♯2. Malice Town(サンメールの街へ…)
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私は窓の外を流れていく風景から目を離して、両手で開いている観光ガイドブックを見る。
せっかくの旅行なのだ。
楽しまなければ損というもの。駅のホームで、観光案内のガイドブックと軽食のランチボックスをふたつ買った。もちろん、後で経費として請求するつもりである。いやー、自分の財布が痛くないというのは実に気分がいい。
「ミーシャ先輩は、このサンメールの街に行ったことがあるんですか?」
「いや、ないわね。自然の溢れる田舎の田園地方とくらいとしか」
「このガイドブックによると。伝統的な織物や、自然の中で育てられた豚肉料理が美味しい、って書いてありますね」
「そ」
ミーシャ先輩は、さほど興味もなさそうに答えると。
そのまま列車からの風景を見ていた。
仕方なく、私もガイドブックに目を落としながら、今回の件について考える。
引っ越してきた家族が、その日のうちに姿を消してしまう。そんなことがあり得るのだろうか?
答えは、……『YES』だ。
東側陣営のスパイとして活動してきたときには、よく目にした事例だ。ある日、突然。複数の人間が行方をくらましてしまう。その内容は、いたって単純。……夜逃げだ。
自分の正体がバレそうになった諜報員だけでなく、金銭トラブルなどで近所の人が姿を消してしまうなんてことは、もはや稀によくあると言ってもよい。ちなみに、私も機会があれば西側諸国に亡命したいと願っているので、その気持ちもわからなくはない。その時は、アーサー会長やミーシャ先輩を頼るとしよう。
……突然、姿を消した親戚からの手紙。
それが夜逃げに関係するものか。それとも、アーサー先輩が言う通り、誘拐や監禁に関係するものか。どちらにせよ、私にはあまり関係のないところだ。
「(……まぁ、現地についてみれば、すぐにわかることかな)」
つまり、私が考えなくてはいけないことは。
サンメールの街を、どうやって優雅に観光をするか。それだけだ。行方不明の家族も、謎の手紙も、私にとってはどうでもいいことだ。そう思うと、この週末旅行も実に気分が良いものになる。
「(……あ、この織物の工芸品は可愛いなぁ。こっちのポーチも雰囲気が良くて安い。あー、どうしよう。お財布、足りるかなぁ)」
にこにこと笑いながら、どの順番で観光地を回るか考えていく。そんな私を見て、ミーシャ先輩は。本当に何でもないことのように言った。
「そういえば、ナタリアちゃん。一泊する準備はしてきた?」
「もちろんです。代えの下着もバッチリ持ってますよ」
「そう。あと、……ちゃんと『ヴァイオリン』も持ってきた?」
「へ?」
私は、マヌケな返事をしながら顔を上げる。
相向かいのコンパートメント席の上にある荷物置き場には、小さな旅行バックと、私のヴァイオリンケースが置いてある。
もちろん、中に入っているのは楽器などではない。
「そりゃ、持ってきてますけど。……え? 必要になるんですか?」
「わからないけど。ただ―」
ミーシャ先輩は視線を外に向けたまま、はっきりと言った。
「観光をしている余裕はないかもよ。たぶん、この事件。……私に向いている結末になると思うから」
「へ? どういうことですか?」
「悪意をもって行動するのは、なにも悪魔だけじゃないってこと」
そう言った、ミーシャ先輩の瞳は。
感情が抜け落ちたように、何もない空間を見つめていた。
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サンメールの街は、首都から北に300キロメートルのところにある。
一度、列車を乗り換えて、地方へと向かうディーゼル列車に乗り込む。線路状態があまり良くないのか、ガタガタと揺れながら二両しかない列車は田園地方を走っていく。
「……おえっ。ミーシャ先輩、ちょっと吐きそうです」
「我慢しなさい。もう少しで着くから」
この先輩は本当に容赦ない。
私はガイドブックを膝に抱えたまま、必死に列車酔いと戦う。
サンメールの街に着いたのは、お昼過ぎだった。朝一番の列車に乗り込んだことを考えれば、半日くらいは移動に費やしたことになる。
「もうちょっと、静かな乗り物はないんですかね?」
「ないわ。この辺りは、第二次世界大戦でも戦火に巻き込まれたから。線路が生きているだけでもマシなほうなのよ」
ミーシャ先輩は、自分の旅行バックを網棚から降ろすと、私のバックも代わりに持ってくれた。
さすがに、あのヴァイオリンケースを持ってもらうわけにはいかないので、吐き気に耐えながら楽器ケースを両手で持つ。……くそ、無駄に重いな。こいつ。
「さて、思っていたよりも田舎ね」
「……そうですね」
小さな駅のホームから降りて、駅の改札口を出る。
そこに広がっているのは、のどかな田舎の景色だった。緑が溢れる田園地方。駅前であっても、小さな喫茶店と食堂があるだけ。綺麗なホテルがあるとガイドブックには書いてあったけど、あまり期待しないほうがいいかも。
「ミーシャ先輩。ちょっと喫茶店で休んでいきませんか?」
「却下。そんなことをしていると日が暮れるわよ」
「うぅ~、ケチぃ」
「そんな可愛い目で睨んでもダメ。ほら、行くわよ」
ミーシャ先輩は、自分と私のバックを背負って、暇そうに昼寝をしているタクシー運転手へと声をかけていく。私はその後を、肩を落として追いかける。
「(……ん?)」
ふと、視線を感じて振り返る。
しかし、誰もいない。
おかしいな。今、確かに誰かに見られていた気がしたんだけど。
「ほらっ、ナタリアちゃん。早く乗らないと置いていくわよ」
「……どうせなら、置いていってもらったほうが良いですけどね」
「あら? 代えの下着もないのに、駅のホームで一泊するわけ? あなたのバックは、私が持っているのよ」
「行きますよ! 行けばいいんでしょ!」
まさか、私のパンツを人質に取るなんて。
そこまで考えて、私の旅行バックを持っていたとは。やっぱり、この先輩。侮れない。
「……ふわぁ。どちらまで?」
今の今まで昼寝をしていたタクシーの運転手が、眠そうな目でこちらを見てくる。あまり客がいないのだろう。他に待機しているタクシーは一台もない。
「このサンメールの街を治めている、サンメール伯の屋敷まで」
「……ご領主様の屋敷まで? なんで、また?」
「ちょっと話が聞きたくて、わざわざ首都から来たのよ。大丈夫、ちゃんと向こうには連絡がいっているはずだから」
むすっ、と不機嫌そうなミーシャ先輩。
そんな彼女の隣に座っているので。私が代わりに呆れたような愛想笑いを浮かべる。すると、彼はなぜか納得したように頷いた。
「……あー、なるほど。お嬢ちゃんたち、首都の美術学校の生徒さんだね」
「美術学校?」
「あぁ。そうさ。ご領主様は立派なお方でね。戦地に巻き込まれたこの街を、見捨てないでここまで導いてくださった。何もない田舎町ですけどね。皆が、こうやって穏やかに生きているのは、ご領主様のおかげなんです」
そう言って、タクシー運転手は前を向いて。
ハンドルを握りながら、車のアクセルを吹かす。
「その領主様のご趣味が、美術品の収集でしてね。お屋敷には、首都にはない美術品がたくさんあるとかで。たまに、その美術品を見たくて訪れる客もいるくらいなんですよ」
「へぇ~」
私は、感心したように答える。
どうやら、この街の領主様とやらは相当な人気者みたいだ。人望もある。時計塔の代表様とは、えらい違いだ。
「それじゃ、出発するよ。……あ、道が悪いから、ちょっと揺れるかもしれないけど。そこは勘弁しておくれ」
「げっ」
私の治まりかけていた吐き気が、再び込み上げてきた―