25 暗闇に墜ちゆく
私の身体が宙を舞う。
そこからの光景はすべて、ゆっくりと感じられた。
まず、私の服の下から這い出た影が四方に伸びていく。
とても長い腕のような黒い影が、人間では届かない距離の崖を掴む。
……けれど、人間一人分の重さが落下するのを止める程の力は出せないのだろう。
ガリガリガリと岩肌を削りながら、それでも私が落ちる事は止められない。
「ぐっ!」
リュジーの呻き声が聞こえた。きっと無理をさせている。
それでも、この悪魔は私を助けてくれようとしているのか。
──ドッパァアアアンッ!
「……ッ!」
リュジーが包んだ私の身体ごと、激流に落ちた。
落下の衝撃でこそ死ななかったが、一瞬で私は、上下の感覚がなくなる。
(リュジー!)
川底に沈む私の身体に、影がしっかりと繋がっている。
目を開けていられない。息も出来ない。上下も分からない。
それでも意識がまだ途絶えていないのは、リュジーが守ってくれたお陰だ。
落下しただけでも、身体中の骨が折れて死んでもおかしくなかった。
激流にもみくちゃになり、沈む、分からない。浮き上がる事が出来ない。
(リュジー、リュジー……!)
私は、必死にもがきながら彼に呼び掛けた。今、頼れるのは彼しか居ない。
生き残る為に、彼にすがる。
彼は、たしかに私を助けてくれた。でも、きっと無理をさせた。
崖からの落下の衝撃から私を守って。それでも、この激流までは為す術がない。
(どうして、こんなに流れが強いの! 晴れていたのに!)
遠方で雨でも降り始めていたのか。私には、天気にさえ気を配る余裕がなかった。
「……っ、がっ、ばっ!」
水を飲んでしまう。まずい、まずい。身体に服がまとわりつく。動けない。泳げない。
水面にせめて顔を出さなければ、このまま!
「……っ!」
その時。川の流れとは別の力が私を引っ張った。服ごと引っ張るような、そんな力だ。
そして。
「ぷはっ! はぁ、はぁ! がぼっ、はぁ、ああああ……!」
「落ち着け! キーラ! 落ち着いて! 俺に掴まっていろ!」
「リュジー!」
「いいから! 息をなんとかしろ! その事だけを考えろ!」
(リュジー! リュジーが私を助けてくれた!)
川から引っ張り上げる程の場所は谷底にはない。
ただ激流が流れ、垂直に競り上がった岩の壁に挟まれている。
片側の崖にリュジーが掴まり、私の身体を支えてくれていた。
でも、見るからに彼の身体は、そんな事をするように出来ていない。
「リュジー! どうしよう! どうすれば! このまま流される!?」
「ダメだ! お前を狙う連中は、この川の下流を捜しに行くだろう! 流されてしまえば、お前は見つかる!」
「……! そ、それは! でも、だったら!」
ここで、ただ激流に打たれるしかないと言うの?
「川上へ、上がる! 多少、無茶をするが、お前が生き残る為には、それしかない!」
「そ、そんな! 無理よ、こんなに強い流れ……! そ、それに!」
私は、ほぼ視線だけで上を見上げた。
あれ程に晴れていた空は今や、暗く淀んでいる。
……雨が降るのだ。いや。川の流れのせいで分からないが、もう降り始めているのかも。
「どうして! こんな時に雨なんて!」
「……ハッ! 神様が、お前をあの王の元に連れ戻そうとでもしているんじゃないか!?」
「そんな!」
どこまで! どこまで、神というものは!
そんなにも私を、あの王の慰み者にしたいの!?
どうして! 何故、それ程に!
「キーラ! いつだって、そういうものだ! いつだって神とはお前に都合良くはない!
だからお前は俺を選んだんだろう!?
押し付けられたハッピーエンドではなく! 王と結ばれる、凝り固まった幸福の享受ではなく!
自身の手で掴みとる運命の為に!」
「……ッ!」
「泳ぐんだ、キーラ! 俺が手を貸す! だからこの流れに逆らって死に物狂いで泳ぎ切れ!」
……ああ。ああ、かくも。
悪魔の言葉は厳しく。神の運命は甘い。
考える事を止めて、この激流に流されてしまえば、いっそ、どんなに楽な事か。
そうして意識を失い、再び目覚めた時に、私は幽閉塔に囚われているのか。
……レグルス王の寵愛だけを求めて生き、あの王の思うままの人形に墜ちるのか。
「……分かったわ! 泳ぐ! 死んでも泳いで見せる!」
そんな人生は嫌だ! 私は、どんなに激流に打ちつけられようとも……私の人生を生きたい!
「リュジー! それでも! 貴方が一緒でなければ生き残れないわ! 私が! 生きる為に! 貴方の力を貸してちょうだい!」
「……ははっ! いいだろう! そして、既に手を貸している!
お前が求める前に! 俺からな! もう、俺の方は手遅れさ!」
「手遅れって!」
「その話は後でしてやろう! あまり顔を上げ過ぎるな! まだ奴らに見つかるかもしれない!
崖を伝って川上へ行くんだ! 俺が手を引いてやる! 岩に打ち付けられる衝撃からは守ってやる!」
「……わかったわ!」
私は、リュジーの手を借りながら、必死になって川を上った。
激流に身体が流されるのをリュジーが受け止めてくれる。
……やがて、雨まで降り始めた。それも、豪雨と呼べるような雨だ。
激流が更に勢いを増していく。おそらく川上の方では既に雨が降っていたのだろう。
「っ……! 本当、嫌がらせのような運命だわ!」
「まったくだ!」
それでも。私1人ではどうにも出来ない状況だったけれど、リュジーの手助けのお陰で私は、何とか動けている。
命綱が繋がっているようなもの。
これなら行ける。動ける。でも。
(どれだけの距離を)
川から上がれる場所に辿り着くまで、どれほど?
そんな場所がそもそもあるのか。
泣きそうな程の過酷な試練。それでも私は、必死に足掻いた。
「リュジー、ああ、リュジー……!」
腕が動かなくなってくる。川の水が冷たいのだ。
寒さは、あっという間に私から体力を奪っていく。
「どうして、どうして私はこうなの……! なぜ、どうして!」
家に帰りたかった。私を愛してくれるお父様の元へ帰りたかった。
最初の人生では、触れあえなかった侯爵家の皆の笑顔が見たかった!
王への愛に縛り付けられていた私では見る事の出来なかった人々。
あんなにも愛してくれていたのに。
私は、いつからレグルス様を愛していたと言うの?
それは本当に私の気持ち? 神に定められ、愛を導かれた、愚かな私。
「私は、私は……!」
手が動かなくなる。足が冷たい。身体は冷え切っている。
体力はとうに底をついていて。
「……間違っていたの!? 何が間違いだったの!? レグルス様の愛を求めた事!? 一人の女として愛されたいと思った事!? 王妃になれと言われて育ったのに……王妃になろうと励む事は、憎まれる程の事だったの!?」
こんな運命。
「悪魔の手を取った事が間違いだと言うの!? それに見合う幸福なんて神から与えられた事もないのに!」
だって他ならぬレグルス様の手で私は投獄されたのだ。
そして、また逃れた筈の運命が追いかけてくるように……。
今度は、もっと酷い檻の中へ連れ去られようとしている。
それが嫌ならば無様に死ぬだけなのか……。
「2度目の人生を……捨ててしまった事が間違いだったの!? あのまま、あの人生を受け入れれば……私は、きっと幸福になれた……!」
それで物語はハッピーエンドを迎えるべきだったのだと。
神の書いたシナリオではそうなっていて。
この『最初の人生のキーラ』は、どうあっても不幸に落ち、絶望に沈むべきなのだと。
絶望と死に沈むばかりの最初のキーラ。
そして始まる2度目の人生ではレグルス王の愛を得るキーラ。
……それが神が思い描くキーラ・ヴィ・シャンディスの物語?
私は、それを受け入れなかった。
挙句の果てに悪魔の手を取った。
愚かなキーラ。
無様なキーラ。
ここで死ぬのがお似合いの……キーラ。
「ああ、リュジー、リュジー……! もう、私は……!」
「キーラ!!」
「ずっと、貴方と……」
そして。
……私の身体から力は抜け、激流に流され、意識を失った。




