♯2. A dollar won is twice as sweet as a dollar earned.
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始まりは、ほんの些細な出来事だった。
その日。『時計塔』に相談に来た男子生徒は、親のギャンブルを止めてほしいという依頼をしてきた。話を聞けば、その生徒の父親は真面目に働くサラリーマンで、これまでギャンブルなんかに手を染めたことはなかったらしい。
それが、ある日を境に。
まるでギャンブル中毒になったかのように、毎晩、毎晩、カジノへ足を運ぶようになったという。賭ける金額も、どんどん大きくなり。大負けした時には、家の中で暴れるようになっていった。それを見て、その男子生徒は『時計塔』に相談することにしたという。
「(……ふーん、ギャンブルね。そんなことにハマってしまう馬鹿みたいな人間がいるのかねぇ)」
良識と常識を兼ね備えている私は、ため息を隠すのが大変であった。
そもそも、ギャンブルとは。
統計的には、絶対に勝てないようになっている。
カジノ店の必要経費。……人件費、維持費、設備投資、税金、マフィアへの上納金。それら経営に必要な金額をあらかじめ計算しておいて、客の取集金額と照らし合わせて、客への返金率を割り出している。つまり、全ては店側がルールなのだ。
店側が、絶対に儲かり。
客は、絶対に損をする。
世間のカジノや賭博場が繁盛しているのを見れば一目瞭然だ。そんなわかり切ったカラクリなのに、どうしてこうも人は愚かなのだろう。常々、思うが。私のように理性的な人間には理解できない世界だ。愚かとも言える。
「それで? 君の父親は、いつからギャンブルに手を出すようになったんだい?」
時計塔の執務室では、アーサー会長が親身になって相談に乗っている。
この腹黒会長が、相談に応じているということは。つまり、悪魔が関係しているということだ。……はぁ。また面倒なことにならなければいいけど。
翌日。
その男子生徒の家に訪れた私たちは、彼の父親がすでにカジノへと向かったことを知る。まだ夕方だというのに、煌びやかなネオンが乱反射して、とても目が痛い。カジノ店の玄関には、屈強な警備員が立っているし、出入りする客も正装した紳士や貴婦人ばかりだ。
そんな高級カジノに。
私服のままの私たちは、それなりに浮いていた。
案の上、カジノに入ろうとしたところで警備員に捕まり。未成年の入店はできないと無表情のまま断られた。
当然と言えば、当然だ。
だが、その当然さえ捻じ曲げてしまうのが、このアーサー会長だ。会長は警備員に何かを伝えると、後ろからついてきている私たちを指さす。いや、カゲトラのことを指さす。この無駄にデカくて、顔に火傷のある喧嘩野郎を見て、警備員の顔色が一瞬にして青くなる。
何を言ったのかは、知らないほうがいいだろう。
そのまま警備員は、無線でどこかと連絡を取ると。最上級の礼節のまま、私たちをカジノの中へと案内した。
「ねぇ、カゲトラ。あんた、ここで何かしたの?」
「……さぁな」
ぶっきらぼうに答える。
その様子は、もはや『YES』と言っているようなもの。私は何となく、この喧嘩野郎から距離を取って、アーサー会長の後をついていく。
男子生徒の父親は、すぐに見つかった。
明らかに負けこんでいるのに、手持ちのチップを惜しげもなく注ぎ込んでいく。傍目から見たら、明らかなギャンブル中毒者だ。カードを配るディーラーも、「そろそろ帰ってくれないか」いう顔をしていた。あまりにもギャンブルに狂っているので、周りの客が怖がっていた。
「さて。どうだい、ミーシャ?」
アーサー会長が、ミーシャ先輩に声をかける。
私服姿でも、全然この場で浮いていない黒髪美女の先輩は。わずかに頷いて、その男の背後へと近づいていく。
そして、その肩に手を載せて。
背後に取りついていた『悪魔』を、魔法で握りつぶした。
ギエェッ、と小さな悲鳴が響いて、周囲の客が驚いて顔を見合わす。だが、そんなこと気にも留めていないミーシャ先輩は、汚いものを払うように手を振った。
黒い煤となって、悪魔は消えていく。
その直後。男子生徒の父親は急に表情が変わり、穏やかな様子となって周囲を見渡す。そして、何度も首を傾げながら「どうして僕はここにいるんですか?」とディーラーに尋ねる始末だった。
そこからの顛末は、実に単純なものだった。
アーサー会長に案内されて、カジノの片隅で簡単に説明する。悪魔のことをぼやかしながら、自分がギャンブルにのめり込んでいたことを話す。そして、ショックでうなだれている父親に「ギャンブルで損失した金額は、こちらが融資します。余裕ができたら返してください」とアーサー会長が優しく声をかけていた。
確かに。こんなギャンブルなんかにハマるなんて、それこそ悪魔に憑かれでもしない限り考えられない。
だが、私は常識人で。
良識のもった人間なのだ。
間違っても、ギャンブルに手を染めたりはしない。
「ありがとうございます。私は家に帰って、家族に謝ろうと思います」
絶対に、ギャンブルに溺れるなんてことはあり得ない。
私の自制心は、それこそ鉄のように固いのだ。コインが鳴る音に、そわそわと指を絡めるわけもない。
「この残ったチップですが、どうぞ、皆さんで好きに使ってください。人生経験だと思って」
何があっても、欲望になんて負けない。
ちらちら、とスロットやルーレット、ディーラーの配るカードに目が行ってしまうけど、全然、興味なんてないんだから。
「あっ、でも。僕のようにならないでくださいね。ギャンブルは人をダメにしますから」
何を馬鹿なことを。
私は、東側陣営に所属する凄腕のスパイなんだぞ。こんな誘惑に負けるわけがないじゃないか。はっはっは!
……。
………。
…………まぁ、でも。
せっかくの好意を無下にするのも申し訳ない。それに彼も言っていたじゃないか。人生経験だって。タダで得たコインを使っても、こちらが失うものはない。ならば、この状況を最大限に楽しむのも一興ではないだろうか。
幸い、アーサー会長も、ミーシャ先輩も。そして、カゲトラも。まるで興味がなさそうだし。だったら、受付に返すフリをして、私が遊んでしまっても構わないだろう。うん、それが正しい選択肢だ。
「それじゃ、この余ったチップは。私が責任をもって受付に返してきますね。……あ、先輩たちは先に帰ってもいいですよ。この後、私は用事があるので」
そして、私は。
先輩たちの背中を見送って、タダで手にしたチップを握りしめて。コインに換金した後に、スロットマシーンに飛び乗った。
「きひひっ、稼いでやるぞぉ!」
私は嬉々として、スロットマシーンにコインを投入していく。
そのわずか、一時間後には。タダでもらったチップをすり減らして、悔しくて自分の財布からチップを購入して、スロット台が悪いと何度も席を変えて、負けた分を取り戻そうと躍起になって、最後の最後には違法レートすれすれの大博打に賭けて。私の手元に残ったのは、とんでもない金額の借金だけだった。
「お客様、申し訳ありませんが。奥の部屋へと来ていただけませんか?」
そのまま、私は。
怖いお兄さんたちに両脇を担がれる形で、奥の部屋に連れていかれたのだった。
……いやー、ほんと。
……ギャンブルって、怖いっすわ。
・A dollar won is twice as sweet as a dollar earned.(ギャンブルで勝った金はな、普通に稼いだ金よりも甘美なものなんだよ)