彼女が彼女である所以
レティシアにとって、世界はいつだって優しくなかった。
レティシアは、とある娼館で育った。そこの娼婦の一人が母親だったからだ。その娼婦は、借金のカタに売られてそこにやってきたらしい、とある子爵家の令嬢だった-----こういった事は、特段、珍しい話でもない。
けれど、その娼婦は少々勝手が違った。娼館にやってきたその日から、一人の高位貴族に囲われたのだ。その貴族以外客は取らず、そんな奇妙な状況が数年ほど続いたのち、生まれたのがレティシアだった-----恐らくはその貴族がレティシアの父親なのだろうが、彼女はその男に会ったことはなかった。理由は知らないが、それが許されなかったので。
とはいえ、母親や同僚の娼婦たちにそれはそれはかわいがってもらったので、環境はさておき父親はおらずとも寂しい思いをすることはなかった。
レティシアは気づいたら、誰に教わるでもなく魔法を使うことができた。それは次第に魔術へと転じ、それを使って娼館内の様々なことを手伝いつつおやつをもらったり、客がおらず暇な娼婦に遊んでもらったり今思い返してもそこそこ楽しい日常であったと記憶している。
そんな平穏で、平凡な日常が崩れ始めたのはレティシアが七歳になったころのことだった。
数か月前、母親はまるでうら若き少女のように頬を染めて「ふふ、レティシア、私のかわいいかわいいレティシア。もうすぐ、もうすぐ会えますわ」と笑っていた。
きょとんとして誰に会えるのか訊いてみたが、母親は幸せそうに微笑んだまま内緒、と人差し指を桜色の唇に当てて笑みを深めていた。不思議だったが、こういう時の母は決して明かしてくれなかったので、レティシアは諦めて教えてもらえる日を待っていた。
しかしある日、母が一通の手紙を受け取った。それを読んだ母は見る見る顔を曇らせ、次いで顔を歪めると手紙をくしゃくしゃにして「嘘よ…そんな…そんなはず…あの人はだって、迎えに…」とぶつぶつと呟き始めた。
レティシアは嫌な予感がしていた。毎日のように通っていた恐らく自身の父であろう男が、手紙が届くしばらく前から姿を見せなかったからだ。それでも母はいつも通り客を取ることもなく、レティシアと遊んでくれたり、彼女が知る作法等を教えてくれていた。そんな最中、娼館の主が持ってきた手紙を読み、それから母は一変してしまった。
その日から、母は毎晩眠ることもせず祈るように窓の外をじっと眺めていた。誰か来る度期待したように立ち上がるが、違うと分かると椅子に座る。その繰り返しだ。
手紙が来てから数日後、一人の男が母を訪ねてきた。それは母が心待ちにしていた父らしき貴族ではなく、身なりからしてどこかのお屋敷の侍従のようだった。
レティシアは他の娼婦に連れられ部屋を出されてしまったのでどういう話をしたのかは知らないが、その後の母の様子から大体予想はついていた。
きっと、その時ずっと母を囲っていた貴族はもう二度と来ない、と告げられたのだろう。
娼館に来て数年、母は愛した男に捨てられた、という訳だ。上級ではないがそこそこ格式のあるこの娼館で、元貴族令嬢の娼婦を囲うにはそれなりに金がかかる。そうまでして囲っていた女をあっさり手放すとは不思議だったが、貴族にとってはした金だったのかもしれないとレティシアは思った。
会ったことがないので、レティシアにはその男が来なくとも何とも思わなかったが、母はすっかり生きる気力を失くしてしまったようだった。
そんな母に、娼館の主は気の毒だが、来月からは客を取ってもらうよ、と言っていた。それもそうだよな、とレティシアは思う。娼館に居て客を取らないでいられたのは、あの男が一か月で母が稼ぐであろう金額以上の金を納めて他の客を取らせないよう頼んでいたからだ。
それがなくなったのだから、今後も娼館にいるためには仕事をしなければならない。娼館での仕事といえば、一つしかないのだ。
しかし、それを聞いた母は瞠目した後、すぅ…と瞳から光が消えたのを、レティシアは気づいてしまった。
レティシアは敏い子供だった。魔力が高いからか、生まれついた知能か。気づいたところで自分にはどうしようもないことくが、手に取るように分かった。
だからレティシアはせめて、母の邪魔にならないようにしよう、と思った。
-----その日は、朝からしとしとと雨が降り注いでいて、夏の始まりにしては随分寒かった。
肌寒さで目が覚めたレティシアはふと、母の部屋の方へ視線を向けた。寝静まる娼館の廊下を進み、母の部屋を目指す-----近づくにつれ、思わず鼻を塞ぎたくなるような臭いが濃さを増す。
レティシアが母の部屋の扉を開けると-----そこには、変わり果てた母の姿があった。あのおっとりとした優しい母のどこにそんな度胸があったのだろう。躊躇うことなく自身の首を掻き切っている。母が娼館に来た際あの貴族の男が揃えたらしい調度品や真っ白なカーテンが、母の血で真っ赤に染まっていた。
レティシアは手のひらを上に向けると、無言で小さな鳥を生み出した。館主の部屋の方を指指すと、小鳥は音もなくそちらへ羽ばたいていく。
程なくして館主の慌てた足音を耳にしながら、レティシアは小さくつぶやいた。
「…やっぱり、私じゃだめだったんだね」
-----それからレティシアは、母の死が落ち着いたのち娼館の主にここにいるならいずれ客を取ってもらうよ、と告げられ、それは嫌だなぁと子供心に思いあっさり娼館から出ていくことにした。
最も、七つという年齢に見合わない異様な知能の高さと、魔術の技術があったからできたことではある。これが何もできない普通の子供であったなら、潔く母と同じ道を歩む他なかっただろうからレティシアは己の頭と技量に初めて幸運を感じた。
娼館を出たレティシアは、花街の大体反対側位に位置する貧困層が住まう区画-----通称北区へやってきた。そこで物件を管理していた北区の長に話を付け、今はだれも居ない元は古書店だったという家を無償で借り受けることができた。
家といえば聞こえはいいが、レティシアがそこを訪れた時外観こそまともだったが中に入ると古書が散乱していてひどい有様だった。早速己の力を存分に発揮し壊れた本棚を直し、散らばった本や床に雪のように積もった埃を綺麗にし、本を棚へ戻した。
店の奥、恐らく店主の為の小部屋にあった腐りかけた木のベッドも綺麗にし、同じく綺麗にした埃まみれだった敷き布を上に置き寝床も確保した。
次の日から早速北区の住民から様々な依頼を受け、対価として果物や時には食事をもらった。魔術が使えるので、当然大気中の水分を水に変える生活魔法は息を吸うようにできる。飲み水にも困らず、一ケ月もしない内に生活の基盤を整える事が出来た。
一人故に静かで、穏やかで、特段何か大変なことが起きているわけでもない-----北区の住民たちはどうみても十にも満たない子供が一人で生活をし始め、しかも何やら随分と頭が良く魔法以上の何かができるらしいことに半分畏怖し半分同情で扱っていたが-----日常に、レティシアはふと思った。
なんてことのない平凡が、いちばんなんだなぁ、と。
* * *
「はぁ…最悪…」
「そんな落ち込むなよ~もうどうにもできないんだからさ」
「何のために私が三年で飛び級したと思っているの!」
「そいやなんでだ?」
「外に出たくなかったからよ!」
そんな理由で卒業すらやっとの魔術学院を最短で卒業した上に国家魔術師になったのか…とリオネルは呆れてしまった。ちなみに、入学して三年で卒業は過去最短であり、未だに破られていない記録である。
呼び出されて嫌々出向いた先でウィリアスタに春から共に王立学院へ来るよう命じられてから数週間後。レティシアは王立学院の一等科-----伯爵以上の爵位の親を持つ生徒しかいない高位貴族クラス----の制服を纏い、魔術塔の自室にいた。教えた覚えがないのに制服のサイズがピッタリで怖い。
コンコン、とノックの音が響き、レティシアが返事するより早くリオネルが「おー!入っていいぞ!」と元気よく返してしまう。このまま黙っていれば逃れられないかな、と考えていたことが読まれていたみたいだ。
「レティ、準備できたね?うんうん、よく似合っているよ」
「どうも…」
王立学院一等科の制服は、膝下丈の白いジャンパースカートの下に白のノーカラーブラウスを合わせ、その上にまたしても白い襟が映える王立の証である青いケープを合わせる。ワンピースとケープの襟と本体に金糸で緻密な刺繍が施されており、陽の光できらきらと輝いているようで大変に美しい。ケープを留める濃紅のリボンと、金の刺繍が入った青いベルトが目を引く最高級の逸品だ。
王立学院の制服はそれだけで一定のダンスパーティーやお茶会に行けるほど格式が高い。上質な生地で作られたそれはそのお値段も中々なものである。
ちなみに、足元も指定の茶色い編み上げブーツだが、この靴もまた上質な皮でできている。
「じゃ、行こっか」
「はいはい…」
「どうしてそんなに嫌かなぁ」
「にんげん、こわい」
「大丈夫大丈夫。取って食われたりなんてしないよ」
けらけらと笑うウィリアスタを、レティシアは恨めし気に眺める。大国の第一王子なだけあり、高度な対人スキルを持つ彼に引きこもりのレティシアの気持ちなんぞわかるはずもない。
王城から学院へ向かう馬車へ着くと、すっとウィリアスタは手を差し出した。
「お手をどうぞ、お姫様」
「……」
「ちょっとふざけただけだからそんな目で見ないでくれ」
毛虫でも見るような目を向けられたウィリアスタは、苦笑しつつレティシアを馬車に乗せると彼女の向かいに座り、コツコツと御者側の壁を叩き出発を促した。
緩やかに走り出す馬車に揺られながら、レティシアはすぃっと人差し指を一振りする。
その仕草一つで馬車へ強固な結界を張ったのが分かったウィリアスタは、レティシアを見て優しく微笑んだ。
(敵わないなぁ、本当に)
張られた結界を壊せる魔術師を、ウィリアスタは知らない。この馬車の中は今世界一安全だ。
なんだかんだ文句は言いつつ役目を全うするから、こうして嵌められてしまうことに彼女はいつ気が付くのだろうか。頭は良い癖に変に鈍いところが可愛いから、勿論教えてなどやらないが。
「君との学生生活、楽しみだなぁ」
「私は全然楽しみじゃない…」
「学食!!なぁ学食連れてってくれよご主人!」
短いですがキリがいいので今回はここまで。