♯1. Tea cup Broken(割れてしまったティーカップ)
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ぱきんっ。
割れたティーカップが転がっていって、私の顔は真っ青になっていた。
平日の昼下がり。
今日は午前授業だったということもあって、午後からは自由な時間だった。……はずだった。それが時計塔に顔を出した途端、アーサー会長の笑みと共に、私の優雅な予定など儚くも崩れ去ってしまった。
首都のノイシュタン学院の敷地にある、レンガ造りの時計塔。その二階にある執務室が、この街に蔓延る『悪魔』たちから市民や生徒を守っている組織。『No.』の活動拠点である。
内装は、お洒落なカフェのような空間だった。
学校の教室くらいの大きさの部屋に、両脇には天井にまで届くほどの本棚が並べられている。天井付近には背が届かないため、専用の脚立が常備されているほど。メンバーのひとりであるカゲトラは、その脚立の上で胡坐をかいて本を読んでいる。この前は、世界地図だった。
部屋の扉を開けて正面にあるのが、アーサー会長の使っている執務机。いつも何かしらの書類が山積みになっていて、すっきりしているところを見たことがない。その背中には、大きな窓ガラスがはめ込まれていて、この首都の景色を一望できる。
その執務机の正面にあるのが、楕円形のガラステーブルだ。そのテーブルを挟むように、ゆったりと高級なソファーが並んでいる。私の定位置は、右のソファーの手前側。……とはいっても、メンバーのほとんどが規律なんて守らない問題児ばかりなので、好き勝手に座ることも多い。来客時には応接間としても使われる。
調度品もお洒落なものが多かったりする。
いつも落ち着いたJAZZのレコードが流れていて、食器棚のついたウッドチェストには、電気ヒーターとポットまである。紅茶やコーヒー豆は、アーサー会長の護衛である黒服兄弟が買いに行ってくれるので、品切れになることはない。
そんなお洒落空間を押し込めた執務室で、私は。
……この部屋の掃除を命じられていた。
「やぁ、ナタリアさん。こんにちは。いい昼下がりだね。さっそくで悪いんだけど、僕の名義を勝手に使ってお金を借りようとしていたみたいだね? どういうことか説明してくれるかな?」
きらきらと、黒い星を輝かせながら。
時計塔の執務室に入ってきた私に、アーサー会長は言い放った。
この腹黒王子(本当に王子様かは知らないけど)は、ものすごい威圧的な笑みを浮かべている。……おかしいな。怪しい書類の連帯保証人のところに、アーサー会長の名前を書いただけなんだけど。
そんなこんなで罰として、この執務室の掃除を命じられたのだ。
ご丁寧にも、どこに仕舞っていたのか。メイド服まで持ち出してきて、灰かぶり姫よろしく独りでせっせと掃除を始める。途中、執務室に入ってきたミーシャ先輩やカゲトラと目が合うが、何事もなかったように通り過ぎていった。こういう時、ツッコミさえないのが一番キツイ。
「まったく、なんで私が」
ぶつぶつ呟きながら、本棚の埃を払っていく。
長い紺色のスカートに白いエプロンドレス姿は、思いのほか動きにくい。こんな古典的なメイド服、誰が持っていたんだ。
などと考えながら、今度は背の低い食器棚へと手を伸ばす。
メンバーのティーカップが仕舞ってあるガラス棚で、その上には先ほど淹れたばかりの紅茶がポットに入っている。……あー、早く終わらせて、まったりとしたい。そんな雑念もあってから、掃除を進める手が少しずつ大雑把になっていく。
まさに、その時だった。
ガラス棚の奥にあるティーカップを見つけた。同じ模様がセットになってる、ペアのティーカップだ。そのひとつを手に取った瞬間。
……ぽろり、と取っ手が取れてしまった。
カンッと小粋な音を立てて足元に転がるティーカップ。慌てて確認すると、飲み口の部分がわずかに欠けてしまっていた。
「(……や、やばい)」
さぁ、と私の顔から血の気が引いていく。
掃除中にティーカップを壊したこともそうだけど、この場合。本当に深刻なことは、もっと別なところにあった。
それは、……そのティーカップの価値。
ロイヤル・コペンハーゲン。
ブランド物にあまり興味のない私でも見たことのある超高級な食器メーカーだ。陶器のように美しい白に、青い花の絵柄がそっと添えられている。値段は、安いものでも目が飛び出るほど高い。私が使っているマグカップの300倍の値段だといえば伝わるだろうか。
……てか、そんな高価なティーカップを学校に持ってくるんじゃない! くそぅ、最近の私はどうにも金運に恵まれていない。誰のものだか知らないけど、こんなことでタダ働きをしてまで弁償したくない。
「(……落ち着け。最善の解決策を導き出すんだ)」
私は、普段眠らせている脳の一番奥の細胞まで呼び起こして、目の前の問題に取り掛かる。
瞳孔を開いて、意識を極限にまで集中させる。一瞬が永遠に感じるほどの体感時間の中、私は数百通りのシチュエーションをイメージする。そして、体感時間にて数時間ほどの熟考を重ねた結果(実際には、数分程度)、私は最高の答えを導き出すことに成功した。
「(……そうだ、こうすればよかったんだ)」
にやり、と私は誰にも見えないようにほくそ笑む。
そして、自分の学生鞄から液体のりを取り出す。
誰にも見つからないように素早い動作でティーカップと取っ手の部分に液体のりをつけると、接着できるまで軽く息を吹きかけて待つ。
「(……ふふふ、これでよし)」
私は笑うのを必死に堪えながら、食器棚のガラス戸を閉める。
「(……割れたティーカップを隠したところで、いつかは誰かに見つかってしまう。修理しても同じだ。あれが誰のティーカップなのか知らないけど、持ち主が手に取れば一瞬で気づかれてしまうだろう)」
ならば、どうするか。
答えは簡単だ。
……私以外の人間が、犯人になればいいんだ。
液体のりの接着強度は、とても弱い。
だからこそ使える。
これを誰かが持てば、ものの数秒で外れてしまうだろう。そうなれば、何を言おうとも、そいつが割ったことには変わりない。……ぐふふ、この機転。自分でも怖くなってしまうなぁ。
「(……さて、哀れな子羊を選ぶとしますか)」
私は、執務室にいるメンバーを見渡している。
執務机を書類と向き合っている、アーサー会長。
ソファーでくつろぎながら雑誌を読んでいる、ミーシャ先輩。
そして、本棚を見上げているカゲトラ。火傷の痕が残っている顔で、本棚の背表紙をじっと見渡している。そういえば、私が初めて助けてもらったのも、この男だったな。悪魔に襲われていたところを救ってくれた、まさに命の恩人だ。
「(……まぁ、そんなこと関係ないんだけどねぇ)」
迷いなど微塵もなかった。
私は、とびっきりの笑顔を浮かべて、カゲトラの名前を呼ぶのだった―