③大神官は静かに暮らす──エルクス・ライト・ローディア
建国記念式典パーティーの日から早くも三ヶ月が過ぎた。
アルヴェニア王国は一時期、新王の乱心によって混乱していたが、その騒ぎもようやく落ち着き始め、新しい問題へ取り組む時期になっている。
不老の大神官エルクス・ライト・ローディアも、静かになった日常に帰り、大神殿で暮らす生活を再開していた。
神の下した予言が焼かれ、否定されるという異常事態。だが、それも思った以上に穏やかな結末を迎えて、新王レグルスも王としての覚悟を決め、真摯に政に取り組み始めた。
アルヴェニア王国は良い方向へと進んでいると言えるだろう。
そうなればエルクスの日常も穏やかで静かなものへと戻っていく。
ただ一つだけ、エルクスの日常が以前とは大きく変わったことがある。それは。
「大神官様、大神官様! 今日もこちらにいらっしゃるのですか!」
「……騒がしいですねぇ」
はしたなく大神殿の中を駆けてきたのは……聖女、ユークディアだった。
以前まで着ていたドレスとは異なる、白を基調とした神官服に身を包んでいる。
「大神殿の廊下は走らないでください、ユークディアさん」
以前までの取り繕ったようなお淑やかさ、令嬢らしさが抜け、子供のような振る舞いだ。
「はーい。でも、大神官様。いつも部屋の中に居て、不健康じゃないですか?」
「……別に常に室内に居るワケではないのですが」
「ええ、でも。退屈になったりしません?」
「なりませんよ。やることはいっぱいですから」
聖女、ユークディア・ラ・ミンク。今は『ただの』ユークディアとなった女性。
元々、神の予言を受けて聖女となる未来を示されていた彼女。しかし、レグルス王に見初められ、彼の婚約者に据えられていた女性。かつて侯爵令嬢でもあった。
だが、三ヶ月前のパーティーで彼女の運命は大きく変わってしまった。
彼女の父親であるミンク侯爵が王に断罪され、爵位を剥奪されたのだ。
ミンク家はそれにより取り潰しを余儀なくされ、彼女もまた貴族の身分を失うことになった。
その処罰が下るまでには多くの話し合いが必要だったという。
彼女が貴族籍に残り、またレグルス王の婚約者のままという案も出ていた。
けれど、ユークディアは自らそれを辞退したらしい。
その理由について、彼女は真意を語らない。ただ、それは王国や王家に混乱を招きたいからではない。その証拠に彼女はしばらくの間、レグルス王の『仮の』婚約者を続けていた。
王の次の婚約者が決まるまで。その存在が現れない可能性もまた充分にあったから。
だが、侯爵家出身の令嬢はユークディアやキーラとは年齢が異なるが、まだ居た。
ほどなくして新しく侯爵令嬢が王の婚約者となり、ユークディアは役目を終えて、そのまま大神殿へと移ったのだった。
「……ユークディアさん。神殿での暮らしには少しは慣れましたか?」
「んー、少しずつ、ですかね。神殿の皆は優しいですけど。私が育った地方の神殿とは勝手が違いますからねぇ」
「そうですか。いいのですよ、少しずつで」
自分たちに『時間』は充分にあるのだから。
大神官は、その言葉をわざわざ口にはしなかった。まだ彼女は試練の最中なのだ。
「毎日祈りを捧げて、よく飽きませんよねぇ」
「……貴方、本当に神殿で育ったんですか?」
「本当ですよ! でも私の育った神殿は、もっと下町寄りっていうか……」
「はぁ……」
大神官は、地方の神殿巡りも今後の予定に組み入れるべきかと頭を抱えた。
「とりあえず、大神殿の中を走り回るのは止めてください。貴方は別に、王宮に居た時にそこまでお転婆ではなかったでしょうに」
大神官が『王宮』という言葉を口にしたところで、ユークディアは視線を逸らした。
そして遠くを見つめるように、寂しげな表情を浮かべる。
「……身体、動かしてないと。なんだか気が滅入りそうなんです。以前までは祈りの時間も、そこまで苦痛じゃなかったんですけど」
大神官にそう打ち明けるユークディア。
そんな彼女の心に寄り添うように大神官は頷いて、穏やかな微笑みを浮かべる。
「……そうですか。では、一緒に外回りにでも行きましょうか」
「……はい! 大神官様」
ユークディアは大神官の補佐として、聖女として神殿で暮らすようになったのだ。
「……大神官様、デルマゼアお父様の刑が決まったそうです」
「……そうですね。私も耳にしました」
聖女の父、デルマゼア・ラ・ミンク元侯爵。実の娘に毒を盛り、その犯人として当時、侯爵令嬢だったキーラ・ヴィ・シャンディスをレグルス王に疑わせ、断罪するように仕向けた男。
パーティー会場で捕まった後、厳しい調査を受けて、彼の一派の余罪が明るみになった。
王国の混乱を避けるため、市井に伝えられる情報はある程度絞られるようだが、それでも、ミンク侯爵が失脚した理由を多くの貴族たちが知っている。
「終身刑……だそうですね」
「……ええ。当時、準王族であった貴方に毒を盛ったのです。他にも王を謀るために仕出かしたことも多数。本来ならば……死刑だったのでしょう」
「はい。お父様は、それだけの罪を犯していたと思います」
ユークディアの表情は凪いでいた。粛々と実の父親に下される罰を受け入れている様子だ。
「だけれど、終身刑。死刑でないのは、レグルス……国王陛下のご温情でしょうか?」
「……いえ。余罪の多さから新たな罪が明らかになる可能性もあると。そのため、生き証人として延命されたようですね。もっとも、一瞬で人道的に終わる死刑と、生きたまま自由を奪われ続ける終身刑。どちらが彼にとって重い罰なのか、彼本人にしか分かりませんが」
「……そうですね」
或いは。『聖女』の道を歩むと決めたユークディアのためにレグルス王がその父親を殺さずに生かしておくと決めたのか。それは大神官にも分からないことだ。
いずれ、その意図を聞く機会もあるかもしれないが、それがユークディアの耳に入ることはないのだろう。
「……ミンク侯爵領はどうなるのでしょう? 領主が居なくなり、またそれまでも善政は敷かれておらず、疲弊していると聞きました」
「それは王家が責任を持って管理しつつ近隣の領主たちと話し合い、元ミンク領の領地を彼らで割譲するという話になっていますよ」
「……そうなんですね。今更で、私が言うのも何ですけど。領民たちがきちんと暮らしていけるようで何よりです。……あの」
「はい、ユークディアさん」
「……元ミンク領にある……神殿は? どこの管理に? 王家でしょうか」
そこは聖女ユークディアが幼い頃に育った場所なのだろう。
「……あちらにある神殿一帯は、シャンディス侯爵家が管理を任されるはずです」
「シャンディス……家、ですか」
「……ええ」
どこまでも。彼女たちの間には因縁があったのかもしれない。
キーラ・ヴィ・シャンディス。そしてユークディア。
二人は、この神が在る国、アルヴェニア王国で共に神の予言を受けた身だった。
「……きっと、新たなシャンディス侯爵様なら、よく扱ってくださいますよね」
「ええ、きっと。……落ち着いたら、元ミンク領の神殿を訪ねてみますか?」
「え? でも、その。いいのですか?」
「もちろんです。大神官が各地の神殿を訪れることを阻める者など居ませんから」
「そうなんですね! ……あれ? それって、もしかして聖女もですか?」
「……まぁ、いずれは?」
「今はダメなんですね」
「はい、その通り」
「……まぁ、今はそんなに外を出歩きませんけど」
「そうした方がいいでしょうね」
まだまだユークディアは『渦中の人』なのだ。
人々から彼女への注目が完全になくなるのは、もう少し先のことだろう。
そして、その頃まで大神殿で祈りを捧げていたら、きっと彼女は。
そう思い、大神官はユークディアを見る。そして気付いた。
「……おや」
「はい? どうされましたか、大神官様」
「……ユークディアさん、少しこちらへ来てください」
「え? はい、分かりました」
大神官はユークディアを連れ、大神殿にある聖堂へと向かう。そこには一枚の大きな姿見が設置されていた。その鏡の前に立てば、全身を映し出すことが出来る。
だが、大神官の目的は身体全体を映すことではない。
「ユークディアさん、鏡の前に立って」
「は、はい……」
大神官が彼女の肩を押し、鏡の前にまっすぐに立たせる。
ユークディアは導かれるままに鏡の前に立って、流れで当然のように自分の姿を見た。
「分かりますか? こちらです」
大神官がそう囁きながら、彼女の髪を一房、手の平に乗せて見せる。
「あ……」
ユークディアの髪色は黒だった。だけれど今、大神官に持ち上げられた髪束の中には。
『白銀』の髪が混ざっている。
「白髪……」
「違います」
「えへへ、分かっていますって。……銀髪、ですね。まぁ、白髪っぽいですけど」
「そうですね」
白色に輝きや艶があり、ただ老化によって白髪になったものとは違う。
それは見ようによっては銀髪のようにも見える髪だった。
「……大神官様と、同じ髪」
「はい、そうなります」
それは聖女として彼女が神に認められ、変わっていく証。
不老の大神官エルクス・ライト・ローディアと同じように。
彼女もまた、長き時を生きる聖女となる。彼女は変わり始めたのだ。
「……意外と簡単になれちゃうんですね、本物の聖女って」
「まだまだ。これからです。たった一筋、一房程度の変化ですから」
「……出来るだけ若い内に変わるといいなぁ」
「……貴方は。まだまだですね」
「呆れないでくださいよ。聖女であっても女性は女性でしょう? むしろ若いままでないのなら、こんなこと、誰もやりたがりませんからね!」
「……そうかもしれませんね」
ユークディアは大神官と共に鏡の中の自分と、白く変化し始めた自身の髪の毛を見比べ続ける。今はまだ黒髪の自分。だけれど、その内に……。
「……レグルス様の、孫の代ぐらいまでは見届けられそうですね」
「……ええ、きっと」
或いは、もっとその先も。
「大神官様。神様……って。何なのでしょう?」
その問いかけは、大神官の人生で最も多く問われたことだろう。だから彼の答えは決まっている。
「神は、誰の心の中にもあります。そして、多くを見ていますよ」
「……それ、信徒用の『おべんちゃら』じゃないですか」
「……随分な物言いですねぇ。聖女だというのに」
「で、結局のところは?」
「そうですね。あえて言うならば」
「はい」
ユークディアは視線を自らの髪の毛から、大神官へと移した。
「『さぁ?』」
「……は?」
「大神官となった私でさえ、神という存在を理解しているとは言い難い。ただ、在るのだろうとは思っていますが」
「……何ですか、それ。大神官様が分からないなら誰にも分からないでしょう」
「ふふ、そうですね。結局、私もまた人の身なのです。神を語るなど、とてもとても」
「ええ……?」
ユークディアは胡乱な目を大神官に向ける。
「その答えを探すこともまた、聖女である貴方の、生涯の務めなのですよ」
「私に丸投げ!?」
「ふふ……。それもいいですね」
大神官は少しだけ笑って、そして。
「或いは神という存在を、誰よりも理解出来る者が居るとすれば」
「はい」
「……悪魔、かもしれませんね?」
「ぇええ……? それ、大神官が言っていいやつですか?」
「ふふ、対となる存在にしか見えないものがあるのですよ、きっと」
「……大神官様って意外と俗物ですよね」
「失敬な」
二人は、鏡の前から立ち去り、また大神殿の中を歩きながら話を続けた。
「大神官様、神様に魔法って授かったことはありますか?」
「……いいえ?」
「そうなんですか?」
「はい」
「……じゃあ、キーラ様が魔法を授かったのは」
「それは……いつか、彼女に聞いてみたいところですね」
「ふぅん」
ユークディアは、しばらくキーラの顔は見たくないとでも言いたげに視線を逸らした。
「大神官様、神殿に咲く花はどうして……」
「ええ、それは……」
こうして。大神官エルクス・ライト・ローディアの静かで、穏やかな日常には、新たな登場人物が加わった。だが、それも悪くはない。
大神官はそう思い、彼女からのいくつもの問いかけに答えるのだった。
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