①愛を砕かれた王 前編──レグルス・デ・アルヴェニア
コミック1巻、2025年2月6日(木)発売記念の番外編更新です!
物心ついた頃には、もう私は王族だった。それを受け入れていた。
気付いた時には王族としての教育が始まっていて、それが私の生活だったのだ。
賢君カザレス・デ・アルヴェニアの一人息子にして、唯一の王子。
次代の王、レグルス・デ・アルヴェニア。……それが私だ。
シャンディス侯爵家は、王である父上が重用していた家門だ。夫婦ともに優秀で父上としては側近として取り立てたかったらしいと大臣から聞いたことがある。
しかし騎士団を有する家門であり、シャンディス侯爵カイザムを国王が連れ回しては、その運営が滞る。それならば、と。
父上はシャンディス侯爵の妻であるアミーナ・ヴィ・シャンディスを側近に取り立ててはどうかなどという話をしていたらしい。
当然の如く、その提案は夫のカイザムによって阻まれたようだが。
女性を取り立てんとしたことで王の下心など疑われかねない懸案だったが、そんな疑いなど持ち上がらないほど、父上はシャンディス侯爵家と懇意にしていた。
アミーナ・ヴィ・シャンディス。キーラの母親だ。
彼女とは違い、深紅の赤毛と赤い瞳をした女性だった。しかし髪の色以外は成長したキーラにそっくりの容姿をしていて、カイザムの銀髪を受け継いだキーラが彼とアミーナの娘であることは誰の目から見ても明らかだった。
そんなアミーナ・ヴィ・シャンディスの存在は、私にとっても重要なものだった。
私には母親が居ない。私を生んでから早くに病で亡くなってしまったのだ。
もちろん、王宮で育った私には母親がおらずとも乳母がおり、生育において私が困ったことはない。だが。
……母親の愛情というものは幼心に特別だったのだろう。
幼い私は乳母にその役割を求めたのだろうが……。彼女はあくまで王族に仕える臣下だ。
故に。私が人間として、ただの子供として求めるものを返せるような身分ではなかった。
どこか一線を引いて、臣下としての触れ合いを続けるのみだった。
だからこそ、アミーナ・ヴィ・シャンディスに私は惹かれてしまったのだと思う。
国王が重用していたシャンディス侯爵家の夫人。父上もまた人であり、父親となるのは初である。そして早くに妻を亡くし……成長した今なら、私にもそれが分かった。
父上は、同じ年頃の子供を持ち、信用に足る、その上で女性であり、母親でもある彼女に。息子である私についての相談をするようになったのだ。
子育てについての相談、ということだろう。
その影響もあり、側近とは言わずともアミーナが王宮に訪れる機会は多かった。
そうして幼い私と良く話してくれたアミーナに対して、幼い私は『母親』とはこういうものなのだという感覚を覚えていた。
図らずもアミーナの娘、キーラが私の伴侶となると『神の予言』が下されたことも、彼女が私にさらに関わることを後押しする形になる。
私がキーラと初めて出会ったのは予言のあった年。九歳の頃だ。
先にアミーナと出会って、私が『母親』という存在を知った後に彼女と出会った。
アミーナに対して自覚もなく『親』であることを、その愛情を求めていた私。
そんな私の前に、キーラはアミーナの『実の娘』として現れた。
「お初にお目に掛かります、レグルス殿下。キーラ・ヴィ・シャンディスと申します」
彼女もまた私と同じように高位貴族としての教育を受けていたのだろう。
私の二つ年下で、まだ七歳だというのに整った礼儀作法をして見せた。
「ああ……。君が、キーラだね。神の予言をされた子だという」
「はい、殿下。そのように私も聞いております」
「……将来、僕の伴侶になる?」
「はい! そのつもりでございます!」
眩しいと思った。明るい笑顔、私を信じているような輝いた瞳。それは幼さ故なのか。或いは、あのアミーナのような女性に、母親に、愛されて育ったが故なのか。
触れれば壊れてしまいそうな、何とも言えない……そんな存在。
「キーラ、殿下の前よ。はしたないのはいけないわ」
「はい、アミーナお母様!」
目の前で仲睦まじい母娘の姿を見て、私は。
胸に、ちくりと。針が刺さったような感覚を覚えた。だが、それもほんの些細なこと。
けして、この時点でキーラを憎んでいたワケではない。
むしろ、きっと私は……幼いながらも利発で、それでいながら明るく、母親に愛されているその姿に……惹かれていたのだと思う。
それはキーラの美しさといった要素に惹かれたのではないだろう。
まだ七歳の子供が相手で、その当時の私もまた、たかが九歳の子供だったのだから。
だから、私は惹かれたのは……その家族の在り方。関係。
『私もまたこのようにありたい』と。……彼女たちの『家族』になれれば、と。
そのように思い、きっと私はキーラとの政略結婚に希望を抱いていたのだと思う。
当時の私は、キーラそのものではなく、アミーナという『母親』が得られるかもしれないことの方が重要のように思えていたのだ。
だから、私は彼女との婚約が調うことを快く受け入れていた。
……だが。私とキーラの婚約が調う前に、私の浅はかな願望は叶うことがなくなった。
アミーナが病で急死してしまったためだ。
「アミーナ……」
アミーナは、王宮に咲く薔薇が好きだった。自身の赤髪を彷彿とさせるからだという。
彼女の葬式は身内だけでひっそりと行われたらしい。
シャンディス侯爵カイザムが、彼女の願いを叶えたそうだ。
「私は……」
アミーナの葬式に参加することはない。当たり前だ。私は彼女の『家族』ではなかった。
まだ、キーラとの婚約も調っておらず、何の権利もなかったのだ。
他人であるはずの女性に、母親が死んだような喪失感。そして、その死を悼む場に居合わせることさえ出来ない疎外感。
幼い私の心に複雑なものが渦巻いていた。
キーラとの婚約が調ったのは、アミーナが亡くなり、落ち着いてからだった。
再び顔を合わせた時の彼女は、まだ母親の死の悲しみから抜け出せてはいなかったのだろう。
暗い表情を浮かべ、かつて見た眩しい笑顔や態度を私が見ることは叶わなかった。
キーラもまだ幼く、王宮に上がる機会は少ない。
母親の死を受けて、さらに父親からも遠ざけるなどという非道な真似を父上はしなかった。
名ばかりの婚約者が居る状況で、特に顔を合わせる機会もないまま。
私たちは、アミーナの死を別々の場所で乗り越えていった。
転機が訪れたのは、キーラが王宮へ上がってからだ。
彼女が十二歳を過ぎた頃。いよいよ、キーラが王妃教育を受けるため、王宮へ訪れた。
およそ三年ぶりに再会したキーラは、もう既にその時点で大人びた態度だった。
「お久しぶりでございます、レグルス・デ・アルヴェニア殿下。キーラ・ヴィ・シャンディス。本日より王宮にて王妃教育を受けるため参りました。どうか今後もよろしくお願い致します」
「……ああ。久しいな、我が婚約者よ」
幼い頃にあった、友人、或いは家族になれるかもしれない。そんな感情は私たちの間にはもうなくなっていた。少なくとも彼女の整った態度を見て、私はそう感じたのだった。
少なくとも共に『母親』の死を悼むような、戦友のような間柄にはならなかった。
王妃教育を受け始めたキーラは、その優秀さを存分に発揮していった。
聞くに教育係のすべてからは優秀と評価され、故に『神の予言』の正当性を誰もが認めることになった。
……その頃から。私の周りには、私とキーラを比較して評価する者たちが増えたと思う。
「いやぁ、キーラ様は大変に優秀でございますな。あの方が居れば、次代の王の世代もどうにかなりそうです。賢君とまで謳われたカザレス王の次代が安泰そうで良かった!」
「……」
父上の名は、いつの間にか私にとって重圧となっていった。
賢君、カザレス・デ・アルヴェニア。偉大なる国王。
私はその父の名に恥じない次代の王になれるのか。いつだって不安は胸に渦巻いていた。
誰にそのことを打ち明けることも出来ず。周囲は唯一の王子として私に甘い言葉を掛けるか、或いは身勝手な考えをぶつけてくるか。対等な関係などどこにもない。
私は王子だ。国王の唯一の息子。次代の王になることは決まっている。
神も……いや、神が予言したのは、王となる私のことではなく、キーラのこと。
「神が認められているのは、レグルス殿下ではなくキーラ様ということですかな」
「……ミンク侯爵。何を言っている?」
「いえ、レグルス殿下。この度、私の娘、ユークディアもまた神の予言を受けるに至りましたので。どうしても、神の予言というものについて考えざるをえない立場なのです」
「……ミンク侯爵の娘か。聖女となるらしいな。大神官の後を継ぐ者として」
「ええ! その通りなのです、レグルス殿下! ……しかし、父親として、かの予言には思うところがあります。娘はまだ殿下とそう歳が変わらない。幼子とは言いません。ですが年頃の娘なのです。侯爵令嬢であるのに幼い頃は要らぬ苦労もさせてしまいました。そんな娘が……これは神への不満になってしまうのでしょうか。聖女になり、神殿に入れられてしまうなど。どうしても親として受け入れ難く思っているのです」
「……その想いは神殿へ赴き、大神官へと伝えるがいい。私に告げてもどうにもならぬ」
「もちろん! お伝えしましたとも! ええ、大神官様は私の親心を理解してくださいました」
「……理解?」
「はい、殿下。娘が神殿に入るのは今すぐでなくともいい、と。そもそも娘のユークディアが心から望まなければ意味のないことだと、そうおっしゃってくださいました」
「……そうか」
ミンク侯爵の娘に興味はなかった。しかし、次代の王として侯爵家の者を無下にも扱えないとも思っていた。
「しかしながら、ユークディアはこの国でも特別な立場となるでしょう」
「……特別な立場?」
「はい、殿下。大神官の後を継ぐ、ということは即ち、王にも匹敵する者になるということでございます。これは今の大神官、エルクス・ライト・ローディア様がそのような立ち位置であることから明白。無論、大神官は政治に口は挟めませぬ。しかし、大神官が政治を理解していないワケでもない。少なくともあの方は王国の政治を見ながら適切な振る舞いを心掛ける方でございましょう」
私は、ミンク侯爵の饒舌な語り口に、いささかうんざりした気持ちになる。
「……デルマゼア・ラ・ミンク侯爵。一体何が言いたい? 結論を言うがいい」
「これは手厳しい。流石は次代の王、レグルス・デ・アルヴェニア殿下。では、言わせていただきます。どうか、殿下。我が娘、ユークディア・ラ・ミンクに政治の何たるかを手解きいただきたく存じます」
「……聖女となる娘に、政治を教えよ、と?」
「はい、その通りでございます、殿下」
「侯爵。其方は一体何を言っているのだ?」
「レグルス殿下。聖女となる者に教養が要らぬわけがないのでございます。むしろ、きちんと学ばせておかねば将来、アルヴェニア王国に不要な災いを招くことになりましょう」
「……それは分かるが、それを何故、私がせねばならぬのか」
「殿下。それは我が娘ユークディアが聖女として活動するのは、レグルス殿下の治世であるからでございます。故に、共に学び、共に育ち、互いの考えを擦り合わせておくことこそが肝要であると。私は臣下として、また一人の親としてそう考えるのでございます」
「……分からぬではない考えだが」
実際、父上とエルクス・ライト・ローディア大神官は、対等な立場として意見を交わすこともあるという。神殿は政治には介入しない。しかし、その権威は無視出来ず、無下には扱えない。また民の心の拠り所として神殿は大きな意味を持つ。
であるならば、父上と大神官エルクスのような関係を私もまたミンク侯爵の娘、聖女となるユークディア・ラ・ミンク侯爵令嬢と培うべきか。
「……しかしながら」
「なんだ?」
「はい、殿下。しかし、我が娘ユークディアは元々市井で暮らしておりました。お恥ずかしながら私の愛した……政略結婚ではない相手との子供でございます。今は、最愛の娘として侯爵家に引き取ることが叶いましたが、同じ世代の貴族令嬢たちと比べられては劣っているというのが実情でございます」
「……そうか。生い立ちについて私がどうと言うことはないが」
「ありがとう存じます、レグルス殿下」
私は無言でミンク侯爵に続きを促す。
「キーラ・ヴィ・シャンディス侯爵令嬢は、非常に優秀な令嬢であるということ。私も聞き及んでございます。次代の王の世代を真に担う者という噂も……」
その評価に私は眉根を寄せる。次代を担う者、キーラ。それでは、まるで私は。
「そのような優秀な令嬢と比較されては我が愛する娘が哀れなのです。心が折れてしまうやもしれません」
「……それで?」
「どうか、レグルス殿下。我が娘、ユークディアに殿下の庇護をお与えください」
「……私の、庇護?」
「ええ。優秀で、次代を担うと言われるキーラ嬢とは比較されぬよう。或いは、比べられてもユークディアが心を病まぬように。これから違う道を歩きながらも、いつかは対等な立場で、アルヴェニア王国をレグルス殿下と共に支えていく我が愛する娘を。レグルス殿下の庇護の下、健やかに学べるように心を配って欲しいのでございます」
「……そうか」
対等な立場。確かにそうなるのだろう。父上と大神官のように。であれば。
「ミンク侯爵の言い分は分かった。だが、まずは会ってみてからの話だろう」
「では! お会いになっていただけますか? 我が愛する娘に!」
「……ああ」
そうして私は、聖女ユークディア・ラ・ミンクと会うことになった。
コミック1巻、2025年2月6日(木)発売です!