#11. The only sure thing about luck is that it will change.
「あら。彼が反撃に出るみたいですよ」
「え?」
慌てて、リングのほうを見上げてると。
悪魔の一撃を躱しながら、何かを狙っている目をしたカゲトラが見えた。そして、彼の両足が地面についた、その瞬間。
「……スレッジハンマー流喧嘩術・第七曲。『Highway-Star (ハイウェイスター)』ッ!」
カゲトラの姿が消えて、悪魔の懐へと潜り込み。
音さえ置き去りにする速度の一撃を、下から上に目掛けて放っていた。
ドゴンッ、と重く鈍い音が闘技場に響き、悪魔の巨体がわずかに浮き上げる。
「やった!」
「いや、浅いですわ」
私の歓声を遮るように、お姉さんが冷静な口調で言った。
そして、その通り。カゲトラの一撃は悪魔を倒すに至らず、自分の足元にいる彼を薙ぎ払った。
「ちっ、まだ足りねぇか!」
リング上に弾き飛ばされながらも、戦闘の姿勢だけは崩さず。両手と両足を使って、獣のように態勢を立て直す。
だが、悪魔も深手のようで。
カゲトラが放った一撃を庇うように、片手を上げて低い声で唸っている。浅かったとはいえ、あの喧嘩馬鹿の一撃を食らったんだ。無傷なわけがない。
「よぉし、カゲトラ! このままやっちゃえ!」
もはや、観客のひとりになったように、手を握ってカゲトラを応援する。
だが、そんな私の視界に。
ひとりの人影が入ってきた。
黒のスーツ姿に黒のジャケットを肩にかけた、隣の席に座っていたお姉さん。彼女は長いピンクの髪を縛り直すと、悠然とカゲトラたちが戦っているリングへと向かっていく。
「残念だけど、時間切れですよ。このままだと、怪我人がでるかもしれないですから。……少年、こちらに降りなさい」
「あん? 何言ってんだ、この女は?」
戦いに水を差されて、キレそうになっているカゲトラ。
お姉さんはリングに上がると、そんな彼に向かって優しく微笑んだ。
そして。
彼の襟首を掴むと、私に向かって放り投げたのだ。
「なっ!? ちょっ―」
ドカンッ、グシャン!
私はカゲトラの体を受け止めることができず、周囲のテーブルやイスを巻き込んで押しつぶされてしまう。
そんな私を見て、ピンクの髪のお姉さんは。
にこり、と親指を立てて笑った。
「選手交代ですよ。ナタリア・ヴィントレスさん。その少年が邪魔しないように、しっかりと見張っておいてね」
「はぁ!? 何を言っているんですか!?」
「大丈夫です。あたし、その少年よりは強いですから」
……は?
……何を言っているんですか、このお姉さんは?
先ほどの戦いを見ていなかったのか。悪魔の目にも留まらない剛腕を、カゲトラは驚異の身体能力でギリギリ回避していたというのに。あんな、のほほんとしたお姉さんが戦えるなんて。
「(……でも、あのお姉さん。カゲトラの動きを読み切っていたし、悪魔についても知っているみたいだったけど)」
何者なのだろうか? そんな疑問を向ける前に、お姉さんは肩にかけている黒のジャケットから、先ほどは吸えなかった煙草を取り出す。市販されているのを見たことがない、とても細長い煙草だった。
「あー、やっぱり。戦いには煙草が必要ですよね」
火のついていない煙草をくわえて、しんみりと呟いている。
そんな彼女に、悪魔が迫りくる。
カゲトラの一撃から立ち直ったのか、右の拳を握りしめて、思いっきり殴りつけた。
そして、それと同時に。
彼女に触れた悪魔の右腕が。
……真っ赤な炭のようになって燃え尽きていた。
「え?」
何が起きたというのか。
お姉さんの足元には、ぶすぶすと残り火で燃えている右腕が転がっているだけ。困惑しているのは、悪魔も同じだった。転がっている自分の腕を見て、そして肘から先がなくなっている腕を見て。奇声のような怒りの声を上げた。
ヌオオオオオオオォォッ!!
どしどしと巨体を震わせて、お姉さんに迫っていく。
だが、お姉さんは煙草を咥えたまま何もしていない。そのまま、お姉さんを叩き潰そうと、悪魔が左手を振りかぶって―
ッッ!?
突然、悪魔はその場から後ずさりした。
まるで危険を察して、慌てて回避したように。尋常ではない冷や汗が、悪魔の額に浮かんでいた。
「あら、来ないのですか? では、こちらから」
お姉さんが、一歩、踏み出す。
その瞬間。
リング上が炎に包まれた。
いや、あれは。例えるなら、『爆炎』だ。
絶えず小さな爆発が起きていて、周囲のものを燃やし続けてる。天井のスプリンクラ―から、消火用の水が放水される。
だが、お姉さんの周りの炎は消えることなく。唯一、火がついていない煙草を咥えたまま、悠然と近づいていく。
ッ! ッツ!?
後ずさりする悪魔。
だが、炎に囲まれて逃げ場などない。いよいよ追い詰められた悪魔は、残っている左腕を振り上げて。お姉さんへと叩きつけた、……はずだった。
「……はぁ。バカンスから急いで帰ってきたのは、こんな雑魚を相手にするためじゃないのですけど。折角、女子社員だけの社員旅行だっていうのに」
その悪魔の一撃を、お姉さんは軽く受け止めていた。
いや、正確には。お姉さんが触れた場所から、燃えカスのような炭化が始まっていて、今にも悪魔の腕が崩れ落ちそうになっていた。
悪魔も、察する。
これは、戦ってはいけない相手であったことを。
「……深紅の爆炎よ。燃え盛る炎よ。戦場を塵と変えて、死体を灰へと誘わん。今、ここに。全てを焼き尽くす地獄の業火を」
お姉さんの足元に、淡い輝きが灯った。
そこに展開されるのは、円形の幾何学模様。詠唱と共に出現した魔法陣は、まさに。悪魔を灰燼へと帰さんがための魔法だった。
その刹那。
お姉さんの加えている煙草に、初めて火がついた。
ッッツ!!
悪魔が恐れ慄く。
だが、もう何もかも遅かった。
「……爆ぜろ。『爆炎魔法』」
お姉さんが魔法を行使した、その直後。
炎に包まれているリングが、爆炎に包まれていった。その地獄の業火とも呼べる炎は、リングの中だけに留まり、天井にまで過剰な火力を放出させていった。
そして、最後に残ったのは。
天井の染みとなった、悪魔の姿だけであった……
※脚注
・The only sure thing about luck is that it will change.(確かなものが、ひとつだけある。運とは、常に変化し続けるものなのさ)