表と裏の虚構と現実
異世界へ行く方法
必要なもの:10階以上あるエレベーター
1.まずエレベーターに乗ります。
(乗るときは絶対ひとりだけ)
2.次にエレベーターに乗ったまま、4階、2階、6階、2階、10階と移動する。
(この際、誰かが乗ってきたら成功できません)
3.10階についたら、降りずに5階を押す。
4.5階に着いたら若い女の人が乗ってくる。
(その人には話しかけないように)
5.乗ってきたら、1階を押す。
6.押したらエレベーターは1階に降りず、10階に上がっていきます。
(上がっている途中に、違う階をおすと失敗します。ただしやめるなら最後のチャンスです)
7.9階を通り過ぎたら、ほぼ成功したといってもいいそうです。
ちなみに、
成功を確かめる方法は、1つだけあるそうです。
その世界には、貴方しか人はいないそうです。
そこからどうなるかは、わかりません。
でも一つ言えることは、5階で乗ってきた人は、人ではないということだけ……。
自分以外は誰もいないオフィス。時刻は午前零時を周ったところ。といってもとっくの昔に退勤の打刻をしているから記録上では無人ということになっているはずだ。
「無人のはずのオフィスに人がいる。考えてみたらホラーだよな」
終電の時間も迫っているが、家に帰る気にならずだらだらと時間を過ごしていた。昔見た巨大掲示板のオカルト板に書かれていた「異世界に行く」という内容がふと頭に浮かび、読み漁ってさいるうちにやめられなくなった。
日付が変わる前には家に帰るつもりだったが、とにかく今は現実から逃れたかった。
枕の下に「飽きた」と書いた紙を置いて眠る方法。
合わせ鏡を使う方法。
タットワの技法、黒弥陀の術式。
世界にはよほど現実に飽き飽きしている人が多いのか、ネットでこの手の都市伝説を探すと沢山の手法が転がっている。
どれも取るに足らないというか、わざわざ紙に図形を書いたり、何かを用意してまで試すような気にはならないが、このエレベーターの手法だけはどうしても気になってしまう不気味さがある。
10階以上の建物のエレベーターなんて毎日のように乗り降りするほど身近な物だし、手の込んだ道具はいらない。それだけに、ふらっと何の気もなしに試してしまいそうな危うさがあるし、途中で乗り込んでくる「人では無い何か」のくだりも背筋が少し寒くなる。なぜか記憶に残ってしまう、よくできた怪談話だ。
こんな都市伝説を検索して無為に時間を過ごしているのは、今の自分が「異世界なんてものに行けるなら本当に行ってみたい」くらい憔悴しているからだ。
家に帰れば、針の筵どころではない。真っ暗闇の中、まとわりつくような暑さ、水も飲めず、胃の奥をずっとぐりぐりと重たい石で抉られ続けているような感覚。
物理的な攻撃を一歳せずに、無言と無表情を貫くだけでそんな空間を生み出すことができる妻は、どんな魔法使いも敵わない最強の存在に思える。
ただ、妻をそんなモンスターに変えてしまったのは他でもない自分だ。
自分の歪んだ性欲と虚栄心。それがすべての原因である事は俺自身が1番よくわかっている。
俺と彼女の間には子供ができなかった。4年間の夫婦生活。どちらかに問題があったわけではない。ただ、何かが噛み合わなかっただけなのだろう。検査もした。不妊治療も受けた。いろいろな民間療法も試した。妻の事は愛していたし、できれば2人の間に新しい家族を授かることができたらいいと思っていた。けれども、俺たちの間に新しい命が宿る事はなかった。
次第に妻との夜の営みが苦痛になってしまっていた事は、誰にも打ち明けることもできず、俺の中で醜い感情の渦となって次第に大きくなっていた。
愛情を注ぎ、お互いを受け入れ合う心の通ったセックス。
それが次第に、子供を作るためだけの行為になっていってしまうと、なかなか自分の中で折り合いをつけることができなくなっていった。
排卵日の予測に基づく性行為のタイミング。
お互いの気分が高まった時ではなく、妊娠のしやすさだけが「する」か「しない」かの基準になっていくと、そこには義務感だけが残っていく。
どんなに気分が高まっていても、その日のために子種の無駄遣いを避けるようにと断られ、どんなに仕事で疲れていたり気分が乗らなくても、月に1度、3日続けてのセックス。
次第に俺は、男性としての機能がうまくいかなくなっていくのを感じていた。
妻がそんな自分を思いやってくれなかったわけではない。
しかし、俺は自分を奮い立たせるために、妻を抱きながら過去の女性のことを思ったり、妻が寝床に入ってくる直前まで携帯でポルノ動画を見たりして無理矢理務めを果たすようになっていた。
そんな時、俺は後輩に飲み会に誘われた。
後輩の八木は、軽薄な男だが仕事ができる。そんな奴だった。
「人数合わせでいいから、先輩も来てくださいよ」
そんな後輩の頼みを俺は断れなかった。
男女ともに3人ずつ、新宿の居酒屋で始まった飲み会。俺は薬指の指輪を外して、独身のふりをして参加していた。
俺の隣に座った美奈と言う女性。胸が大きくて、腰まで伸びる長い髪。肌の色が白く、隙の多そうな垂れ目の手の届きそうなルックス。
俺は彼女にどうやら気に入られらしく、飲み会の途中からずっと2人で話していた。
「なんですか先輩、いい感じっすね」
八木がそう囃し立てて、他の男女もそれに合わせるようにやじっても、美奈はまんざらでもなさそうだった。
彼女だけのせいにするつもりはない。俺自身、後輩の前で女性にアプローチをかけられていると言う状況に何とも言えない優越感を感じていたのだから
結局、俺は美奈と関係を持ってしまった。
その日のうちにホテルに行き、セックスし、うたた寝して終電を逃してタクシーを使って家に帰った。
俺はひどく酔っていた。財布の中に、代表して支払いを済ませた居酒屋の領収書、タクシーのレシート、そしてラブホテルのポイントカード。すべての浮気の証拠を起こした川自宅に帰り、玄関で力尽きて寝ていた。
美奈からはどうして逃げるように帰ったのかを咎めつつも、次はいつ会えるか、水族館に連れて行ってくれるのを楽しみにしているとLINEが入っていた。携帯の画面は、ロックがかかっていなかった。
次の日からは地獄の始まりだった。
取り乱した妻は、爆発と沈黙を繰り返すようになった。
俺を問い詰め、物を投げつけ、美奈に電話をかけて二度と俺に近づくなと言ってのけた。
俺は黙り込んでしまうしかなかった。謝罪だけでは妻は納得しなかった。どういうつもりか、俺の感情の説明を求めたが、俺は自分の感情を素直に妻に伝えることができず殻に篭った。それがさらに妻の怒りを助長した。
「君のことは愛している。けれども君とのセックスが義務に思えて苦痛だった。毎日少しずつ追い詰められている気がした。だから性欲を満たすためと、後輩にいい格好をしたくて出会ったばかりの女を抱いた」
そんな台詞を、愛する妻にどうやって言えるのだろう?
愛する妻がそれで納得するのか、それとも傷つくのか、俺にはわからなかった。
妻からの電話を受けた美奈も、自分が遊ばれたことを知って激怒した。後輩を通じてあるいは直接私に、毎日電話をかけてきてどうするつもりかと迫った。それも仕方がない。彼女は純粋な被害者だ。しかし、毎日かかってくる彼女からの着信は妻の機嫌を著しく損ねる。
「まだ連絡とっているの?」
「本当に仕事に行っているの?会ってるんじゃないの?」
俺がスーツを着て会社に行っていることすら、妻は信じられなくなっているようだった。俺にしてみれば、会社で仕事をしている時だけが、この問題から目を背けられる唯一の時間だというのに、何を話しても信じてもらえなかった。
あんなに嫌いだった仕事が今は唯一の心の拠り所だった。毎日遅くまで居残るために、片っ端から仕事を引き受けるようになった。残業しながら、美奈からの批難の電話を受け、訴える、慰謝料をとると言われつづけ、家に帰れば妻と深夜まで眠ることもできず、沈黙したまま互いに向き合い、ぽつぽつと溢れる妻の言葉を拾ってなだめ、癇癪を起こして散らかした部屋を片付けて2時間ほど妻の啜り泣く声を聞きながら目を瞑り、出社するという日が続いた。
1ヶ月。生き地獄とはこのことかと思えた。さらに、追い打ちをかけるのは立て続けに芸能人の不倫報道が続いたことだ。人気絶頂の好感度ナンバーワンタレントのゲス不倫。大きな社会問題もない中、マスコミの格好のターゲットになったこの事件が、連日嫌というほどテレビで報道された。
不倫、不倫、不倫。忘れようにもどこへ行ってもこの2文字が、俺と妻を苦しめ続けた。
死にたい。どうしてあんな事をしでかしてしまったのか。時を戻せるなら。全てをやり直せるなら。でももう、取り返しがつかない。しかし、30歳の自分は死後の世界を信じられるほど純粋でもなければ、自分の命を絶つ度胸もなかった。
そんな精神状態だったからか、俺はこうして深夜まで会社に居座り、異世界に行く方法を「ただのオカルト」と鼻で笑いながらも、心のどこかで信じたいような気持ちで眺めていた。退勤の打刻を早くに済ませているのは、自分の都合で会社に居させてもらっている罪悪感を少しでも薄めるためだ。
「糞がっ」
オフィスに自分の声が微かにこだまする。
毒づいても何も変わらない。誰も悪くない、自分だけが悪いこの状況では、吐き出した感情をぶつける相手もまた自分しかいないのだ。
俺は私物を手提げカバンの中に入れて帰り自宅を済ませると、勤怠打刻用のパソコンで1番退勤時間が遅かった同僚の名前を確認し、最終退出者を記録するためのリストにその名前を書いて、オフィスの明かりを全て消した。
エレベーターホールの明かりも消え、窓の外の新宿の街の明かりが強く感じられる。夜景にロマンチックさを感じる心は無くなった。代わりに感じられるのは孤独感と閉塞感だ。
いっそのこと仕事も何もかも捨てて逃げ出し、どこか誰も自分の事を知らない場所でやり直したい。しかし、ただでさえ色んなお金を請求されそうなのに、どうやってそれで生きていくのか。クレジットカードの請求は?家賃の支払いは?会社は急に音信不通になったらどんな手続きをとるのか?業務の引き継ぎは?社会の中で自分は居場所を作り過ぎた。
結局のところ、俺は明日も明後日もここに来るしかない。
そんなことを考えると、エレベーターが到着した事を示すランプが点った。俺は何度も反復して読んだ、異世界に行くための手順を無意識のうちに思い返していた。




