♯7. Gambling is the child of avarice, the brother of iniquity, and the father of mischief.
「のう、嬢ちゃん。あっちを見てみぃや」
「ん?」
履き慣れていない黒タイツを、みょんみょんと指で摘まんでいた時。極道マフィアの幹部であるゲンブが、自慢げに指をさした。
「あれが、この地下闘技場のチャンピオン。その名も『疾風のゲイル』。元々は、表世界のプロボクサーとして名が通っておったが、ちょいとした事件でプロライセンスを失ってのぉ。いろいろあって、この裏舞台で返り咲きよった。連戦連勝。無敗のチャンピオンじゃ」
「へー」
そこにいたのは、上半身が裸のナイスガイだった。
周囲に美女たちを侍らせて、爽やかな笑みを浮かべている。相当に鍛えているのか、その体は骨格標本のようにムキムキで、無駄な脂肪などいっさいない。
「ここに来る客は、あいつの勝利を期待しておるんじゃ。あの腰に巻かれたチャンピオンベルト。それを狙ってくる猛者たちを次々と華麗に倒していく。あいつはな、この闘技場のヒーローなんじゃあ」
「ふーん。でも、なんでプロを辞めちゃったの?」
「なんじゃ、嬢ちゃんの世代は知らんのか。それはのぉ―」
ゲンブが顎に手を当てて説明しようとするが、その声は観客たちの歓声によって遮られてしまう。
「うわっ、凄い歓声ね」
「おー。ちょうどいい。ゲイルの奴がリングに上がるみたいじゃの」
見てみると、地下闘技場のチャンピオンは声援に手を振りながら、金網に囲まれたリングへと向かっていく。そして、レフェリーと言葉を交わして、挑戦者の前へと立った。
「いいか、よく見とけぇ。あれこそが本物というやつじゃ」
そう語るゲンブは、なぜかドヤ顔だった。
チャンピオンのゲイルは拳を構えて、ファイティングポーズを取ると。ふふん、と余裕の笑みを浮かべる。
「ええか、嬢ちゃん。ここは地下闘技場。表舞台じゃ禁止されている反則行為も、ここでなら許される。強さだけが、絶対の世界じゃけぇ」
「というと?」
「つまり、じゃ―」
突然、歓声が沸き上がる。
驚いてリングのほうを振り返ると、そこいたのは人間技とは思えない速度でステップを踏んで、複数に分身しているチャンピオンの姿だった。
……竜巻のような風が、その体を包み込んでいた。
「つまり、『魔法』や『能力』の使用も認められておる。表舞台のボクシングでは、魔法を使ったら即失格になるからのぉ。これで、どんな相手でも勝つことができる」
「ズルじゃん、そんなの!」
「ちなみに、ゲイルがプロライセンスを失ったのも。公式戦で負けそうになった時に、つい魔法を使ってしまい。相手をボコボコにしてしまったからで―」
「最低かよ!」
「まぁ、それでも首の皮一枚は繋がっておったんじゃけど。その夜に酒に酔って、客と殴り合いになっちまってな。それでライセンスは失効。行き場をなくしていたアイツを、ウチがスカウトしてきたんじゃ」
「結局、酒じゃんか!?」
涙ぐましい転落劇か思いきや、全て自業自得であったことに肩を落とす。だが、当のチャンピオン本人は後ろめたいものなど何もないように、軽快すぎるステップで挑戦者を煽っていく。
―先に言っておくぜ! 俺は、疾風のゲイル。この地下闘技場では負けなしの王者だ。あんたがどこの馬の骨だが知らねーが、目が覚めたら病院のベッドでも恨むなよ!
チャンピオンのゲイルは挑戦者に指を立てて、同時に観客たちも煽っていく。
わーっ、という客たちの歓声。
もはや勝った気分になっているチャンピオンは、その場で両手を上げて観客に応える。それに対して挑戦者は黙ったままだった。ズボンのポケットに両手を突っ込んでは、無駄な虚勢など張らず、静かに立っている。
……あれ?
……あの挑戦者の男、どこかで見たような。
始めっ!
カーン、とリングのゴングが鳴る。
それと同時に、チャンピオンが前に出た。疾風のようなステップで相手を翻弄しながら、とんでもない勢いで挑戦者に迫る。
「ふん、ゲイルの奴。一気に勝負を決めにきよったわ。あれは、奴の得意技のデンプシーロールじゃ。超高速の左右移動から繰り出されるパンチに、まるで何人から同時に攻められてると勘違いしてしまうほどじゃ」
にやり、とゲンブが上機嫌で解説する。
だが、確かに。ここから見ても、何人にも分身して見えるチャンピオンの攻撃は防ぎようのない襲撃だった。
―へへっ、まずは初戦だ。10秒で決着をつけてやるぜ!
チャンピオンが高らかに宣言して、さらに挑戦者との間合いを詰める。そして、それまでのジャブではなく。体全体の体重を乗せて、強烈なパンチを放とうとする。
「ふっ、決まったの。嬢ちゃん、よく見ておきぃ。あれこそが世界の頂点にまで登り詰めた右ストレートじゃあ。挑戦者たちをことごとく倒してきて、観客たちを魅了してやまない。王者のパンチ」
ゲンブが解説している脇で、私はチャンピオンの姿を目に捕らえる。
もはや、視認することすらできないほどの右ストレートが、それまで防戦していた挑戦者へと放たれた。
―Bye bye. Baby! 目が覚めたら、そこは見知らぬ天井だ。
チャンピオンの右ストレートが挑戦者に襲い掛かる。
その直前―
「……スレッジハンマー式・喧嘩術、第3曲目。『Roll Over Beethoven(ベートーベンをぶっ飛ばせ)』」
何かが、地下闘技場の天井へと飛び上がっていた。
いや、殴り飛ばされていた。
観客たちの歓声が止まる。レフェリーが息をのむ。隣に座っていたゲンブが驚愕に目を飛び出している。
そして、数秒間という。
長い滞空時間を経て。
その人のカタチをした何がが、リングに沈んでいった。
そこにいたのは、にやけ顔のまま意識を失っている、チャンピオンのゲイルの姿だった。殴り飛ばされたことさえ気がついていないのか、パンチを放ったままの恰好でリングに転がっている。
唖然、と静まり返る地下闘技場。
予想もしていなかった展開に、誰もがどうしていいのかわからず固まっていた。
そんな中で、金網のリングにいる挑戦者は。やってしまった、という顔で頭をかいていた。
「悪ぃ、もうちょっと待っていようかと思ったんだが。……5秒しか我慢できなかったぜ」
顔に火傷のある男。
私の仲間であり、時計塔の『No.』である、カゲトラ・ウォーナックルが。申し訳なさそうに、こちらを振り返っていた。
……それは、わずか5秒の王者陥落であった。
※脚注
・Gambling is the child of avarice, the brother of iniquity, and the father of mischief.(ギャンブルとは。強欲の子であり、悪行の兄であり、イタズラの父でもある)