#15. Requiem(彼に永遠の安らぎを与え給え)
「なに?」
極小の悪魔が不愉快そうに顔を歪める。
「はっ、悪魔さんよ。こうは思わなかったのか? 夜になるのを待っていたのは、あんただけじゃない。あんたは時間稼ぎに成功したつもりだろうけど、それは違うな。……時間を稼いでいたのは、こっちなんだぜ?」
ジンタ君の浮かべる余裕の笑みが。
悪魔を、更に苛立たせていく。
「ふん、馬鹿め! そんなハッタリが通じるわけがあるまい。吾輩の影を操る能力をもってすれば、悪魔卿すら凌駕すると―」
「そっか。だったら、ここからは力比べだな。捻じり潰されても恨むなよ」
ジンタはそう言って。
彼が握る小さな手を、優しく握り返した。その目は優しさと信頼に満ちていた。
「さぁ、アンジェ。見せてやろうぜ。格の違いってヤツを」
「で、でも、もし上手くいかなかったら」
「大丈夫さ、なんとかなる。今までだって、そうだっただろう。何があっても、俺がお前をこちら側に引き留める。だから―」
少年は少女に向かって。
気の抜けた無邪気な笑みを浮かべた。すでに、もう。勝敗など決まっているかのように。
「だから、お前の能力を全力で解放してやれ」
「……うん、わかった」
アンジェちゃんが微笑む。
目を閉じて、にっこりと笑う。
……月が出ていた。
暗闇の街を照らすように、輝かしいほどの月光が。夜天に君臨している。月明かりに照らされている彼女は、やはり天使と呼ぶにふさわしく。可憐で、優雅で、純真に溢れていた。
そして、彼女が目を開けた瞬間。
その瞳が、真っ赤な血のように赤く染まっていた。
それはまるで。見る者を恐怖させる、……悪魔のようだった。
「なっ!?」
空気が変わっていた。
背筋が凍り付くような存在感。声を出すことも、呼吸をすること、おぼつかなくなっていく。足元から込み上げてくる恐怖が、心臓をつかまれるような悪寒が。……今、私が。誰を恐れているのか。それを知るのが怖かった。
声を零したのは、私だった。
藍色の夜空に浮かんでいた美しい月が。
いくつもの輝く星々が、誉れ讃えるように輝いていた月が。全てを食らうかのような闇に包まれている。夜空の月が黒く染まっていた。
「……夜天の星々。人の子よ、悪魔の子よ。わたしの名を呼ぶがいい。絶望を与えよう。恐怖を与えよう。後悔を授けよう。苦痛を授けよう。……生あることを懺悔しろ。わたしは全ての生きるものを恨むものなり」
アンジェちゃんの声が聞こえる。
まるで別人のような冷たい声だ。
周囲が、重い空気に包まれていく。いや、この広場だけじゃない。この住宅街が、この首都が。何か強大なものに包まれていく。
息が苦しい。
見えない何かで首を絞められtいるような感覚だ。空気を吸っているはずなのに、呼吸はどんどん荒くなっていく。
気がつけば、嫌な思い出ばっかり込み上げていた。
スパイとして辛い任務をしていた記憶。幼少代の貧しかった思い出。だけど、それだけじゃない。自分の知らないはずの記憶も混ざっていく。
見知らぬ両親に床下の部屋に閉じ込められて。食べるものもなく泣いている。これは、彼女自身の記憶か? 自分の知らなかった彼女の想い。辛い、哀しい、誰か助けて。そんな想いが、私の傷だらけの魂に刷り込まれていく。同調していく。ひとつになろうとしていく―
「ナタリア師匠、こっちに!」
唐突に、少年の声がした。
そちらに顔を向けると、ジンタ君が手を伸ばしていた。彼の傍にいる少女は、瞬きもせず夜天を見上げている。真っ赤な瞳が、無感情に見開かれていた。
「っ!?」
私は何も考えることもできず、救いを求めるようにジンタ君の手を取った。
そして、それと同時に。
頭の中の靄が消えたように、周囲の視界が鮮明となっていく。
「……アンジェの能力の根源は、『否定と拒絶』なんだ。人間たちの悪意を、無意識に引き寄せてしまう。そんな体質が、アンジェを不幸にしているんだ」
広場にいた無数の悪魔の影たち。
そして、その本体である極小の悪魔が。……苦しみながら、見えない力に押し潰されそうになっていた。
「ニバババッ!? こ、この力が、悪魔卿さえも従わせる王の根源! 人間たちを糧にして存在する。我らが悪魔の、『厄災の女王』―」
ごふっ、と悪魔が塵のような血を吐く。
野良猫たちが逃げていくなかで、その悪魔だけが独りだった。そして、何の慈悲もなく―
「……わたしは、この世界の全てを恨む。この世界の全てを憎んで、この世界の全てを拒絶する。……去ね、『Requiem』」
少女が呟き。
この広場にいた悪魔たちは、プチッと音を立てて潰れた。
……夜空に、月が浮かんでいる。
静かな住宅街に、心地よい夜風が吹いていた。
真っ白な月が、疲れ果てて眠る少女を照らしている。
そして、そんな彼女を守るように。
少年は、膝の上で眠っている彼女の髪を優しく撫でていた。
私は少し離れた場所から。その光景を、頭をかきながら見ることしかできなかった―