16 来訪者
水だけで過ごす事、5日目。
空腹は耐え難い。
徐々に衰弱してきているのが分かる。
喋る事も億劫になってきていた。
「キーラ」
「……ええ」
それでもリュジーは私を抱いたまま。
返す言葉が短くなっても飽きずに私の傍に居てくれた。
今では、もうはっきりと彼の体温を感じる。
私は、悪魔に抱かれたまま死ぬのかもしれない。
神が定めた運命を拒んだのだ。
それも捨てられたのではなく、自らの意思で捨てて。
(……当然の報いなのでしょうけれどね。神に逆らい、悪魔に抱かれる私への、当然の)
神。予言を下す神。
私をレグルス王の伴侶と決めながら、私が傷つき、裏切られ、彼の愛を受け取れず、投獄されても尚、黙っていた神。
その癖、悪魔と手を組んだならば、すぐさま神官にそれを知らせて動かす神!
リュジーの手を取らなければ、私は今も惨めに地下牢の暗く、冷たく、固い、岩の床で横たわっていたのだ。
……どうして、それで神を信じられる?
それとも何だ。これはレグルス王との愛を確かめ合う時間か?
苦しみ、砕けた心で、地下牢の暗闇の中で泣くキーラ!
そうしてレグルス王が駆けつけるのか?
『誤解だったんだ。疑ってすまない、キーラ。本当は君を愛しているよ』と!
……ふざけるな!
そんな事は赦されない。そんな事は赦さない。
私は、一度でも地下牢に、最低の、最下層の底に沈む必要などなかった。
だって私は無実なのだ。聖女の毒殺など図っていない。
罪など犯していないのだ!
それが何故、未だに檻の中にいる?
なぜ、なぜ、なぜ!
このような愛の試練など無意味で、無価値で、必要が無いのだと悪魔が教えてくれた。
2回目の人生でレグルス王は、私への愛を語った!
牢獄で過ごした事などないキーラに!
騎士を目指し、彼から離れようとしたキーラに!
レグルス王は追いすがり、愛を謳った!
2人の愛を紡ぐのに、まったく必要がないのだ。私が地の底に沈む必要が。
名誉を傷つけられ、誇りを踏みにじられる必要が、これっぽっちもなかったのだ!
……故に、これは神が与えたもう、愛の試練でさえない。
ただただ、傲慢。
ただただ、醜悪。
ただのレグルス王の歪んだ憎しみの発露に過ぎない。
……知った事ではない。
その傷を癒す役目などキーラ・ヴィ・シャンディスは背負わない。
なにせ今や、彼の婚約者でさえもない!
あの男が自ら婚約を破棄した。
そして聖女ユークディアを正妃に据えると宣った!
癒しが欲しいのならば、聖女ユークディアに求めればいい。
道を踏み外したのは私ではない。
私は、身体の内に業火を宿し、薪をくべる。
私を形作り、動かすのは、もうレグルス王への愛ではない。
復讐心。神にさえ反逆する誓い。
それらこそがキーラなのだから。
「ふふ……」
「キーラ」
「ええ、リュジー。ずっと傍に居てね。まだ死なない。それでも最期まで、私の傍に居て、私を見ていて」
水だけあれば、2週間、3週間と生きれるらしいけれど。
その水を飲むにも体力が要る。
騎士を目指した私の身体なら別かもしれないが、ただの令嬢に戻った私の体力では3週間も保たないだろう。
およそ、あと1週間。それが私の命の期限だ。
「……ユークディア様はまた来るかしらね。私が餓死する前に」
「どうかな。キーラ」
「なぁに、リュジー」
「最もお前を苦しめるのならば、耐え難い空腹の前で、一度、施しを与える」
「…………」
「優しさで。可哀想だから、と言ってな。
哀れみと共に一切れのパンを与え、またお前を放置する。
腹に何かを入れてしまえば、きっと空腹は余計にお前を苦しめ、苛み、苦しめるだろう。
あの女は、その姿を見に来る。
空腹に狂い、乞食に墜ちたキーラを見物しに。そして奴はあざ笑う」
「……そう」
「絶望の底で、掴み取るのではなく、与えられるだけの希望こそが、最もおぞましき毒だ」
「……うん」
「お前は、誇りの為にこの人生に舞い戻った。ならば施しを受け取るな。
空腹のまま、誇りに死ね。
でなければ、この人生に戻った意味がない。
……うまい食事を食べて幸せなキーラは、あっちの世界に居るだろう?
お前がそうなる必要はない」
「ふふっ……。そうね。そうだわ」
「…………」
「ありがとう。リュジー。貴方が傍に居てくれるなら、私はキーラのまま死ねる」
「そうか」
──温かい。なんて温かいのかしら。
この人生では一度も彼に与えられなかった温もりだ。
口にすれば笑われるかもしれないが、私はリュジーの言葉に、抱擁に、愛さえも感じた。
(悪魔の囁きに愛だなんてね)
死ねと言われたと言うのに。
それが、堪らなく嬉しいのだ。
彼はキーラを肯定してくれる。
最初の人生を今、生きるキーラ・ヴィ・シャンディスの矜持を肯定してくれる。
……それでいい。それがいい。
たったそれだけが私の欲しかったものだ。
レグルス王が私に与えなかったものだ。
(このまま彼に抱かれて死ぬのなら……)
私は、私の人生をやり遂げたと言えるのかもしれない。
「……、キーラ」
「ん?」
「誰か来るぞ」
「あら」
ユークディア様かしら? 時間を思えばケイトではないわね。
それとも大神官エルクス様? そうだといいわね。
捜査は進んでいるかしら?
ただ、監視の者が見回り来たのかもしれない。
或いは……お父様?
婚約破棄の報せが入ってから移動したとしても、まだ時間が掛かる筈。
これはないわね。
なら望ましい人の来訪ではない。
唯一、神官だけが味方とも言えるのだが……。
悪魔と手を組んだキーラにとっては、最も警戒すべき相手でもある。
「──キーラ」
「……え」
(その声は)
聞きなれた声だ。愛おしく、そして忌まわしい、声だった。
「起きているな? キーラ。キーラ・ヴィ・シャンディス」
鉄格子の向こうに立っていたのは、青い髪と青い瞳をした美しい男性。
高貴な身分を示す服を着て、姿勢良く立っている。
「…………レグルス・デ・アルヴェニア、国王陛下」
ありえない人物が、そこに居た。