を色々な人に渡して白い雲の下をずっと見ているようだった。
「すみません、ヨシ婆さんですか」
「そうじゃが、どうした」下を覗き込みながらそう答えた。
「現世を見たいのですが」
「誰の紹介じゃ」
「ロウ爺さんです」
「ふ~ん、あの爺さんね、あんたなんかしたんかね」
「はい、まあいろいろと」
「そうかい、これをかけて下を見るんだ」眼鏡を受け取ると耳にかけて目を凝らした。すると人々の暮らしが見えたが未来の暮らしだった。
「ヨシ婆さん、昔のは、見れないんですか」
「念じるだけさ」そう言われて集中して見てみると、映像が逆再生され二千二十四年の映像が映し出された。必死に家族を探して見つけると家に父と姉二人がいた。兵庫県の方を見ると母が二人でアパートに暮らしていた。山で出会った女の子とお婆さんは神社にお参りをしていた。眼鏡を外すとヨシ婆さんが話しかけてきた。
「あんた、夢の中でも謝ってきたらどうだね、せめてもの償いでよ、親より先に死ぬもんじゃねえよ」
「はい」少し間をおいて言った。
少し歩き人が少ない場所で白い雲に座った。目を閉じて家族のことを思い出す。目の前が暗くなり、目を開けると父親が立っていた。何を話そうか考えて話し出した。
「父さん、ごめん。これまで出来の悪い子供で何も家族のためになることは何もしないでごめん。今夢の中で話しているけれど、姉ちゃんにもごめんって言っておいて。」父親は黙っていた。何か話し出そうとしていたが時間があまりないようだった。
「ありがとうね。ごめん」そう言うと暗い場所から白い世界に帰ってきた。目を開けると目の前にロウ爺さんがいた。
「お前さん、それは一度しか使えんものじゃよ。それに個人が勝手に使える代物でもない。どうやったんだ」ロウ爺さんの静かな焦りと怒りが目の奥から伝わってきた。
「念じました。ヨシ婆さんから夢の中で謝ったらどうかと言われたので謝りました」
「その力はヨシ婆さんしかここら辺りは出来んはずじゃ、まあいい、お前さんも一回しか出来ん筈じゃから」
「ヨシ婆さんなら、何回でもできるのですか」
「そうじゃよ、あの人はこの世界とあっちの仲介役みたいなもんじゃ」
「生まれ変わることはできますか」
「なに、生まれ変わりじゃと」
「はい、父のもとに行きたいんです」
「できるが、もうちょっとここにいてもよいんじゃよ」
「いいえ、すぐにでも父親のところに行きたいんです」悩むロウ爺さんだったが
「分かった、じゃが、もう一度人間に生まれ変われると思うなよ」
「はい」
「じゃあわしの杖を握れ」言われるがまま杖を握ると下にあった白い雲をすり抜け、少年がいた門の前に到着した。
「テンよ、右の道にこやつを連れていくがよいな」
「えぇ、勿論です。予定の範囲内です」門の前にいた少年がそう言った。
「すまんな」ロウ爺と門をすり抜けると少年が目くばせをした。ロウ爺さんと右の道に進んで行くとそこは金色に輝いていた。光にうろたえていると金色に輝く人に出会った。
「この者を二千二十五年以降に生まれ変わらせたいのじゃがどうだろうか」ロウ爺さんが言うと金色に輝く人は僕の方をじっと見つめた。
「あなたは既に現世での役目を果たしています。全ては計画通りに進んでいます。あなたがその年代に生まれ変わることはできない」
「どうしてもだめか?」
「はい」
ロウ爺さんに連れられ白い世界に帰ると椅子に座り話した。
それからもそれからもロウ爺さんは忙しくしていた。白い階段から上がって来る人の相談役をしたり、右の道、左の道の人と仲介役をしているようだった。白い雲の上に寝転がりながら時間を潰していた僕は、いつしかロウ爺さんを手伝いたいと思うようになっていた。
通りかかったロウ爺さんに話しかける。
「ロウ爺さん、話があります」
「何じゃ、お前さんに構えんぞ。早く申せ」決心して話し始めた。
「ロウ爺さんの役に立ちたいんです。手伝わせてください」
「お前さんには無理じゃ、残念じゃったの」
「何故ですか、他に手伝う人はいるんですか?」
「人手は足りとる、それにこれはわしの、何でもない、諦めろ」
「ここに家族はいません、知り合いもいない、ロウ爺さんだけなんです」
「家族がいないって、お前さん現世であんなに無視をしといて寂しいと、家族とは・・・呆れるのー、それにお前さんがちゃんと葬式で供養されればここには来なかった筈じゃよ」
「それはどういうことです」
「森の中で死なずに畳の上で亡くなれば家族にも会えたじゃろうな」
「なるほど」
「まぁとにかく手伝いなどいらん」走り去ろうとしたロウ爺さんを呼び止める。
「待ってください。僕の母も金色の場所にいますか?」
「どうだろうな」
「そうですか、すみませんでした。忙しいのに」
「よい」ロウ爺さんはこちらを向いたまま何か言いたげだった。
「それよりお前さん、お前さんの星に行ってみるか?」耳を疑ったがすぐに聞き直す。
「僕の星ですか?」
「そうじゃ、物書き、何かを想像する人には星が生まれるのじゃよ。ここからちょいと時間がかかるが、どうじゃ行ってみるか?」突然の問いに戸惑う。
「待ってください、物書きには星が生まれるのですか?」
「そうじゃよ、前に言った通り宇宙にある星の記憶や想いを手繰り寄せて物語を繋ぐと言ったが、お前さんが考えた物語はお前さんの星に忠実に再現されておる。出来たばっかりの星じゃが、どうじゃ行ってみるか?」さまざまな思いが駆け巡り時間にしては数秒だったが前から決まっているかのように答えた。
「行きます、お願いします」
「言い忘れたがここには帰ってこれんぞ。それでもよいか?」
「え?」
「何じゃ?」
「いえ、帰ってこれないのですか?」
「もちろん」
「永遠に?」
「そうじゃよ」少し悩んだ。
「行かせてください」ナメクジが進むようなひどくゆっくりと渋々言った。
「じゃあ、ついてこい」
そう言われ遊具を抜けて細い道を歩いていくと両側には榊の木が並んでいた。二人は無言のまま五分ぐらい歩いた先に木製の引き戸が見えた。前に来るとロウ爺さんが恐る恐る戸を開けた。すると銀河が戸の先一面に広がっていた。
「ここですか?」分かってはいたが聞いた。
「ああ、そうじゃ。ここからは一人じゃよ。」未来への期待とこれまでの感情が押し寄せてきた。
「では行ってきます。ロウ爺さん、今までありがとうございました。お世話になりました。」
「そうじゃろうな、お世話したからな」笑う僕。
「では」「ああ、またな。・・・立派な星にしたらまた帰ってこい」
「はい?」背中を押され銀河へと放りだされた。振り返るとロウ爺さんが微笑んでいた。
深い息を吸って宇宙の大きな大きな流れに沿って流されていく。僕の星がどこにあるかは分からないが顔を上げて進んで行く。見つからなくてもこの先どうにかなるだろう。
これまでのことを微かに思い出して前へと進んで行く。遠い宇宙の果てへと僕はこの先も歩いて行くだろう。
この物語は amazarashi様のアルバム【ボイコット】の『独白』冒頭、
「私が私を語るほどに 私から遠く離れてしまうのは何故でしょうか?」
から着想を得て執筆しました。
主人公の兵護は人付き合いが苦手で家族に愛されていないと思い込んでいます。彼が死なないようにする方法はいくらでもありました。しかし彼の人生も一つの自然現象だとこの作品にこめました。
決して復讐行為を推奨している訳ではなく感情として正しく、法に反している。実際に彼の復讐計画は失敗しました。それはこの社会で生きていくための最後の命綱であったと思います。
最後に amazarashi様 に感謝を述べたいと思います。
ありがとうございました。