愛を砕かれた王 後編──レグルス・デ・アルヴェニア
だんだんと私はキーラを疎ましく、憎く思うようになっていった。
彼女と婚約を結んでから、もう八年ほどだろうか。ほとんど実態のない婚約期間。
王宮で暮らすようになった彼女と、最近は少しだけ距離が近くなっていたはずだった。
だが、私は……キーラを見ると、父上のあの見たことがないような穏やかな笑顔がちらつくようになった。
何故。アミーナ・ヴィ・シャンディスだけならば納得が出来た。
アミーナはキーラの母親なのだから、当然だと。
何故。父上が誰を相手にしても威厳ある王であったならば納得が出来た。
父上はそういう人なのだと。故に息子である私に厳しくとも、それこそが王だと。
何故。神の予言はキーラを選んだのだろうか。次代の王に関わる予言ならば、私の未来こそを照らしてくれれば良いのではないのか。
「……私は、何なのだ」
まるでこの世界はすべてキーラのためにあって。彼女こそが主役で。
私は、彼女の物語に付随する脇役であるかのよう。
「レグルス様……」
私は、以前と同じように話し掛けてくるキーラに、苛立ちさえも感じるようになる。
ただ話し掛けてきただけの彼女を睨み付けてしまい、キーラは私の視線にびくりと肩を震わせて私の様子を窺うようになった。
「っ……、あの」
「……何の用だ」
「いえ、お話を出来ればいいな、と。そのように……思っただけで」
「……必要ないだろう? 私と話すことがお前にあるのか?」
「え? レグルス様?」
話など。私とではなく、父上とすればいい。国についての話であっても。
アミーナに愛され。神に選ばれ。父上に、親として笑顔を向けられて。
それでも尚、私の……愛さえ、お前は求めてくるのか。
必要があるのか。そんなものが彼女に。
王の伴侶。決まっていること。運命そのものといえること。
「ハ……」
どうせ、決められている運命ではないか。ならば、彼女と繋ぐ信頼に何の意味がある?
何もかも手に入れる者、キーラ・ヴィ・シャンディス。
……そんな彼女に、私から与えるものなど……何も、無い。
「レグルス様……」
彼女の声が私の耳に入って、引き寄せられるような感情を掻き立てても。
私は、キーラを振り向かなかった。
そして。運命は、また別の形で訪れる。
……父上がいよいよ病に倒れてしまったのだ。
私が十八歳を超えた頃。キーラは十六歳。彼女はより美しく育ち、よりいっそうアミーナに似てくるようになった。
「父上……」
「レグルスよ。王とは……孤独なものだ。だが、それでも……。お前を支える者は居る。お前は……一人では、ない。故に……王としての、あるべき姿を忘れず……」
病に倒れた父上から発される言葉を、私は聞き逃さないように耳を傾けた。
王としての矜持。王としての誇り。王としての責務。王としての覚悟。
父上から伝えられる言葉は、すべてそういった手合いのもの。
カザレス・デ・アルヴェニアにとって、私という存在は『次代の王』なのだ。
……それ以外の何者でもない。ただ、己の王位を継ぐ者。
きっと、キーラが父上の本当の娘だったなら。こんな風ではなかったのではないか。
「レグルス……?」
「はい、国王陛下。私はここにおります。王としてのお言葉、しかと受け取っております。ですから、どうか安心してください」
「……そう、か」
私は父上の最期を看取る。言い残したことはないだろうか。それは分からない。
死という運命は誰にでも平等に訪れるものだ。
人は、たとえ王族であっても、その運命と向き合い、乗り越えていかねばならない。
アミーナの死でそれを知っていた私は、思いの外取り乱すことなく、父上の死を見届けることが出来た。
「……ああ、死から遠ざかった者も居るか」
不老の大神官、エルクス・ライト・ローディアの姿を見つける。
私は、何の気もなく彼に近付いていった。
「レグルス殿下……?」
「大神官よ。父上への手向けに来てくれたのか?」
「……はい、殿下。カザレス王とは生前、長い付き合いでしたから。彼とは『友』であったと思っております」
「友、か。王と大神官がな?」
「……殿下?」
「お前は不老だ。神の祝福の下。これまで多くの者の死を見送ってきたのだろう。それでも、お前もまた死から逃れられているワケではない。ただ、人よりも遠ざかっているだけ」
「……ええ、その通りです、レグルス殿下」
「そんなお前から見ても、父上は『友』と言えたのか? 人とは違う時間の流れを生きる、神に仕える大神官よ」
私が、その時に何を求めて尋ねたのか。それも曖昧なままだった。
「はい、私はそう思っております。時の流れが違う人生を送っていたとしても。それは人と人との繋がりとは別のもの。けして交われないことなどはないのですから」
「……そうか。父上に花を手向けてくれ、大神官」
「はい、レグルス殿下。未来の太陽の仰せのままに」
私と大神官のやり取りを聞いていた者たちが息を呑む。
次代の王に王位を継がぬまま、王が死んだ。誰の心にも不安があっただろう。
しかし、王とも対等な立場にある大神官が、私を未来の王だと認める言葉を紡いだ。
元より私は賢君カザレスの唯一の息子だった。
私が次代の王であることは、貴族たちの誰も否定できないことだったのだ。
父を送る荘厳な式の中で、悲しみを滲ませたキーラの姿を見る。
私はそんな彼女の姿を目で追いながら、自身の涙を流すことも忘れたまま。
父が死という運命に迎えられ。この先のアルヴェニア王国はどうなるのか。
レグルス・デ・アルヴェニアという男は、次代の王として相応しいのか。
神さえも私の未来についての言及を避けている。
神が予言したのは二人だけ。キーラとユークディア。それだけが決められた運命だった。
しかし、運命の通りに未来は進む。運命の通りに……。
「レグルス様……」
「ユークディアか」
「……はい。この度はお悔やみを申し上げます」
「……ああ。受け取ろう」
私とユークディアが会う機会は、これまでもそれなりにあった。
かつての父上と大神官のように、私たちは友であれるのか。ユークディアは聖女となる。
いずれ不老の存在となり、きっと老いていく私のこともいつかは置き去りにして。
「…………」
「レグルス様?」
ふと、私はユークディアの未来について考えた。
彼女は、あの大神官のように不老の存在となるのだろう。だが、そうなった時。彼女こそが孤独なのではないだろうか。或いは、あの大神官が彼女に寄り添い、生きていくのか。
「ユークディア、そなたは」
「は、はい! レグルス様」
「……いや。……しばらく近くに居てくれるか?」
「えっ! あ、はい! もちろんです、レグルス様!」
彼女は、私より先に逝くことはないだろう。あの大神官のように。
いつか死という運命が私に訪れたとしても、私を看取ってくれるはずだ。
それは即ち、彼女の孤独を意味するのかもしれない。彼女は自身に待つ未来をきちんと受け入れられるのだろうか。
それはまだ分からない。ただ……私は。今は、ただ。
誰かに寄り添っていて欲しかった。たとえ、そこに愛がなくとも──
「あ……」
「……どうした、ユークディア?」
私は彼女の隣に座り、ただ身を任せるようにそばに居た。手を取り合い。
ユークディアは私ではない場所に向けていた視線を、すぐに私に引き戻した。
「……いいえ、レグルス様。何もありません。どうか、今は何も考えずに。私が貴方のそばに居ます。私は、けっして貴方を一人にはしませんから。私だけは、必ず……」
ユークディアはそう告げると、強く私の手を握ってくる。まるで誰にも私を渡さないと決意するかのように。
「……そうか。そうしてくれ、ユークディア……」
疲れた。父上の死を悲しむ暇など、本当はなかったのかもしれない。
キーラのように涙を堪えて、その死を見送る暇さえも。
私の周りの者たちは、父上の死を悼むのもそこそこに私が次代の王となるに当たっての問題を話し合っていた。
それは当然の話でもある。王が倒れたのだから。
これからの国について話し合うのが当然のことだ。そして、それを私が受け入れることもまた当然。だが、誰も私という一人の男の心には寄り添ってはくれなかった。
たた一人、ユークディアを除いて。
……キーラは、きっと父上のそばに今も居て涙を堪えているのだろうな。
キーラにとっては私より、きっと父上の方が大切な存在だったのだろう。
彼女と父上は『家族』だった。私と父上は『王と次代の王』だった。
たった、それだけの違いだ。
「…………」
私は、その時にユークディアが『誰』の姿を見たのかなど気付かないまま。
父上の死について悲しむ私を『誰』が気遣い、ユークディアと二人きりだったのかなど。
そんなことにも気付かないまま。ただ、ユークディアという存在に安心感を覚えていた。
……思えば。この時にはもう、私とキーラは道を違えていたのかもしれない。
少しでも条件が違っていれば、私の隣に居るのはユークディアではなくキーラだったのかもしれない。だが。
それでも、この時、この場所。私のそばに居たのはユークディアだったのだ。
私の戴冠式は父上の死を悼んで、喪に服してから一年後の予定となった。
事実上の権利は既に、国王と同等となっている。他の王位継承者も居ない。
しかし、王位を継ぐことが決まっているからといって私は民に重圧を敷く気などない。
賢君の後を継ぎ、立派に国政を担おうとする気概もあった。
……だが。王であることと、一人の男であることは別だ。
国政を担う場では、キーラの『立場』に見合った発言を認めていた。
事実、彼女は優秀で、発言権があることで有益なことは分かっている。
それ以外の場面で私は、キーラではなくユークディアを重用するようになっていった。
私の孤独に寄り添ってくれた聖女。私のそばに立ち、私を認めてくれるユークディア。
ただの『王』を、ユークディアは求めなかった。
ユークディアは『レグルス』という一人の男を肯定し、認めてくれていたのだ。
「レグルス様……」
「……なんだ?」
「っ……。いえ……何も、ございません……」
彼女が私に怯える姿に、私は苛立ちを覚える。それでも無視は出来ず、その存在に惹かれてしまう。アミーナに似たその姿がそうさせるのか。父上が遺した言葉が、彼女の中にあるのがそうさせるのか。私にとって大きな存在であることは間違いない。だけれど。
私は、キーラを疎み、憎み、それでも尚、彼女がそばに居ることだけは信じて。
縋るように、駄々をこねるよう幼子のように。キーラにすべてを向ける。
アミーナに向けたかった、父上に向けたかった感情を、叫びを。ただ。
「そう。だからレグルス様は私に『嫉妬』されていました。カラレス王の愛を、我が母アミーナの愛を一心に受ける女、キーラ・ヴィ・シャンディス。自分に与えられないモノを持っている。自分よりも優秀で。レグルス様がどれだけ努力し、積み重ねたことさえも褒められないのに。私ばかりが褒められる。……そう思って過ごされてきた」
「……そうだ」
キーラは、誰よりもそんな私のことを理解してくれていて。
「ええ、そうでしょう。その上で心の中では寂しい、寂しいと。認めて欲しい。愛して欲しいのだと。誰にも見せることなく、心の内だけで涙を流しながら」
「……ッ!!」
知っていた。キーラは私を見ていた。本当の『私』を。
レグルスという男の存在を、誰よりも。見てくれていて、認めてくれていて。
「貴方には寂しさを埋める相手が必要でした。愛してくれる家族が必要でした。母が、必要だったのでしょう。レグルス様。貴方は私の中に、私の母であるアミーナの姿を見ていたのではありませんか?」
そうあって欲しいという願いも。
「嫉妬もあり。憎しみもあり。そして同時に求める母の愛もあった。レグルス・デ・アルヴェニア。貴方は私を憎しみながら、同時に愛しもしましたね? 母の姿を持つ娘、このキーラにしかその寂しさを埋めることは出来ないと。そう、心の内で気付いていらしたわ。そして母に似ているというだけでなく、貴方は私のことそのものにも愛情を覚えていました。男性として女性に向ける感情での愛情です」
醜く、浅ましい感情さえも、すべて。キーラという女には筒抜けで。
だから、そこまで私を……『俺』を見てくれていたのに。
「……そこまで。そこまで! そこまでッ!!」
俺は悲鳴のように、キーラに追いすがる声をあげながら。
「そこまで知っていながら! 俺を分かっていながら! それでも俺から離れていくと言うのか! キーラ! キーラ・ヴィ・シャンディス!!」
俺が欲しかったもの。本当に手にしたかったもの。そのすべてを知っているのに!
そのすべてが彼女であるのに!
「……ふふふ。レグルス様。それは貴方様からの『愛している』という言葉と受け取ってよろしいの? かつて貴方のそばにおりました時は、ついぞ、その言葉を頂けませんでしたから。 ええ、貴方様から離れる理由には、きっと十分でございましょう?」
挑発するように。キーラは今まで見たことのないような微笑みを浮かべて。
それは、まるで本物の『悪女』であるかのように。
聖女であるユークディアとは異なる、真逆の性質に染め上げられた俺の知らないキーラ。
「ああ! ああ! 愛しているさ! 俺は、お前を! キーラを愛している!」
ずっと欲しかった。ずっと縋りたかった。ずっと手を取りたかった。
彼女を心の底では愛していた。求めていた。寄り添って欲しかった。
一緒に居て欲しかった。言葉をもっと交わしたかった。恋焦がれていた。
寂しい時に誰よりも俺のそばに居て欲しかった。
彼女が悲しい時に誰でもない俺が、彼女のそばに居たかった。
彼女に愛していないと言われて、衝撃を受け、悲しくなり、苦しくなった。
王宮からキーラが去っていくと聞いて、居ても立ってもいられず、追い縋った。
キーラ・ヴィ・シャンディスが俺のそばから居なくなるなど、考えたこともなかったのだ。
彼女は俺の伴侶となる人だった。彼女は、ずっと俺のそばに居るのだと思っていた。
甘えだったのかもしれない。許されると思っていたのかもしれない。
それもキーラだからこそ、そんな風に感じて、思っていた!!
俺は『家族』に愛されたかった!
父上に認められたかった! アミーナに認められたかった!
彼らに『家族』だと認めて、愛されたかったのだ!
それを本当はキーラに求めていた。キーラとなら『家族』になれると、なりたいと。
心の底ではそう悲鳴を上げていた!
そうして彼女に心惹かれていた。
女性として恋焦がれる気持ちが、俺の奥底にあると気付いた。
キーラが他の男のものになるなど、考えたくもなかった!
嫌だ。失いたくない。彼女にずっとそばに居て欲しい。
嫌だ。忘れたくない。俺の気持ちは、感情は本物だった。
俺はキーラを愛している。愛しているんだ、キーラ──
「私がこの王国のため。そしてレグルス様。貴方のために、超常の存在より授かった魔法は、──愛を砕く魔法でございます」
その言葉に、キーラの『覚悟』を見た。
彼女の中にもあるはずの、私への思いに対する決別の『決意』を見る。
それはキーラ・ヴィ・シャンディスの『勇気』だった。
これまで大切に抱えていたはずの……己の感情に、別れを告げるという、勇気。
だが、俺は。俺は!
「キーラ! やめろ! やめてくれッ!!」
失いたくない!! キーラを、もう二度と! 俺のそばから!
居なくなって欲しくないんだ! 本当に! 本当に!
俺は……キーラを愛している!! これは心の底からの、俺の本当の感情。
もっと早くに告げるべきだった、俺が示すべき勇気ある言葉……。
「キーラ! 俺は、お前を失いたくないッ!!」
……だけど、すべては。
「キーラ」
「……うん。リュジー、私は止まらない。人生で一度きりしか使えない、この魔法を、必ず」
もう、遅い。
キーラが俺を見据える目には強い感情が、その覚悟が、決意が、勇気が満ちていたから。
「キーラ! キーラ! キーラぁああああああ!!」
俺は、最後まで彼女に縋りつくように。それでも、確かにあったはずの、俺の中の彼女への『愛』は。砕かれていき、消えていく。
もう、二度と手に入らない。もう、二度と彼女と俺の間に『愛』は生まれない。
もう二度と、二度と……。後悔しても、意味が無い。
「ぁああああ……」
光の中で、ただ、愛しかったはずの女性への感情を、俺は失って。
そうして、すべてが……終わりを迎えた。
幼かったレグルス・デ・アルヴェニアは……多くの貴族たちを巻き込んで、ここまでの大騒ぎを起こしてまで……『失恋』したのだ。
コミック1巻、2月6日(木)発売です!