聖女の献身 中編──ユークディア・ラ・ミンク
私はレグルス様の愛を手に入れた。
キーラ様とは婚約破棄をし、私を正妃にすると! そう彼の口から宣言されたのだ。
私は本当に幸せだった。そして……あのキーラ様に勝ったのだと。
正妃と側妃。意図は違うのかもしれないけれど、それは如何にも『一番と二番』のよう。
私はアルヴェニア王国で一番の女になる。
かつて私を見下した貴族令嬢たちも、もう私には敵わない。
すべて、そう、すべてを私は手に入れたのだ。これからの私は、きっと幸せに満ち溢れていて……。そうに違いない人生が待っていて。
そんな私の隣には、いつもレグルス様の微笑みが……。
「がっ……は……!? ぐっ……!」
苦しい。何? 一体、何が。
「ユークディア様!?」
「あぐっ……。ごほっ、ごほっ、ぐぅうう……!」
やだ、痛い痛い、喉が? お腹が? 苦しい! 気持ち悪い、痛い、何!?
「これは……まさか、毒!?」
「なっ、ぐっ……ぅうぅうううッ!!」
毒!? 毒ですって!? 私に!? 私に毒が盛られたの!?
そんな一体、誰が──
そして。人生で一度も味わったことのない苦しみにもがきながら。
私は『誰が』という疑問に、一人の姿しか思い浮かべられなかった。
……キーラ! キーラ・ヴィ・シャンディス!!
私を毒で……どうにかしようなんて、彼女以外に居るワケがない!
許せない。苦しい。こんな。
「が、ぐぅぅ……!」
「ユークディア様! しっかり! 意識を保っていてください! すぐに医者が来ます!」
「う……ぅ、レグ、ルス様……」
私、死ぬの? こんなところで? まだ何も始まっていないのに?
これからだった。レグルス様に選ばれて、愛が叶って。ようやく、これからなのだ。
だというのに、こんなところで死んでしまうの?
そんなの嫌、そんなの、許せない。許せない……!
キーラ様! キーラ! キーラ・ヴィ・シャンディス! 彼女が私を殺そうとしているんだ! 絶対に、絶対に……! このままじゃ……!
強くそう思いながら、私は意識を失った。
幸い、毒は致死量ではなく、早期に医者に診てもらったことで命拾いする。
でも、あの苦しみ、死への恐怖は簡単に忘れるものではなかった。
「……もう大丈夫なのか、ユークディア」
「はい、レグルス様。王宮医の処置が適切だったようです」
私室のベッドで横になっている私をレグルス様が見舞いに来てくれた。
「……犯人は見つかったのですか?」
「そんなものキーラに決まっているだろう!」
「それはそうかもしれませんけど……」
やっぱり、そうなのか。あの苦しみの中で私も同じ答えに辿り着いた。
だから、レグルス様の答えに私は納得したのだ。だというのに。
「何がそれはそうなのでしょうかね」
「きゃっ!?」
「……貴様」
私の部屋だというのに、勝手に入って来たのは大神官様だった。
どうしてここに大神官様が? 私の見舞いに来てくれたの?
「神官殿は権利を履き違えているようだ」
私の部屋に先触れなく訪れた大神官様をレグルス様が威嚇するように睨みつける。
私は彼に守られているように感じて、少し嬉しくなった。
「おやおや。国王陛下がそれをおっしゃいますか? 真っ当な手続きを取らず、証拠も無い中でユークディア様を毒殺しようとした犯人をキーラ様に仕立て上げた、その口で?」
仕立て上げた、なんて。だって、あれは絶対に……。
「キーラ以外に誰がユークディアを狙うと言うのだ!」
「……そうですね。前にも言いましたが、レグルス王にとっては、ご無事な聖女よりもキーラ様を貶める方が重要なご様子ですから」
そこで大神官様は私に視線を向けた。その視線に込められていたのは、毒を盛られた私への気遣いや心配なんかじゃない。
その目には……『哀れみ』が込められていた。
どうしてそんな目を、私に? 私は意味が分からなかった。
「ふざけるな!」
「ふざけていると思うのですか? 侯爵令嬢を謂れもないまま貴人牢にすら入れず、地下牢に放り込むような真似をして。王国に残った唯一の王族とはいえ……それでは臣下は従いませんよ」
「貴様っ……!」
「へ、陛下……落ち着いてください」
私は、大神官様の前だからレグルス様のことを陛下と呼び、落ち着かせようとする。
幸い、レグルス様は私の言葉で落ち着きを取り戻してくれた。
「第一、お話しましたようにキーラ様には、ユークディア様を殺す動機がありません」
「動機ならば」
「ないでしょう。だって彼女は、貴方を愛していない」
……え? 何を。
「そのような言葉は、ただの出任せだ……!」
「ぶはっ!」
そこで大神官様が吹き出した。そんな姿を私でさえも見たことがなくて、ぎょっとする。
「出任せ? 出任せですか? あはは……! いえ、出任せではありません。彼女は、堂々とおっしゃっていましたよ。レグルス王を愛していないと! 貴方たちの仲を祝福すると!」
何? 何を言っているの、大神官様は。だってキーラ様は。
誰よりも彼女のことを見ていた私は知っている。キーラ様は、レグルス様のことを。
だから私は、レグルス様と大神官様の会話に思わず割って入った。
だけど、大神官様は。
「……ふふ」
「な、なんでしょうか」
「キーラ様の気持ちをそう判断しながら、彼女が婚約者であると知りながら、レグルス王との仲を深めたと?」
「なっ! そ、それとこれとは別の話です!」
他ならない大神官様の責めるような言葉に、私はカッとなり声を荒げる。
でも、大神官様にはそんな私の気持ちなど少しも響かなくて。それだけじゃない。
「──神は、予言を否定されました」
「……な」
「え?」
予言の、否定? 神様が下した予言が? そんなこと……あるの?
私の中には困惑しかない。だって、それは私の中では絶対だと思っていた。
そして絶対でありながら、ただ私には選択肢が与えられただけだと。
だというのに、神様が自ら予言を否定する?
「ユークディア様には良いこと尽くしというものですね?」
「それは……そう、なのかしら? でも聖女と呼ばれなくなるということですか? 困ったわ。意外と気に入っていたの、その呼び方を」
「貴方は王妃となるのでしょう? 流石に王妃と聖女の両立は難しい。予言が燃えたのは、神からユークディア様の婚姻への祝福とも解釈できますね」
「まぁ!」
それなら……いいのかな? 大神官様は、私がレグルス様の正妃となることを祝福してくれるみたいだし。素直に受け取っても。でも、なんだか棘があるようにも感じる。
それにモヤモヤとした気持ちになるのは、大神官様がキーラ様を庇うからだ。
犯人なんてキーラ様以外に居ない。私もレグルス様もそう思っているのに。
大神官様はそれを否定する。そして、私にキーラ様に会ってみるといいと言った。
なら、私が直接会って、彼女が犯人だと証明して見せようと。そう思ったのだ。
そうして、私はキーラ様と再会した。鉄格子越しの再会。
きっと追い詰められて憔悴しているだろう、と。落ちぶれているはずのキーラ様が。
見違えたようだった。
少し前まで、レグルス様に振り向いて貰えず、消え入りそうだったはず。それなのに。
牢の中に居たキーラ様は、まるで生まれ変わったように活力に満ちていた。
初めて彼女を見たあの日のように。私がけして敵わないのだと、そう突きつけるように。
眩しく、光を持っていて。それどころか怪しげな魅力さえ纏うようになって。
どうして? どうしてこの状況でそんな風に笑えるの?
何故、レグルス様への愛を本当に失ったような言葉を言えるの?
彼女は本当に、私の知っているキーラ様なの?
許せなかった。私を毒で殺そうとしたくせに、のうのうと元気なままの彼女が。
それだけじゃない。その輝きが。生きる意志に満ち溢れたような、その強さが。
私の劣等感を掻き立て、嫉妬心を刺激する。
彼女の前に立っているだけで、私がちっぽけな存在なのだと突きつけられるみたいで。
だから全力で抗うしかなかった。だって、そうしなければ私は彼女に呑まれてしまうと思ったのだ。そうしなければ、私は、彼女に心から屈してしまうと。
私の譲れない一線。負けてはいけない部分で、勝負にさえなっていないと。
そんなことを突きつけられることは、どうにも耐えられなかった。
そして私は暴走してしまう。彼女が私を毒殺しようとしたのだから、と。
私の苦しみと釣り合うだけの苦しみを、彼女にどうにか与えなければ、と。
だけど、それは悪手だった。
だって、レグルス様は……キーラ様を……殺したくなんてなかったのだ。
その日から、あっという間にすべてが崩れていった。
私は、……私は。レグルス様の眠っていた気持ちを起こしてしまった。
彼に、自覚……まではいかないかもしれない。だけど、それに近いこと。
突きつけられたのは彼の、愛。私に向けられていない、彼の愛。
レグルス様が愛しているのは……キーラ様だった。
彼女が王宮を去っていったと聞いたレグルス様の動揺。そして粗雑になる私への扱い。
まるで必要とされていない、私。キーラ様に追いすがるばかりの彼。
……みじめだった。私は、何にも手に入れてやしなかったのだ。
勝ち誇った、キーラ様に勝てたと思ったあの時が、まるで夢か幻みたい。
もう意味を失くした、価値を失くしてしまった女。それが私だった。
だというのに、それでも。それでも私は、レグルス様を愛していることに気付く。
いやだ。いやだった。失いたくない。彼にもう一度振り向いて欲しい。
そう願っても、縋っても、レグルス様が見ているのは、どこまでもキーラ様だけ。
そして。……私がすべてを失う日がやって来た。
私を毒殺しようとしたのは、本当にキーラ様ではなかったのだ。
犯人は……デルマゼアお父様。キーラ様を貶めるために、私を裏切った父親。
キーラ様は私に選択肢を突きつけた。
私を毒殺しようとしたのは、本当は誰だったのか。彼女か、お父様か。
わざと彼女自身を貶める選択肢を残して。まるで私を試すように。
……その誘惑に負けそうになる心。でも、だけど、それは。
分かっている。デルマゼアお父様が真の犯人なのだろう。それが分かっていて。
それでもキーラ様を犯人だと追及して。そうして彼女を排除したら。
それは……越えてはいけない一線を越えることに繋がる。
それは私の『真なる敗北』だった。ただ、負けるだけではない。二度と立ち上がれなくなるほどの、敗北。心の、魂の死に等しい選択。
だから。私は身内を告発することになろうとも、その選択肢だけは選べなかった。
私の矜持を、私の誇りを、すべて理解したみたいに。キーラ様は微笑んでいる。
ああ……終わりだ。終わるのだ、私の思い描いていた夢が。
だって、そうでしょう?
私は、曲りなりにも侯爵令嬢だった。たとえ庶子だったとしても。
だけど、お父様が失脚し、爵位さえ剥奪されるというのなら。
私は、後ろ盾のない、ただの平民に成り下がる。
そんな私が……王妃になどなれるはずがない。それはレグルス様の治世の足枷になるだけ。
聖女の肩書きも、今や意味を成すのか分からない。
既に予言が否定されることもあると、キーラ様が証明してしまっていた。
だから、終わりなのだ。私は王妃になんかなれない。キーラ様が、皮肉めいて私を持ち上げたって。私は……私は。後ろ盾を失くした私は。
レグルス様のために……彼から身を引くべきだ。
キーラ様がその道を歩まないというのなら、かつて私を見下していた貴族令嬢たちの誰かにその道を譲るべきだ。それはとても屈辱的で、だけどどうしようもなくて。
それでも私は、私の誇りよりも……。レグルス様のために。
この恋を、この愛を、諦めるべきだろう。
そうしてキーラ様の魔法が、すべての終わりを告げるのだった。
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