⑤女侯爵キーラの隠し事──キーラ・ヴィ・シャンディス
私はキーラ・ヴィ・シャンディス。アルヴェニア王国の七侯爵家の一つ、シャンディス家の当主。女侯爵だ。
私がカイザムお父様から侯爵位を継いで、そろそろ一年が経つ。
それは、あの建国記念式典パーティーから一年が経つということでもある。
「一年なんて、あっという間ねぇ」
シャンディス家の屋敷にある当主の執務室で、作業をしていた私は、手を止めて一息を吐き、窓の外を眺めた。
もうあの頃のような、レグルス陛下に対する焦燥感にも似た感情は無い。
それは、きっとリュジーから授かった【愛を砕く魔法】によって失われたのだろう。
あれから一応、体調に気を付けたり、精神的な変化・疲労にも気を付けたりしていたのだけど。特に私に後遺症的なものは現れなかった。
ならば、きっとレグルス陛下も体調が酷く崩れることはないだろう。
私は大きな壁を乗り越えたのだ。人生に立ちはだかっていた大きな試練の壁を。
……と、そんな風に午前は執務室に居て、休憩時間に黄昏れていた私なのだが。
午後になって、人生で最大の脅威に向き合っていた。最凶の『敵』と対峙しているのだ。
「ふふ、シャンディス家の紅茶はとても美味しくて好きですよ、キーラ様」
「……ええ、それはありがとうございます、大神官様」
不老の大神官、エルクス・ライト・ローディア。
長く綺麗でまっすぐな白髪と中性的で美しい容姿をした男性。神に仕え、大神殿に普段はおわすはずの、アルヴェニア王国でも特別な存在。
彼は『神の予言』を受け取る稀有な存在なのだ。神殿の最高権威者でもある。
それは国王陛下であっても蔑ろには出来ないほどの権威である。
そんな彼が、何故かシャンディス侯爵家にやって来ていた。
「……本日は先触れもなく当家にお越しで」
通常、貴族家の屋敷への訪問は、先触れとして手紙なり使者なりを送り、当主の了承を得てから行われるものだ。でなければ、まともに応対などされる方が珍しい。
特に公爵家のないアルヴェニア王国において侯爵家は最高位の貴族家。
そこらの相手であれば無視する一択なのだけど……。
目の前の男性、大神官エルクス様は流石にそんな私でも無視が出来なかった。
大神官が権威の乱用なんて良くないことである。ええ、本当に。
「今日は一体何の御用ですか、大神官様」
「用事というほどのことでも。今日はシャンディス領になった地方神殿を訪ねたのですが、そのついでにキーラ様にご挨拶をと」
「……ああ、元ミンク領だった場所にある神殿ですね?」
「はい、そちらです。あそこは聖女のユークディアさんが元々暮らしていた場所だったので。彼女に久しぶりに様子を見に行かせたのです。一緒に来て彼女を見送った後は、その足でこちらへ」
「なるほど」
ミンク侯爵領は、以前に領地戦をしたことから分かるようにシャンディス領から近い場所にある。そのせいもあって、ミンク侯爵が爵位剥奪され、領地が王家に接収された後に、新たな管理者として領地の一部をシャンディス家が譲り受けたのだ。
多少、他家に譲られた領地より広かったのは、王家からの謝罪の意味も含むのだろう。
元々領地戦の折に逃げてきたミンク領民たちも居たから、彼らの住まう場所として利用させて貰った。
今のところ新たに増えた領地も含めたシャンディス家の領地運営には問題は起きていない。
「ユークディア様はお元気ですか? 確か、神殿に入られてから、もう半年は経ちますか」
「ええ、九ヶ月ほどです。一年なんてあっという間なのでしょうねぇ」
「そうですね。それは分かります。きっとあっという間です」
実際、今日まで本当にあっという間に感じられたからね。
「では、本当に挨拶に来られただけで特に用事はないと」
そうならどんなにいいことか。
というのも、何だ。私は大神官様に後ろめたい『隠し事』があるのだ。
それは当然……悪魔、リュジーのことである。
どう考えても一番バレてはいけない相手だろう。相手は神の信徒。その最高権威者。
神の予言を受け取る者、大神官。神の名代と言えないこともない。
悪魔の手を取ったキーラ・ヴィ・シャンディスが、今や最も警戒すべき人物だ。
レグルス陛下との間にもう何の摩擦もないからこそ、余計に。
故にこの状況に、私は気が気ではないのである。
「そうですねぇ。用事と言えばなのですが。ええ。そろそろ教えていただけませんか、キーラ様」
「教える、とは。何をでしょう? 大神官様」
「それはもちろん、貴方が、魔法を一体どのように授かったのか」
うわぁ。クリティカルにその話題を振られてしまった!
私は冷や汗をかいていることを悟らせないように耐えつつ、それでも彼から視線を逸らした。
ふふふ、この状況、どうしよう。
『くくく、面白くなってきたじゃないか、キーラ』
リュジー。その声は私の耳元から聞こえたけれど、彼の姿は今、執務室の中にはない。
現在、執務室の中には私と大神官様と壁際に控える侍従や侍女が居る。
リュジーの姿は執務室の中にはない。
私が彼を大神官様に会わせないように取り計らったのだ。だってバレそうだし。
そんな彼の声がどうして私の耳に届いたのか。それは彼が執務室の外から『影』を伸ばして床から私の服の中を通り、そして耳元へと到達しているからである。
それが悪魔だった彼の能力。
受肉して人間となった今、その力は減衰しているそうだが、この程度のことは出来るらしい。
何をしているの、あの悪魔。バレたらどうするの?
異端として裁かれてもおかしくないのに! 私は、いつもなら安心感を覚えるリュジーが肌に触れる感覚に対して『空気を読め!』と思ってしまう。
「キーラ様? どうかされましたか?」
「……いいえぇ、なんでもありません、うふふ」
ふふふ。悪魔と大神官。絶対に交わらないであろう二人。
そもそもバレたら多分終わる。でも、今のリュジーは『人間』だ。悪魔としての力だって、そこまで振るえないし、私以外の人間に干渉することも出来ないという。
それは悪魔のルールのようだ。リュジーは私を助けるために人間になった。
故に彼は代償を負った。彼は、私のそばから離れられない。
ただ、私と共に歩み、寿命を全うする『人間』になったのだ。
異端と裁かれることを警戒する私だけれど。彼の手を取ったことを後悔するつもりはない。
今の私が幸福な人生を送れている理由は、彼が隣に居るからだから。
「……それで。どうして貴方は魔法を?」
「超常の存在に授かったのです。それは私に正体の分かる存在ではありませんでした。まるで影のような……。或いは、あれこそが『神』だったのでしょうか?」
「……ほう」
大神官様は、眉根を寄せつつも表情には微笑みを浮かべたまま。
「あくまで誤魔化すのですね、キーラ様」
「まぁ、誤魔化しだなんて。私は真実を告げていますのに」
私と大神官様は微笑みを浮かべ合いながら対峙する。
「ふふふ」
「ははは」
隠し事を自ら明かすことはない。相手の権威に屈することもだ。何故なら今の私は、シャンディス侯爵。
王であろうと蔑ろに出来ない相手とはいえ、けれど私が忠誠心を向ける相手でもない。
見くびられることもなく。互いに敬意を払い合う関係である。
「……いや。何とも」
「何か?」
「キーラ様は随分と立派に女侯爵を務めていらっしゃる様子で。安心致しました」
「……安心ですか」
「ええ。かつての貴方は。王の伴侶となるはずだった貴方は。もっと儚く、消え入りそうで、生きる気力も薄い、そんな様子だったので」
「かつての私のことを、そのように見ていたのですか? 大神官様は」
「今思えば、というものですよ。特にこうして女侯爵として溌剌に過ごされている貴方を見ると、かつての貴方は如何にも儚げであったな、と」
「……ふふ」
あの頃の私のことを、私ももう思い出せない。
きっと疲れていたのだと思う。何よりも心が。報われない愛に嘆いて暮らしていた。
でも、そんな時間は……私にとって『六年』以上も前のこと。
今の私が思い出したって、懐かしいなぁ、そんなこともあったなぁ、という感想にしかならない。とっくに乗り越えてしまった『過去』なのだから。
「ご心配をお掛けしたようですが、大神官様。今の私にはそのような心配は無用です。……もし、これから先にまた辛いことがあっても。私には支えてくれる者が居ます。信じられる相手が居ます。この家の者たちが、領民たちが、私の生きる希望。きっと私は新たに起こる困難も彼らと共に乗り越えていけるでしょう」
私は胸を張り、そう宣言した。何も怖れることなどない。
「……そうですか。キーラ様は本当に変わられましたね」
「ふふ、『成長した』と言ってください、大神官様」
「はは、成長。なるほど。成長ですか。良いですね」
どんな道であろうと私は前へ進んできた。その誇りを失うことはないだろう。
「では」
大神官様は肩の力を抜いてリラックスしたように話を続けた。
「このまま粘ってもキーラ様は口を割ってはくださらないようですから」
「ふふ、私は真実しか話しておりませんよ」
「はい、そういうことにしておきましょう」
どうやら折れてくれるらしい。正直、助かった。
『なんだ、つまらない』
リュジーが口を挟む。何なの、バレたいの? そういうところあるわよね、リュジーって。
「では、キーラ様の方から私に聞きたいことは何かありますか?」
「私から大神官様にですか?」
「ええ。レグルス王のことなど」
「ああ……」
そうね。気にならないワケではない。
かつての因縁は乗り越えたと思っているし、彼に対する私の中の拘っていた部分も解消したと思う。
だから、これといって気にしていないというのは事実なのだけど。
殊更に、彼らの情報を知りたくない、というほどでもない。そんな『拘り』は私の中にはもうないのだ。
「そうですね。ですが、レグルス陛下のご様子について何か特別なことでも? 侯爵としての私には、まだ何の報せも届いておりませんが」
「いいえ、特別に何かが起きたということはありません。ただ、陛下も日々の政務に励んでおられるようだと。その程度の話です」
「では、私が特別に陛下を気に掛けることはありませんわ。日々、陛下がご健康であれば幸いです」
「……新しい婚約者との仲など、お気になさったりは?」
「それは……まぁ、臣下として陛下の進退に関わることで気にはなりますが。それは、どういった意味合いで問われているのでしょう? 何か意図でも?」
「……いえ。そういうつもりでは。これは失礼」
「ええ、大神官様ともあろう方が無粋な勘繰りのような……。私、既婚者ですのよ?」
「そうでしたね。そう言えば今日は配偶者の方は? 一年前は、きちんと挨拶が出来ませんでしたから、今日は改めてお会い出来るかと」
「ええと……リュジーは」
会わせたくない! だって、悪魔と大神官よ? 絶対に問題が起きる!
どうにか誤魔化そうと、私が思ったその時だった。
コンコンと応接室の、少しだけ開かれているままにされた扉がノックされる。
あまりにタイミングのいい、まさか。
「キーラ。大神官様がお見えになっているんだって? 俺も、彼に挨拶がしたいんだが」
「……リュジー」
だから。何なの、なんで会いたがるの! 私が誰を隠そうとしているのか。その苦労を分かっていながら!
「入るぞ」
「あ、ちょっと!」
私は立ち上がって、焦りながらリュジーの下へ。
「やぁ、キーラ。俺の愛する妻、キーラ・ヴィ・シャンディス」
そう言ってリュジーは近付いた私を抱き寄せた。ドキリとしてしまう。でも、本当にそんな場合じゃないから!
「リュジー、お客様の前よ」
「ああ。俺に内緒で会っていたんだろう? いけない妻だ」
「内緒って……」
どの口が言うのよ。さっきまで中の様子を窺っていたくせに。
リュジーが私の肩を抱き寄せたまま、大神官様に向き直った。
「大神官様! いやぁ、こうしてお会いするのは一年ぶりですか? どうやら俺抜きで妻との話が盛り上がっていたようで。俺も混ぜて貰っても良いですかね」
何を意気揚々としているのだろう。私の気も知らないで。
リュジーが大神官様に悪魔祓いなんてされたらどうするの?
「……リュジー・ヴィ・シャンディス殿。ようやくお会い出来ましたね」
「ええ、大神官様。お会い出来て光栄です」
ニコニコのリュジー。私はハラハラ。大神官様は。
「いえ、こちらの不手際でした。女侯爵様とは二人きりになどなっておりません。部屋にはシャンディス家の使用人たちも居ましたし、扉も開いていたでしょう?」
ん?
「そうですね。妻は確かに侯爵で、身分があるのは彼女です。ですが、彼女は俺の妻でもある。如何に大神官と言えど、ご配慮は願いたいものです」
「……ええ。配慮に欠けていました。どうかご警戒なさらず。私に奥様への下心などありませんから」
下心って。何? まるでリュジーと大神官様が私を巡って争い合っているみたいな。
「我が最愛の妻は、そういった方面に鈍感なのです。自分の魅力が分かっていない。そして、俺はいつもそんな彼女に振り回されてしまう。まったく愛らし過ぎるのも困ったものですよ」
ちょっと、本当に何を言っているの? 何か恥ずかしいことを言われているような。
「俺は嫉妬深いので。今度からは妻とだけ会わず、俺が同席する場で会っていただけますか? 神に仕える大神官様」
「ええ、分かりました。必ずそのように」
……何だかこれでは、リュジーが大神官様に嫉妬して出てきたみたい。
私の肩を抱いて離さないし。別にそれは悪くない気分だけど。
「お二人の仲が良さそうで何よりです。では、私はそろそろ行きましょうか。お邪魔のようですから」
「あ……良いのですか、大神官様」
「ええ、もう行きます。旦那様に睨まれるのは不本意ですからね。ただ」
「ただ?」
「ユークディアさんについて」
「ええ、彼女が何か?」
「元ミンク領にある神殿は彼女が幼い頃に暮らしていた場所で、彼女の知り合いも沢山居ます。ですので、これからも彼女があの神殿に顔を見せることを許してあげて欲しい。そのことを貴方に願いに来たのです、本当は」
「あら、そんなこと。もちろん構いませんよ。私がユークディアさんに何かをすることはありません。どうぞ、気兼ねなくいらしてもらって。聖女様を、我がシャンディス家は歓迎いたしますわ」
「……ありがとうございます、シャンディス女侯爵」
そして、大神官様は本当にそれが用事だったらしく、すんなりと帰り支度を始める。
その間、リュジーは私から離れず、肩を抱いたまま。
悪魔のルールで私から離れられないといっても、そこまで距離が近い必要はない。
だから、これはリュジーが大神官様に嫉妬しているように見せ掛けての。
でも、見せ掛けなのかな? もしかして本当にリュジーは私のことで大神官様に嫉妬しているの?
「……リュジー」
「ん?」
リュジーの顔を見上げても、彼は飄々としているだけ。でも、その手は私から離れない。
「……ううん、何も」
だったら、それでいい。彼が私から離れることなんてないと信じているから。
「それでは。シャンディス女侯爵、リュジー殿。私は行きます」
大神官様をお見送りして屋敷の玄関まで一緒に来る。
そこで大神官様は最後に一言。
「たとえ間違いであっても。その道に貴方の幸福があり、そしてアルヴェニア王国の人々にもまた幸福があるのなら。神は、貴方たちをお許しになることでしょう」
「────」
そう言い残して、微笑んでから。大神官様は去っていった。
「……最後のあれ、貴方のことがバレてたと思う? リュジー」
「さぁ? どうとでも取れるな。いつも意味深なことを言うように心掛けているんじゃあないか、あの大神官様は」
「そう……」
分からない。読めない。何だか、ねぇ。大神官様は、これから先の人生でも、何だかんだと私たちの前に立ちはだかる試練になりそうだ。
それこそが悪魔の手を取った私に課せられた責務か。
「さて、キーラ?」
「なぁに、リュジー」
「俺に隠れて内緒であんな美丈夫と会っていたなんて。夫として嫉妬が抑えられないんだが……?」
「はい?」
何を言っているの。
「何が貴方に隠れてよ。最初から知っていたじゃない」
「さて、何のことだ? 俺は使用人に聞いてから初めてあの部屋に駆けつけたんだが……?」
それは表向きの言い訳だろう。耳元で私に囁いておいて。
「そんな下手な言い訳をする妻にはお仕置きが必要だな」
「ちょっ……」
リュジーはニコニコと私の肩を抱き、そして離さないまま。『その先』を私は察して動揺する。
「くっ、この悪魔……!」
「あはは、誰に向かって言っている? キーラ」
「……もう」
そうして彼は、私を深く抱き寄せて囁く。
「愛しているよ、キーラ」
「……うん。私もよ、リュジー」
私は、これからも悪魔と共に人生を歩んでいくのだ。
キーラ編、あと二話ぐらい更新すると思います!
コミック1巻、2月6日(木)発売です!