#11. Ave Maria(断罪聖典、アヴェ・マリア)
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人間は、嘘をつく生き物だ。
それ自体が悪いわけではない。誰かを貶める嘘もあれば、誰かを守るための嘘もある。どちらも方便だ。ただの言葉でしかない。違うのは、そう―
「そこに悪意があるのか、それともないのか」
私を本当の家族から引き離して、公園に捨てていった人間も。いつか迎えに来ると言い残したまま、二度と姿を見せることはなかった。
そこに恨みはない。
あるのは、信じるべき人間と、信じてはいけない人間がいるという事実。それを学んだという教訓。
私は、人間を信じない。
人は嘘をつく。人は悪意を振りかざす。どんな人間であっても、その奥底にあるのはドス黒い腐った本音だけだ。……ほんの一年前までは、そんなことを本気で思っていた。今は『自分が信じたい人間がいる』という事実を胸に、私はここに立っている。
……仲間のために、ここに立っている。
「それで? 最後のお別れは済んだのかしら、サンメール伯?」
私は、彫刻の間の扉を開きながら、そこにいるであろう人物に声をかける。
初老の男。
サンメールの街を治めてきたご領主様。サンメール伯爵が、少しだけ哀しそうな顔をしていた。
「……おやおや。貴女は私の天使だと思っていましたが、まさか破滅をもたらす悪魔だったとは。私との楽しい語らいは、全て偽りだったのですかな?」
「あら、残念ね。本当の悪魔を相手にしているとね、人間を欺くのが上手くなるのよ」
そんな冗談を交わしつつ、私はその部屋の匂いを嗅ぐ。
部屋中に備えられた花たち。その甘い香りの中に、ほんの微かに。何かが腐っている匂いがした。
「……腐敗臭ね。それを隠すために、こんな花を用意しているわけ?」
「えぇ、そうですな。匂いだけは、どうしても完全になくなりませんから」
そう告げる、サンメール伯の表情は。
感情が抜け落ちたように、目の焦点が合っていない。
この部屋に飾られている少女の彫像たち。その数、六体。土台だけ用意されているものあり、これからも増やすつもりのようであった。
「さっき、あなたが言った言葉を思いだしたわ。古代ギリシアの神話にあるように、彫像に魂は宿るのか、と。あれは私に向けた言葉ではなく、……『彼女たち』に向けた言葉だったのね」
そして、私は。
この部屋に飾られた彫像たちを見渡す。
もの言わぬ人形。
美しい姿と、生き生きした姿のまま、動くことを許されない石像を。
「この彫像の中に入っているのは、……人間の死体ね」
私の告げた真実に、彼は静かに答える。
「死体とは、いささか心外ですな。魂の原型、と私は呼んでいます」
そんな言い回しをするサンメール伯は、どこか笑うような顔になる。狂っている歪な笑みだった。
「エバーリング、という特殊な技術がありましてね。死体から血液を抜いて、代わりに防腐剤などを血管に送り込むことで、人間の遺体を腐りにくくさせるのですよ。死後硬直する前に、神様に祈りをする姿勢で固定して、清潔な布地で包んでいく。それを石膏のプールに落とし込んで、完全に固まったところで。ゆっくりと美しい石像を彫っていくのです」
「そんな説明なんて求めてない。あんた、自分の趣味のために、どれだけの人間を殺してきたの?」
「さぁ。数えたことはありませんなぁ。私にとって大切なのは、この彫像たちに魂を込める。それだけですから」
ふふふ、と初老の男は笑いだす。
「素晴らしいとは思いませんか? 絵画でも、写真でも、精緻な彫像さえも越えた芸術が、今ここにあるのです。本物の魂がこもった作品を! あなたなら、きっとわかってくれるでしょう。この素晴らしい芸術を―」
サンメール伯が話し終える前に、私は口を開いていた。
もう、我慢の限界だった。
「黙れ、ゲス野郎。お前のしたことは大量殺人だ。三年前、この街から引っ越したブイン一家。彼らが引っ越した先で、本物の彼らを見たものはいない。書類も、引っ越し業者も、偽物の家族も。全部でっち上げだ! 本当は、お前が家族全員を殺すように指示を出して、その娘だけ自分の人形遊びのために、この彫像に押し込めたんだ!」
「ほほう。では、どうするつもりですかな? この私を告発でもする気ですか。無駄だと思いますよ」
サンメールは感情の抜け落ちた笑みを浮かべながら、懐に手を入れる。
そこから拳銃を取り出すと、私へと銃口を向ける。
「私はね。戦前から、この土地を治めてきた。中央政府にも、司法局にも知り合いは多い。誰であっても、私を裁くことはできないのですよ」
彫像に囲まれてた初老と男は、勝利宣言のように高らかに言う。
「そして、私が哀しいのは。あなたの魂を彫像にすることができないことです。エバーリングには手間と準備が掛かりますから。ここで死んでしまうあなたのことを、保存することができないのですよ」
「ふん、そんなの。こちらからお断りだっての!」
私は指先に意識を集中させて、地面へと手を向ける。
サンメール伯。
お前は人間としての境界を越えてしまった。怪物となったお前には、人間の法の裁きは甘すぎる!
「(……やっぱり、ナタリアちゃんを連れてこなくて正解だったかな。こんな人間を相手にするのは、私みたいな人間だけで十分だ)」
足元が淡い輝きを放ち。
円形の幾何学模様を描いていく。
……魔法陣。
魔法を行使する際に展開される、魔力の残滓の模様。以前の貴族学校でも、人に向けて魔法を使ってはいけない、と授業で習ったが。そんなの関係ないね。
なんたって、今。目の前にいるのは。
人の枠を越えた『人間の悪魔』なのだから。
「巡る円環よ。繰り返される人の営みよ。今、ここに正しき裁きを―」
私が何かしようするのがわかったのか、サンメール伯の表情がわずかに険しくなる。
慌てて、その皺だらけの手で、銃を握り直して。
引き金に指をかける。
だが、遅い。
裁きの法廷は、もう開廷している。
「神よ、彼に地獄の安らぎを与え給え。……『断罪聖典』。第13節、魔女裁判(Ave Maria)!』」
眩しいほどの輝きが、この部屋に満ちていき。
私の背中に、天使の羽が広げられていた。