聖女の献身 後編──ユークディア・ラ・ミンク
「レグルス様を休ませてあげて」
「……はい、ユークディア様」
建国記念式典パーティーが始まって早々、私とレグルス様は退場するしかなかった。
まず、レグルス様が最初からキーラ様に向かっていって声を荒げて。
そこからはもう何が起きたのか、受け入れるのが難しいことばかりだった。
キーラ様が女侯爵になったこと。
デルマゼアお父様がキーラ様を襲撃するように命じていて。そして私の毒殺を仕掛けた黒幕であると判明したこと。それによるレグルス様の断罪。
デルマゼアお父様は爵位を剥奪され、貴族ではなくなった。
また、今はまだ準王族である私の殺害未遂だ。下る罰は爵位の剥奪では収まらないだろう。
「……レグルス様」
そして、レグルス様に向けて放たれたキーラ様の魔法。
それによってレグルス様とキーラ様の中に確かにあったはずの『愛』は砕かれたという。
その影響か、レグルス様はずっと放心した様子で。ただ命に別状があるワケではなさそうだ。
意識だってしっかりとある。受け答えもしている。
……王をこのようにしたキーラ様を糾弾しようという話も出たけれど、それはレグルス様ご自身によって止められている。そう、彼の意識はちゃんとあるのだ。
だから、こうして今は静かに彼を休ませるしか出来なかった。
レグルス様は……今はただ、自分自身の心の中を旅しているような様子だった。
私は、彼の気持ちが戻ってくるのを待つだけ……。
キーラ様の魔法。【愛を砕く魔法】。それは『超常の存在』、即ち神から授かったという。どうしてそんなことがキーラ様にだけ起こるのか。
予言を受けた者だから? そうだ。
考えてみれば、聖女である私ならばともかくキーラ様は何なのだ。
王の伴侶となる予言なんて。神がわざわざ目を掛けるなんて。
キーラ・ヴィ・シャンディスは……それだけ特別な存在だった。聖女に匹敵するほど。
それは、きっと王妃となることよりも、もっと偉大で、重要な存在で。
「……最初から、私はキーラ様に勝ててなんかいなかった」
結局、答えはそうだった。
そんなことはあの日、彼女を初めて見た時に分かっていたはずだったのに。
私は情けなく、みっともなく足掻いて、その結論を先延ばしにしてきただけだったのだ。
そんな日々は、少しだけ満たされたと思っても、すぐに破綻して。
ただ、自分がみじめであることを痛感させられるだけだった。
「あはは……」
私の頬に涙が伝った。なんて情けない。なんてみじめな。
多くの貴族たちが見守る中で、私はレグルス様に愛されてなどいなかったことが明らかになった。彼の心は、真なる愛はキーラ様にのみ注がれていたのだ。
そして、私は侯爵令嬢ではなくなる。王の伴侶として後ろ盾となる家門を失った。
王からの愛もなく。王を支える家門の力もなく。王を支えられるだけの能力もなく。
……そんな私に、どれだけの価値が残るのだろう。
今はまだレグルス様の婚約者のままの私。だけど、大臣たちがもう私を認めないだろう。
多くの貴族が、諸侯たちが、私が王妃となることを認めないだろう。
そして何より。
私自身が、そんな私を認められない。
レグルス様の、『レグルス王』の治世の、足枷になどなりたくない。
「……ッ!」
だから、私は自ら身を引こう。レグルス様の婚約者の座を己の意志で辞する。
それだけが。たったそれだけが、今の私がレグルス様に示すことの出来る『愛』だった。
「……ユークディア」
「レグルス様! 意識が……いえ、心が戻られたのですね?」
「……ああ。俺は、確かに……ここに居る」
「レグルス様……!」
私は彼の気持ちが戻ってきたことが嬉しくて、思わず縋りついた。
キーラ様がレグルス様の心を砕き、再起不能にまで陥れるなんて思っていなかったけれど。
それでも心配だったのだ。
「……はぁ」
レグルス様は私を一目見て、優しく穏やかに微笑まれてから。天井を仰ぎ見て、溜息を吐いた。その様子はなんだか、肩の荷を下ろしたように。
今まで彼に感じていた威圧感、落ち着かない様子がなくなっていた。
「……長く。長く、俺は父上の意志を、その心を。捻じ曲げて捉えていた。俺は愛されていないワケじゃあなかった。そこに確かに愛はあった。親の愛でもあり、王の愛でもある、それが。俺の未来を案じて、孤独な王であることに折れないように。父上はいつも。……俺を、想ってくれていたのだ」
「レグルス、様……?」
天井を見上げていた視線が落とされ、私をまっすぐに見るレグルス様。
その様子はまるで若返ったかのようで。王となり、気苦労が絶えなかったはずの彼の様子ではなく。元気な、王子のような。それでいて、まっすぐな視線を……。
「俺は愚かだった。そして目が曇っていた。見るべきことを見ず、聞くべきを聞かず。ただ、己の小さな、それでいて穴の空いた心の器を満たそうとばかり足掻いていて。これでは。こんな俺では。……はは。キーラも愛想を尽かして当然だろうな」
「……レグルス様」
違う。これまでの彼とはまるで違う。大きく彼の心の中に変化が生じていた。
それはきっとキーラ様の魔法の影響。ここでも、私は彼女に敗北していて。
「……行こう、ユークディア」
「え?」
「まだパーティーは終わっていまい。諸侯が集う場など、そう設ける機会はないのだ。それに王が不参加の建国記念というのも、良くはないだろう」
「で、ですが……その。レグルス様、ご体調の方は……?」
「体調は元より万全だ。……おかしかったのは今までの俺なのだから。心だけが、愛を求め、捻じ曲がり、歪んでいた。それだけ。……だが」
「は、はい」
「……これから、より多くの苦労をするだろうな。未熟な王とはいえ、多くの貴族、大臣たちの信用を失ってしまった。それを取り戻すのはそう簡単には無理だろう。長い年月が必要となる」
「レグルス様……」
その視点は、考え方は。彼の中の『大切なもの』が変わってしまったからだと思った。
今までのレグルス様の『一番大切なもの』は、きっとキーラ様だったのだ。
彼女からの愛を求めて、それが手に入らず、ご自身でもどうしていいか分からなくて。
そうして子供のように駄々をこねて、キーラ様に縋るばかりで。
だけど、今のレグルス様にとって一番大切なものはキーラ様ではなくなった。
だから、次に大切な……王としての彼が、こうして表面に出てきている。
それはもう元には戻らないのだろうか?
彼の抱いていた『愛』は二度と、彼の中には生まれないのだろうか。
だったら。
そんな風に私の中にある気持ちが、愛しい人を求めて疼く。だけど。
彼の中に二度とキーラ様への愛が生まれない。そうだとしても。
私が、彼の愛を得られることはない。
彼のそばに、もう私は居てはいけない。王としての彼を支えられない私は。
「ユークディア」
「はい、レグルス様」
「……パーティーが終わったら、今後のことについて話し合おう」
「……、……!」
私はすぐにそれに返事をしたくて口をハクハクと動かす。でも、続く言葉は出せなかった。
「……ユークディア?」
「……はい、レグルス様。ですが、その今後についての話し合いの場には……大臣たちも、共に。皆で話し合うべきだと……そう、思います」
私は涙を堪えるのに必死だった。レグルス様も私の様子に言葉を失ったようで。
でも、彼は。
「……そう、だな。大臣たちを交えて、皆で。これからのアルヴェニア王国にとって取るべき道を……共に探ろう」
「……はい。レグルス……国王陛下」
私たちは、終わる。今日を限りに、きっと。
そうして私とレグルス様は共にパーティー会場へ舞い戻った。
会場の中心では、キーラ様とあの黒髪の男性、キーラ様の夫となったというリュジー様が居て、ダンスを踊っていた。
最初のダンスではない様子だ。既にパーティーは始まり、時間が過ぎている。
あの様子だと一度か二度、ダンスを披露し、休憩を挟んでからまた踊っているのだろう。
私たちが会場に戻ったことに気付いた貴族たちが、ざわざわとざわめき、注目する。
パーティーが始まってすぐに騒ぎを起こして退場し、ようやく戻ってきた王。
そして、その伴侶……。だけど、侯爵令嬢でなくなった、私。
「……皆、先程は騒がせてしまったな」
注目を浴びたレグルス様は、まったく態度を変えた様子でそう切り出す。
それは王族らしい振る舞い、言動だった。少なからぬ貴族たちが、その様子に驚く。
キーラ様たちだけが、レグルス様の変化を当然のように受け入れ、微笑んでいる。
黒髪の彼と手を取り合い、パートナーを決めたキーラ・ヴィ・シャンディス女侯爵。
これから落ちぶれていく私とはまるで対極にある存在だった。
「……シャンディス女侯爵、キーラ殿。先程までの。……いや。これまでの無礼をまず謝らせてくれ」
「まぁ! ……ええ、国王陛下。その気持ちは受け取りたいのですが、このような場ではお止めくださいませ。貴方は王なのです。アルヴェニア王国、唯一の王。それが軽率に頭を下げるのはいただけません。臣下として、そう忠言させていただきますわ」
「……そう、だな。これ以上の軽率な振る舞いは私も避けよう。だが、謝意があるのは確かなことだ。私がシャンディス女侯爵に多大な迷惑を掛けてきたことも隠しはしない。……この場では収めてくれるという、貴公の忠義。有難く受け取らせてもらう。また後日、王として誠意ある対応を検討し、シャンディス侯爵家一門に詫びさせていただこう」
「……はい、国王陛下。それが如何様なものかに拘わらず、新たに王になられた貴方の治世を臣下として、お支えする我が意志に変わりはありません」
「……感謝する、シャンディス女侯爵」
パーティーの中心は彼らだった。王からの謝罪を受け入れ、許すキーラ様。
最も懸念されていたであろう、王家と侯爵家の諍いはこれで終息を迎えた。
残るのは……。
「ユークディア」
「……! はい、レグルス、陛下」
「……俺と踊ってくれるか?」
「え」
そうして差し出されるレグルス様の手。その手を取っていいのだろうか。
ああ、ただこれは最後かもしれないから。今だけは……どうか、許して欲しい。
許して欲しい、と。そう思って。私は思い至る。
「……私、私も。キーラ様に謝らないと、いけません」
「……そうか。そうだったな。では、ここでお前を待っている。一人で行けるか?」
「……はい、陛下」
私はレグルス様から離れて、キーラ様の下へ向かった。彼女たちは多くの貴族に囲まれている。新しい侯爵。その新しい伴侶。誰だって気になって当然だろう。
私は、キーラ様を取り巻く人たちに割り込むことなど出来なかった。
待っている間も周囲から冷たい視線と、私に対する批評が注がれる。
それでも私は、その場から逃げ出したりはしなかった。
それが私に残された誇りだったから。
「あら。ユークディア様? お一人でどうされました?」
「……キーラ様」
流石に私が待っていることに気付いた彼女が、他の貴族たちに挨拶を済ませて私の前へやってくる。
「……キーラ様。私は、貴方に……謝らないと、いけません」
「謝る?」
首を傾げるキーラ様。まるで何のことか分からないみたいに。まさか、私のことなんて意識もしていなくて本当に忘れているのか。
今の彼女は分からない。レグルス様と同じように、彼女も大きく変わっていたから。
「私は……罪のない貴方を、さらに貶めようとしました。貴人牢で……貴方を、緩慢な死に追いやろうと、画策したのです。死に至らしめようとは思っていませんでした。ですが、それに近いことをして、貴方の誇りを……踏みにじろうとしました」
「ああ! あれね!」
キーラ様は本当に今、それに思い立ったかのような様子で。
そのことがより、私をみじめな気持ちにさせたけど、それでも私は続けるしかない。
「……申し訳ありませんでした! 貴方は、私を毒殺しようとなんてしていなかったのに! 私は、身勝手なことをしました!」
キーラ様に、多くの人々の前で頭を下げる。それは、かつての私にとって。
いいえ、今の私にとっても屈辱的なことではある。だけど、それでも。謝らないことの方が……きっと。
「顔を上げて、ユークディア様。……ふふ。貴方も、変わられたのね? 国王陛下の影響かしら。それでは、ええ。貴方の罪を許しましょう」
「え……」
「元より、あの件で裁く人は私ではありませんからね。私が被害者ではありますが。というより、思い返すとどうとでも出来たような……」
「……え? それはどういう……」
「いえ、それはこちらの話。『影』から手でも伸ばしてくれれば、とね」
そこでキーラ様は何故か隣に立つ男性、リュジー様を恨みがましく睨んでみせた。
その視線を受けて楽しそうに笑う黒髪の男性。
「……お二人は、まだ結婚したばかりで、そのような関係になったのも日は浅いと思いますが……仲が良いのですね……?」
「ふふ、そう見える? ありがとう、ユークディア様」
「最愛の妻だからな。当然だろう? 聖女殿」
ざわり、と。何故だか分からないが、リュジー様の前に立つと不安な予感に苛まれる。
威圧されているワケでもないのにどうして。
「それから?」
「え?」
「……ユークディア様が謝ることって、その件だけかしら?」
キーラ様は呆れたように私を見ている。それ以外? あ。
「……その。……婚約者だった、キーラ様を差し置いて、国王陛下と親しくしてしまい……申し訳ありませんでした」
「ふふ、ですよね。そこですよね、まずは。ですが、はい! これでおしまい! だって私、もう愛する夫が出来ましたので! 終わってしまった恋のことは、もう気にすることはありません。ですので、ユークディア様もお好きになさってくださいね」
飄々とした態度で、キーラ様はそう言った。そこにはかつての彼女は居ない。
愛に囚われ、苦しんでいたキーラ・ヴィ・シャンディスはもう居なかったのだ。
そうして。
レグルス様と私、大臣たちで話し合う。ミンク侯爵を廃して今後どうするのか。
様々な意見が出た。その中には私がこのまま継続して次代の王妃となる案もある。
だけど。
「ミンク侯爵家は取り潰しとなるのでしょう。領地は王家がしばらく管理。それは今後どうにか扱っていくとしても私がこの座に居てはどうにも収まりが悪い。私がミンク侯爵位を継ぐのも難しいかと思います。結局、お飾りの領主になるのであれば、始めから私という存在を廃していた方が民のためになる、と。……そう思います」
そんな私の意見に反対は出なかった。唯一の懸念点として、私がこの座を辞すると、では王の新しい伴侶をどうするのかということ。
……キーラ様が侯爵位を継ぎ、既に婚姻を結んでいなかったら、きっと。
だからこそ彼女は急いで婚姻を進めたのだろうか。
でも、パーティーで見たあの様子はとても仲睦まじく、通じ合っているようだった。
今回のためだけに用意した相手ではないのか。ひょっとしたら以前から……。
そう思わせるほどの良好な関係に見えた。
でも、キーラ様が不貞のような真似をするとは私は思わない。
だって、彼女の愛は確かにレグルス様に向けられていたと、私は知っているから。
結局、他家の……シャンディス侯爵家とミンク家を除く侯爵家から新たに王の相手を検討することに落ち着いた。それぞれの家にその通達をする。
新たな王の婚約者候補が現れるまでの期間、仮初の婚約者のまま、私はレグルス様のそばに居ることになる。
でも、その期間はそうは長くないだろう。
レグルス様とお別れしたら、その後、私は……。
「……聖女、本格的に始めようかな」
結局、神の予言を覆せるほどの『意志』は私にはなかったのかもしれない。
或いは意志ではなく、力か。
だから、もうしばらくだけ。私は、私の恋にしがみついて生きていく。
いずれ終わると分かっていて、それを受け入れながら。
それが私の人生。
同じ男性を愛して、けれど全く逆の道を歩いたキーラ様の人生とは異なる、私の。
「人生をやり直したとしても、きっと私は……またレグルス様を好きになるわ」
ただ、それだけが私に残った誇り。