かつて、少女が少女だった頃
目の前で真っ赤に染まっているそれを眺めて、レティシアはどうして、と思わずにはいられなかった。
方法はいくらでもあった。レティシアの能力があれば、娼館を出て二人で慎ましやかに暮らしていくことは出来た。レティシアの母は別に借金がある訳ではなく、金欲しさに売られただけなので出ようと思えば出れるのだ。そうしなかったのは、単に母に生活能力が皆無だったから―――貴族令嬢だった彼女は、凡そ一人では生きていけなかった。だから、娼館に留まっていたに過ぎない。
娼婦たちは言わば商品なので、下手に瑕疵が付かないよう守ってもらえる。まともに生活できない、見目の良い女が一人で暮らすよりかは、娼館にいたほうがまだ安全というものだ。
母は、少女のような人だった―――事実、レティシアを産んだ時はまだ十五かそこらだったという話だから、中身は少女のままだったのかもしれない。十四で娼館に売られた彼女は、精神が未熟なまま母親になってしまった。それが事故だったのかどちらかの故意だったのかは、今ではもう知る由もない。
ただ、子を産んだ娼婦は価値が下がる。ともすれば原因の男に責任を取らせることも出来ることを考えれば、存外母は強かな女だったのかもしれない。
―――それとも、子がいれば男を繋ぎとめておけると思っていたのだろうか。
どちらにせよ、愚かだとレティシアは思う。
貴賤結婚は珍しくもないが、多い訳でもない。歴史ある高位貴族程家柄を重視する傾向が強い。あの男―――おそらくはレティシアの父親であろう男も、そう言った家柄であろうことは身なりから察していた。
その割には足繫く母の元に通うし、大金叩いて囲っていた。娼婦一人自身の専属にするのは決して安いものではないが、金など腐るほどあるであろう高位貴族からしてみればどうってことなかったのだろうか。
いずれにせよ、母が父になんと言われていたのかは知らないが、それらすべてはただの甘言であっただけの話だ―――愛情など欠片もない、気に入りの娼婦をその気にさせる為の、その場限りの睦言。
少女のままだった母は、すっかり信じ込んでしまい、その結果が今目の前の光景だと思うと、レティシアは何とも言えない気持ちを抱いた。
愚かな母を嘆くべきか、身勝手な父を恨むべきか、はたまたその両方か。
母はレティシアを愛してくれていたように思うが、時々レティシアを通して違う誰かを見ているようだった。母がくれる愛情が、レティシアに向けられたものなのか、レティシアの中に流れる誰かの血に向けられたものなのかは、最後まで判別が付かなかった―――否、母が自害したその事こそが答えなのかもしれない。
少なくとも母には、父がいないなら生きていく価値がなかった、といことなのだ。
母の「生きていく理由」に、レティシアはなれなかった。
* * *
母が死んで、数日後。
娼館で娼婦が死ぬのは珍しくもない。どこの誰とも知れぬ男に抱かれるのを厭い、水揚げの前に自ら命を絶つ娼婦も少なくないからだ。娼館によってはそれを許さず常に見張りをつけるようなところもあるそうだが、この娼館ではそれもまた選択肢の一つとして、それを望むのなら好きにさせていた。
レティシアも、何度か娼婦の葬儀に立ち会ったことがあるほどだ。娼婦の葬儀は簡易的なもので、近くの教会にある集合墓地に埋め、神父に神の御許へ行けるよう祈ってもらうだけだ。自害した者は神の元へ辿り着けないから、聖職者に祈りで導いてもらう必要がある、と言われている。
母も同様に、明日埋葬され祈りを捧げて貰える手筈だった。母が死んでも娼館は変わらない日々を送る。滅多に部屋から出ず、ただ一人の男の相手しかしない母を疎む娼婦もいたため母が死んだところで悲しむ者もいない。
堕胎を繰り返してもう子供を望めない幾人かの娼婦は、レティシアを可愛がってくれた。そんな彼女らは母を亡くしたばかりのレティシアに何くれと世話を焼いてくれ、お礼に色々と手伝いをしていた。
その時も、そんな風に用聞きをして館主のところへ使いに行くところだった。母の遺体が安置された部屋の前を通った時―――ゾワリ、と物凄く嫌な気配がした。
慌てて部屋の扉を開けてみると―――信じられない光景に、レティシアは瞠目した。
母の遺体が真っ黒な何かに覆われていたのだ。それは徐々に部屋を侵食し、今にも出そうになっていた―――レティシアは直感で、それはよくないことであると感じ取った。
扉を閉めて、出来る限りの結界を張り黒い何かが外に漏れ出ないようにする。走って館主の元まで行き、事の次第を伝えると彼は真っ青になった。
「それは、"のろい"だ―――どうして、そんなことに…」
―――"のろい"とは、何かをきっかけに漆黒の魔力に侵されることを言う。憎しみだったり、悲しみだったり、原因は様々で発生条件も良く分かっていない。そして、この"のろい"は伝染する。
生きた人間や動物の場合、我を忘れて攻撃的になり破壊行為に及ぶ。死んでいる場合はただ"のろい"を広げ、覆いつくし、道連れにしようとする。一定時間触れてしまえば、闇に飲まれ元凶と同様にのろわれてしまう。
母の遺体から出ていた黒い何かが"のろい"だとすれば、娼館どころかこの町全体が危ない。だが、対処できる魔術師などこの近辺にいるはずもない。
対処方法を聞いたレティシアは、静かに一度瞑目した。
ついで、この娼館を含め近隣へ避難するよう館主に伝えると、彼の慌てた声を無視して母の部屋へ向かった。
部屋につくまでに、何人かの娼婦に危ないから逃げなさい、と言われたが、それらもすべて無視した。昔から子供らしい子供ではなく、少々の気味悪さを感じていたのか怪訝そうな顔のまま、忠告したからね、と言い捨てて去って行く娼婦たちとは反対方向に進んでいく。
そこまで広くない娼館なので、すぐに着いた―――覚悟はとうに決まっていた。
"のろい"が発生した場合の対処方法は、二つ。精霊の力を借りて"のろい"そのものを焼き尽くすか、魔力で発生源毎焼き尽くすかのどちからだ。残念ながら、レティシアは精霊を呼び出す術を知らない。ということは、出来ることはただ一つしかなかった。
―――この国で遺体を焼かれるのは、死罪を犯した人間だけだ。死刑を執行した後、その遺体は埋葬されることもなく野焼きにされその灰は空へ漂う。そうした場合、魂は神の元へ行けず生まれ変わることも、「死」によって得られる安寧もなくただ真っ暗な闇を永遠に彷徨うことになる、と信じられている。実際どうかはさておき、教典にはそう記されているのだ。
魔力で焼き尽くすとなると、その灰すら遺らない。存在そのものがなかったことになるようで、レティシアは一瞬躊躇した―――が、静かに手を翳した。
中に入るのはレティシア自身も危ないので、扉越しに母の遺体を焼く。部屋に充満する漆黒を巻き込んで、どんどん燃やしていく。器用に制御しているので、母の遺体と漆黒以外に火が回ることはない。
―――一体どのくらい、そうしていたのか今でも判らない。
かなりの魔力を消費し、少々ふらつきながら扉を開けると、部屋の中には何もなかった。
無事成功したことを、喜べはしなかった。さっきまで確かにそこに在り、明日神の元へ送るはずだった母は、まるで最初からいなかったように消えてなくなっていた。
「かあさま、…………ごめんね」
もし、精霊の力を借りることが出来たら、母の遺体は消えてなくなったりはしなかっただろう。
別に教会の教えを妄信している訳でもないが、灰も残らなかった母の魂がどうなったのか、レティシアは考えたくなかった―――自らの手で母を消滅させたことは、レティシアの中で深い禍根となって残り続けることになる。
声もなく一筋の涙を流し、瞬き一つでそれを消すと、レティシアは外に出た。
館主にすべて済んだことを伝えると、救ったことに対し礼を言われた。しかし、その瞳には確かに畏怖が見て取れた―――たった十にも満たない子供が、顔色一つ変えずに一人の人間を消し去ったことは、充分恐怖に値する。
レティシアの精神も、その力にも。
元々娼館に残るつもりはなかったが、よしみである程度育つまでは―――水揚げの対象となる、初潮を迎えるまでなら―――娼館に居ていいと言われていたが、レティシアは早々に館を出ることを決めた。
その騒動から数日後、レティシアは生まれ育った娼館を出て、一人の生活を始めるに至ったのであった。
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