09 地下牢のキーラ
神官エルクスは、キーラの入れられた地下牢へと訪れた。
「……酷いものですね。疑い程度しかない、それさえも怪しい。貴族令嬢をこのような場所に」
それも神の予言により、王妃となる筈だった運命の女をだ。
レグルス王の彼女への仕打ちは、神への冒涜と言っていい。
簡単な事で心を動かされる事などない不老の大神官エルクス・ライト・ローディアは、流石に怒りを覚えていた。
仮令、王とて何をしても赦されるワケではない。
世界は神の膝元にこそあるのだ。
王は人々をまとめ、導く者だが、不当な裁きを下す者であってはならない。
「こちらです……。レグルス王の戴冠により、恩赦を受けた囚人が居なくなった為……彼女1人が地下牢に居ます」
「たとえ罪を犯していたとしても、貴人牢に入れるべき令嬢を。新王にして、既に乱心済みか」
「神官様。そのような言葉は……」
「しかし、これでは。誰がついて来ると言うのですか。この先、理不尽を受ける者が彼女1人で済むと誰が信じられるのです」
「…………」
レグルス王は、既に臣下の心を失いかけている。
いや。それでもまだキーラが悪女であるならば、王政としては救いがあるかもしれないが。
「~~♪」
「……歌?」
地下牢の奥。キーラ1人しか居ない筈の場所からは綺麗な歌声が聴こえた。
絶望に涙し、或いは理不尽に怒っているか。
そう思っていた神官エルクスは、驚きを隠せない。
「……キーラ様?」
「あら」
鉄格子の向こう。岩で覆われた空間。唯一で、心許ない窓から差し込む光の下。
冷たい壁に寄りかかったキーラが、歌を口ずさんでいた。
「お客様だなんて珍しいわ。無言の食事係だけが、ここを訪れるものだと思っていたもの」
キーラはなんと微笑んで見せた。
このような状況に置かれてなお。
頬はやつれている。身体は汚れたまま。しかし……。
(気がふれていてもおかしくない仕打ちだ。それでも彼女は、精神を保っているのか)
「私が分かりますか? キーラ様」
「ええ。大神官エルクス・ライト・ローディア様。お久しゅうございます」
ボロボロの服のまま、彼女は手ぶりでカーテシーをして見せた。優雅に。
「……話を聞きました。駆けつける事が遅くなった事を詫びましょう」
「あら。それでは大神官様は、私をここから出してくださるの?」
「それは」
レグルス王はキーラの解放を許可していない。
しかし。
「……キーラ様。貴方に問わなければなりません」
「何なりと。大神官様」
「……貴方は、聖女ユークディア・ラ・ミンクに毒を盛って、殺そうとしましたか?」
「──いいえ。神に誓って、そのような事は致しておりません」
「本当に?」
「ええ。だって私に彼女を毒殺する理由がありませんわ」
「理由ならば……」
いや。理由だけはある筈だ。それはエルクスさえも認めている。
「ありませんわ。大神官様。如何なる理由があるとお思いで?」
「……貴方は、レグルス王から婚約破棄を言い渡されました。正妃の座を、聖女ユークディアに奪われた。理由、動機だけならば十分にあります」
「ふふっ!」
キーラはエルクスの言葉に思わずといった風に笑った。
「……何を笑うのですか?」
「だって! ふふ。私が嫉妬で聖女を殺そうとしたとでも?
それでは、まるで……私が、かの人の正妃になりたい、なりたかったようではないですか?
私は、王の伴侶になるなどと神に決めつけられただけですわ、大神官様。
私が望んだ婚約ではありません。
神が、前王が、大臣達が、国が、神官が。……私の意思を無視して決めた婚約でしたのよ」
「……何ですって?」
まさか。まさかキーラから。あのキーラからこのような言葉を聞くとはエルクスは思っていなかった。
「貴方は、王との婚約を望んでいなかったと?」
「ええ! 欠片も。ですからレグルス王には内心で感謝しておりましたの。
きっとレグルス王は、私の気持ちを汲みとってくれていたのですわ。
私が王の伴侶になりたいなどと思っていない。この婚約は、婚姻は、私を不幸に落とすだけだと。
そう悟っておいででしたの。
ですから撤回のできない、多くの貴族が見守る中で婚約破棄を宣言されましたのよ。
素晴らしい王ですわ!
側妃などという言葉も、大臣達を説得する為に出した虚言でしかありません。
……だって。そうでしょう? 大神官様。
誰が正妃から落とされて、側妃にするなどという言葉を笑って受け取るのです?
始めからそのような立場であったならば別です。
私と聖女ユークディア様の立場が逆であったならば話は分かりましょう。
ですが、私は王妃になるように育てられた身。
そのような屈辱を受けて尚、王の側妃になりたいなどと、思う筈がありませんわ!
レグルス王とて、そのような人の心。お分かりでない筈がないのです。そうでしょう?」
「…………それは、そうかもしれませんが」
「ふふっ。ですから。私には聖女を恨む動機がありませんの。
だって私は『レグルス王を愛していない』のです。
むしろ、かの王から解放される事を嬉しく、喜びとし、感謝すらしておりましたのよ。
ええ。王と聖女が紡ぐ真実の愛に、祝福の言葉さえ贈りましょう。
レグルス王の前で、大臣達の前で、貴族達の前で、神の御前で。
『レグルス王を愛していない』と声高らかに宣言しても構いませんわ? ふふふっ」
……キーラは微笑んでいて。蠱惑的に。
その言葉に、何の嘘もないと胸を張りながら。
「……そう、ですか」
思っていた反応とは違った。神官の知るキーラの言葉とも思えなかった。
まるで人が変わったようにさえ感じた。
「…………」
それも当然かもしれない。
これは貴族令嬢が受けるべき仕打ちではない。
そもそも無実の人間が受けていい事ではない。
数日に渡って彼女が受けたこの仕打ち。
……この状態で、尚も王を愛しているとは言わないだろう。
千年の愛すら凍り付いておかしくない。
だからこそ、もう愛がないと言うキーラの言葉は……今は真実となったかもしれないが、聖女の毒殺の容疑を晴らす根拠にはならなかった。
「ふふっ。大神官様。まだ地下牢から私を出す事は認められていないのでしょう?」
「……はい」
「では、大臣達に。レグルス王に。私の言葉を伝えてくださるかしら?
彼らは私の言い分を、弁明にさえも耳を傾けませんでしたのよ?
たとえ、私が大罪を犯していたとしても。そんな事は赦される筈がありませんわ」
「……そうですね。弁明すらも……」
「ええ! ……大神官エルクス・ライト・ローディア。私は神の前に立ちますわ。
自らの潔白を訴える為に。そして」
「……そして?」
「私に罪がないという事は、大神官様。
他に犯人が居るという事に他なりません」
「……! たしかに、それは道理です。貴方の置かれた境遇が問題過ぎて、失念する所でした」
「ふふ。ですから。大神官様。神殿を挙げて調査をしてくださいませ。
神に仕えるべき聖女を、王の『唯一の』寵愛を受けたユークディア様を毒殺しようとした罪人が王国に居る。
正しき調査をする事を捨てた王宮の者達には、すでに神の信頼はありませんでしょう。
──どうか、神の名の下に真実を。
……私からは、それだけですわ」
「……分かりました。キーラ・ヴィ・シャンディス。貴方の言葉を王達に伝え、そして神殿の者達を動かすとしましょう」
「ふふ」
「……この場所からも出すよう、また告げてみます」
「まぁ、ありがとう。大神官様。でも私はどちらでも構いませんわ。
貴人牢であろうと、地下牢であろうと。
レグルス王が、私を罪人として牢に入れた事には変わりないのです」
「……そうですね」
「ふふふ。それでも。楽しみにお待ちしておりますわ、神に仕え、神に従う、貴方様?」
地下牢の中のキーラは……まるで悪女のように微笑んだ。