②聖女の献身 前編──ユークディア・ラ・ミンク
人は誰しも老いて、衰えていくものだ。それは誰の下にも訪れる絶対的な運命である。
けれど、この私。ユークディア・ラ・ミンクには他者とは異なる運命の選択肢が与えられた。
神に仕える人生を選べば『老い』という運命から、その恐怖から解放されるというのだ。
それは、なんという祝福だろう? 誰にでも与えられるものではない。
私だけが賜る、神からの恩寵。
大神殿で暮らすという不自由さはあるものの、先達である大神官エルクス様はそこに囚われている様子はない。彼の場合は自分の意思で、大神殿で暮らしているように思えた。
「すぐに選択する必要はありません。ユークディア・ラ・ミンク嬢。むしろ簡単に選択して貰っては私の方が困惑します。精一杯、己の人生について悩み、深く考え、多くの体験をして。その上で決めて欲しい。……そうだな。今の時点では貴方の答えがなんであろうと、大神殿に入ることを私は許可致しません」
「えっ……」
神の予言を受けて大神殿へ呼び出され、大神官と二人きりで話をすることになった私。
場所は大神殿の奥にある、大神官の部屋だろうか。余計な物がほとんどなく整然としていて清潔感のある部屋だった。
デルマゼアお父様も大神殿の奥には立ち入ることが出来ない。
貴族令嬢である私が、男性である大神官と二人きりというのも問題だと思うけど。
目の前のこの方は、そういった俗世のあれこれからは最も遠い人物だ。
この方を信用できないのなら、もはやアルヴェニア王国に安全な場所などない。
また、この方を絡めて私を貶めるような噂を流そうものなら、噂を流した方が白い目で見られるに違いない。それほどの権威、それほどの特別な存在が、この大神官なのだ。
「許可しない、って」
「……すぐに決めなくていい、というだけでは弱いですからね。ですから私は、責任を持ってこう告げるのです。もっと多くの経験を積みなさい。よく考え、貴方の意志を、信念を大切にし、多くを知り、その上で選択の場に立ちなさい。そもそも大前提なのですが……」
「なんでしょうか?」
「神への信仰なくば、いくら予言で選ばれたところで貴方は私と同じ存在にはなりえません。やがて貴方が老い始めてしまった時。『聖女ユークディアには信仰心がなかったのだ』と。そう言われてしまいます。そうなってからでは手遅れでしょう? ……人間にとって『不老になる』ということはとても大きなこと。とても素晴らしい祝福のように感じます。だからこそ。それを『欲望』で欲してはなりません。不老とは本当は如何なることか。この先に待つ運命は如何なるものか。それを貴方自身が真剣に考察し、深く考えた末……『覚悟』を抱いて受け入れるか、否か。そういうものだと思っていてください」
「……よく分からないわ」
「ふふ、今はそれでいいのです。いずれ分かってくれれば」
「……はい、大神官様」
大神官様からの話、問答はその頃の私には何も変化をもたらさなかった。
ただ、今すぐに『永遠の若さ』なんてものに飛びつくことは許さない、と。
そう説教をされた気分だっただけだ。
私が『神に仕える身となる』という聖女の予言を受けたのは、私が十二歳の頃だ。
元々、私は市井で暮らしていた。最初から貴族令嬢だったワケじゃあない。
……私の母は、ミンク侯爵であるデルマゼアお父様の『愛人』だった。侯爵家で働いていた侍女だったというけれど。でも当然、お父様には正妻というべき人が居た。
だから私たち母娘はミンク侯爵家の屋敷では暮らせず、手切れ金とでもいうのだろうか。
お金だけを受け取って市井で暮らしていたのだ。その内にお母様は流行り病に罹り、私を置いてあっさりと死んでしまった。お父様に引き取られる前の私は天涯孤独となったのだ。
それでもお世話になっていた神殿では優しい人が多く、私も神殿には感謝している。
お世話になった神殿といっても私や大神官様が今居る大神殿ではない。ミンク侯爵領にある小さな神殿だ。より市井に近い環境と言っていい。
もっと世俗的で、ここみたいな厳かな雰囲気ではなかった。
市井で暮らしていた私をデルマゼアお父様が引き取りに来たのは私が十歳の頃だったか。
どうやらお父様の妻が亡くなったらしい。それで晴れて『邪魔者』が居なくなったから、私を引き取ると決めたようだ。
何のためかと言えば、きっと政略結婚の道具にすることなのだろう。
それぐらいの学は持っていた私は、お父様の愛情を心底信じていたワケじゃなかった。
十歳で平民から貴族令嬢。それも侯爵令嬢という、アルヴェニア王国でも上から数えた方がいい身分の女性となった私。その上で『聖女』の称号までいただけるという。
……あれ、私ってかなり恵まれている? そう気付いたのはいつ頃だったか。
この国の王妃もまた私のお母様のように早くに病で亡くなった。
だから、侯爵令嬢ともなれば、上から……ええと。
公爵家はなく、八大侯爵家が貴族のトップ。各家に侯爵夫人が居るだろうから、そういう人たちが多くて八人、いや、七人。それで各家の令嬢が居て……。家門の力関係も一応?
うーん。別にそれ程に『上』でもないのかな。『聖女』なのに?
気になった私は、目の前の大神官様に尋ねてみた。
「聖女は王国で一番上の女性ですか?」
「うん?」
「だって今、王妃様はいらっしゃらないんですよね? では、次は侯爵令嬢で、さらに聖女な私が一番上の女性ってことでいいですか?」
「……君は」
「?」
私の質問が予想外だったのか。大神官様は困ったような、呆れたような表情を浮かべた。
「それを気にしてどうなるのですか?」
「え、だって。どうせなら一番になりたいわ、私! 聖女なのでしょう? 侯爵令嬢なのでしょう? なら私がアルヴェニアで一番の女性ではないのですか?」
「……侯爵夫人や、侯爵令嬢が他にもいらっしゃいますよ」
「それは分かっています。でも、その上で私は『聖女』なのですよね?」
そう、私は純粋な気持ちで。そう、純粋な、だ。
言っていることは、それこそ『欲』とも、何とも言い難いことだけれど。
だけど、大事なことのように思う。
「……仮に貴方が一番の女性だとして。そうなったとしたら、どうしますか?」
「ええと? それは、まず」
「まず?」
「……偉そうな他の侯爵令嬢たちの鼻を明かしたいわ」
「侯爵令嬢たち?」
「全員と会ったワケじゃあないけど。嫌味なんですよ、あの子たち。私と大して年齢も変わらないのに。私が元平民だったからって、庶子だったからって見下してくるんです!」
「……ああ」
大神官様は、やっぱり困ったような顔をする。それでも私の気持ちを否定しなかった。
「そういった気持ちにも、きちんと向き合ってください。貴方がどんな答えを出すのだとしても。それが貴方の気持ちであるのなら。それに真剣に向き合ったのなら。きっと意味が生まれるはずですよ」
「……はぁい」
否定されなかったのは嬉しいけど、やっぱり説教臭いな、と思った。
そして私は、デルマゼアお父様の手引きで『運命』の出会いを果たすことになる。
その相手は、正真正銘の王子様だ。
レグルス・デ・アルヴェニア殿下。この国唯一の王子。
身分もそれは輝かしくはある。だけど、私はそれ以上に。
「格好いいなぁ……」
眩しかった。だって、私の人生で彼以上の男性を見たことがなかったのだ。
大神官様だって美形だけれど、彼は何というか中性的過ぎて異性としては見られなかった。
「はじめまして、レグルス様!」
「あ、ああ……」
「わぁ……!」
「……どうした?」
「あ! も、申し訳ありません! レグルス様があまりにも、その。……格好良くて。私が今まで会った誰よりも!」
「……そうか?」
「はい!」
私は一瞬でレグルス様に惹かれていた。一目惚れというものだと思う。
恋をしたのだ。人生で初めて。
しばらく、数日の間は恋に浮かれて、いつもレグルス様のことを考えていた。
そうして、ふと気付く。
「……あれ? 私って『恋』をしていいの?」
私は、いつか神に仕える身だ。故にこそ不老の存在になり、永遠の若さを手に入れる。
大神官様のようにだ。いつだって美しくあれるのだ。老いに怯えなくて済むようになる。
……だけど、大神官様はお一人だ。あれだけ美しい人なのだから、伴侶を願えば誰かがそれを叶えたはずである。それでも、お一人。
「じゃあ、私も……?」
私は、この時に初めて。『不老になる』ということを。それに付随する『孤独』を意識するようになった。
「大神官様は、結婚はされていたのですか? それとも、ずっとお一人なのですか?」
後日、再び大神殿を訪れて私は大神官様に尋ねた。
『聖女』である私は、いつだって大神殿に来てもいいそうだ。それどころか大神殿の中に部屋まで用意されている。清潔だけど質素で、あまり好みではないけれど。
もし、用事があって来た時は泊まる場所があるぐらいの感覚だった。
「結婚はしていましたよ」
「してたんですか!?」
「……それほど驚くことでしょうか? 調べれば分かることですよ」
「あ、調べても分かるんですね」
そうか。じゃあ、別に神官に、聖女になるからといって恋が禁止されているワケではない。
私は嬉しくなった。だったら、私の恋も。
「じゃあ、その。大神官様の奥様は?」
「……彼女は随分と昔に亡くなりました」
「え……。ごめんなさい、それは病で……?」
「いいえ。老衰です。大往生でしたよ。きっと悔いのない人生を生きたでしょう」
「老……衰。年上の方、だったのですか……?」
「いいえ。私より一つ年下の女性でした。とても優しく、素敵な人でしたね」
「……年下の、奥さんが……老衰」
「……ええ。そうです」
大神官様の微笑みは、どこか寂しそうにも見えたけれど。でも、やっぱりいつもと変わらない表情で。彼は、既にそのことを『受け入れている』のだ。
「ユークディアさん」
「……はい、大神官様」
「そんな風に、よく考えて。よく見て。思い巡らせてください。後悔のない選択ができるように。想像力を働かせて。色んな物事を、見て考えて」
大神官様は語らなかった。説教臭く私に諭すことだって出来ただろう。
でも、彼は何も言わなかったのだ。
年下の妻が、老衰で息を引き取った。そして彼は一人になった。
その姿は、未来の私だ。神に仕えるということはそういうことだ。
私は、一気に『永遠の若さ』などというものが魅力的ではなくなっていった。
むしろ、こう思うようになる。
『どうして私だけがそんな運命を生きなくてはいけないの?』と。
不老の運命。それは、きっと孤独の道だった。神に仕えるということは、人間が人間らしく生きていくはずの『時間』を否定することなのだ。
それは神への献身。そこまでして仕え、祈り、奉仕する人生。長い、長い人生。
大神官様が何故すぐに私を受け入れなかったのか。その片鱗を理解する。
「……私は、聖女であることを否定してもいい。まだ、それは許されている」
でも、聖女という響きは好きだった。王国で一番特別な女性だということは、私の自尊心を大いに満足させてくれたのだ。
あとは、私にとって大切なことは。
「……レグルス様」
この恋が叶うかどうか。それが私にとって重要だ。
怖くなったからといって軽々に聖女の身分は捨てられない。捨てたくない。
レグルス様には……残念ながら婚約者が居る。それも私と同じ侯爵令嬢。
私と同じ『神の予言を受けた女性』だった。
私は、どんな人間なのかとレグルス様の婚約者を見に行くことにした。
何なら会ってみて、その座を、婚約者を降りるように言ってやるぐらいのつもりで。
「キーラ様ですか?」
「ええ、お会いしたいと思っていたの。王宮に移られたと聞いたから」
私は、王宮で働く使用人に声を掛け、キーラ様の居場所を聞いた。
聖女である私は、王宮でも比較的自由に動くことを許されていた。もちろん大臣たちが会議をしているような場所には用事はない。
ただ、中庭・庭園などといった王宮の綺麗な場所を好きなように見て回れるのだ。
「どうぞ、こちらへ。ご案内しましょう。聖女ユークディア様」
「ありがとう」
私は侯爵令嬢で、聖女。だから急に話し掛けた王宮の使用人でさえ、こうして私の願いを叶えてくれる。やっぱり私は特別で、一番なのだ。
だから。そう、だから。私こそがレグルス様に一番相応しい。
この時の私は本気でそう思っていた。……だけど。
「あちらの銀髪の女性が、キーラ様。キーラ・ヴィ・シャンディス侯爵令嬢です」
「……あれ、が」
ちょうど花が咲く中庭に出ているというキーラ様を、私は遠くから見る。
それでも、彼女の容姿も、振る舞いも、すべてが目に入る場所から。
……綺麗だった。気品が溢れていた。
私の知っている貴族令嬢たちとは比べられないぐらい。彼女には品格があった。
他でもない私自身がそれを認めてしまったのだ。たった一目で。
言葉も交わしていない。ただ、座って本を読んでいるだけの彼女。
誰に媚びるでもなく、何に向けてアピールするでもなく。
ただ座り、勉強しているだけの姿を見て。
私は、その姿に嫉妬心を抱いた。劣等感を覚えた。
……私は、あの人には、勝てない。
それを認めてしまったのだ。自覚してしまったのだ。
それは、けっして口に出来ないことだった。口にして認め難いことだった。
だって、それを認めてしまったら、私はとてもみじめな人間になる。
レグルス様への恋心も、きっと苦しいばかりのものになるに違いない。
そんなのは『嫌』だった。私は、私の恋心を裏切りたくない。
憧れて、恋焦がれて、キラキラしていて、すべてをそれに捧げたくなるような。
そんな私の『心』を否定などしたくない。
だから、私は、私が抱いたこの気持ちを認めなかった。けして、彼女に負けたくない。
キーラ様に勝てないなんて、私は認めない。そう思って。
それから私は、強く彼女を意識するようになった。対抗意識を燃やすようになったのだ。
レグルス様に振り向いて貰えるように努力する。その頃にはもう神に仕える将来なんて意識もしていなかった。私は恋に、愛に生きていた。
そんな私に大きな『チャンス』が巡ってくる。それは、悲しいことだけれど。
レグルス様の父親、カザレス王が亡くなった時だった。
王様とはあまり親しくしていない。興味だってあまりなくて。レグルス様にとってはとても厳しい人らしく、それを聞いた私にとっても苦手な人だった。
だから、他の皆より私は王様の死を嘆いていなかった。
それよりも大事なことが私にはあったのだ。私は、父親が亡くなって悲しみに暮れているだろうレグルス様を見つけた。
「レグルス様……」
「ユークディアか」
「……はい。この度はお悔やみを申し上げます」
「……ああ。受け取ろう」
レグルス様はやっぱり元気がなかった。だから私は、彼を慰めてあげたいと思う。
「ユークディア、そなたは」
「は、はい! レグルス様」
「……いや。……しばらく近くに居てくれるか?」
「えっ! あ、はい! もちろんです、レグルス様!」
レグルス様からの要望に私は内心で嬉しく思いながらも、それを表情に出ないように心掛けた。出来る限り、彼の心に寄り添うように。心からそうありたいと願っていたのだ。
そして、私とレグルス様は二人きりで。悲しんでいる彼の隣に私が寄り添っている時。
「あ……」
「……どうした、ユークディア」
キーラ様だ。キーラ様が私たちを見ていた。驚いた表情を浮かべている。
……きっとレグルス様を慰めに来たのだろう。今の私と同じように。
それをキーラ様に許してしまったら、彼女にレグルス様の心が奪われてしまう。
私はそう思い、レグルス様にキーラ様の存在を悟らせないように努めた。
「……いいえ、レグルス様。何もありません。どうか、今は何も考えずに。私が貴方のそばに居ます。私は、けっして貴方を一人にしませんから。私だけは、必ず……」
絶対に。キーラ様に、彼を渡したくない。
「……そうか。そうしてくれ、ユークディア……」
「はい、レグルス様。私は、ずっと貴方のおそばに……」
疲れている様子のレグルス様に、私の最後の言葉は届かなかったかもしれない。
でも、それでいい。今はキーラ様をレグルス様に近付けないようにしなくちゃ。
そうして、しばらく私が警戒心を剥き出しにしてキーラ様を遠ざける。
まるで外敵から幼い子供を守るように。
その内に、レグルス様に声も掛けないまま、キーラ様はその場を離れていったの。
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