#3. Bitter Strawberry (苦くて甘いもの)
――◇――◇――◇――◇――◇――◇――
「……痛っ」
どれくらい気を失っていたのだろうか。
辺りは、もう真っ暗だ。
崩壊した喫茶店が瓦礫の山となっていて、キッチンがあった場所からは、まだ火の手が上がっている。
「(……まずい。早く、ここから去らないと)」
スパイは目立つことをしてはいけない。
それに、取引現場となっていた場所で、怪我人として病院に運ばれでもしたら、後が面倒だ。
私は、まるで『自分の体ではない』ような違和感を覚えながら、瓦礫の山から立ち上がる。
自分に繋がる証拠も残せない。近くに落ちていた自分のコートを抱えると、足を引きずるように立ち去る。……おかしいな。私のコートは、こんなにも大きかっただろうか?
誰にも見つからないように、薄暗い路地を選んで進む。
肩で息をつきながら、必死になって歩く。東側陣営はスパイの失態を許さない。大きなミスをして粛清された同僚を何人も見ている。平穏な生活のためにも、強制収容所のラーゲリ送りだけは避けなければ。
「はぁ、はぁ、はぁ」
違和感は、まだ続く。
……おかしい。私はこんなにも体力がなかっただろうか。それほど恵まれた体格ではなかったにせよ、任務をこなせるだけの基礎体力はあったはずだ。
それなのに、今は。
ほんのわずかな運動で息が上がってしまう。なんだか歩幅も小さい気がするし、擦れた声も弱く聞こえる。
「せめて、あのアパートに戻らないと。……え?」
自分の口から発せられた言葉に、とうとう違和感は限界を迎えた。
なんだ、今の声は?
まるで少女のような声に、私は自分の喉に手を当てる。煙にでも喉をやられたか?
「……ぐっ、頭が痛い」
頭痛も、さっきより酷くなっている。
瓦礫が頭にでも落ちてきたのか。私は思考がはっきりしない状況で、洋服店の壁に手を当てながら前に進む。
その時。
ガラス越しに、自分ではない『誰か』が見えた気がした。
白くて美しい指先に、細くて頼りない脚。校則を守っているであろう制服のスカートが揺れて、綺麗な銀色の髪が踊っている
そして、ごく自然に。
窓ガラスに映っている、自分の姿を確認した。
「なっ!?」
……窓ガラスに映っていたのは、可憐な少女だった。
整った顔立ちと、哀しみを秘めた瞳。
疲れているはずなのに、その可憐さは失われていない。体格も小柄で、きちんと着ている制服が優等生のようだった。髪は綺麗な銀色で、さらさらと夜風になびいている。
「(……この子は、さっきまで喫茶店にいた)」
事態に、頭が追い付いていかない。
そんなはずはない。
あの時、私は確かに。あの少女を助けたはずだ。……はず、なんだ。
そこまでして、ようやく。
私は、自分の身に起こっていることを把握した。
あの喫茶店で、国家の機密情報を売ろうとしていた政府高官。
その男に向けていた、他人の意識へと入り込む魔法。あれを発動させたまま、あの少女を助けようとした。その結果、私の意識が、この少女に入り込んでしまったのか。
無我夢中だったとはいえ、無関係な少女を巻き込んでしまったことに、頭が痛くなる。……だが、私の魔法は、それほど長くは発動しないはずだ。どうして、自分の体に意識が戻らないんだ?
まとまらない思考に、頭を振り払う。
その時だった。
自分が歩いてきた背後から、ガサッと物音がした。
「っ!」
慌てて振り返り、緊迫した空気が流れる。
倒されたゴミ箱。転がっていく蓋。その奥には、真っ黒な犬がいた。まるで狼のような大型犬だ。その眼光は、野良犬にしてはあまりにも鋭かった。ぞわり、と私の背筋に冷たいものが走る。
……あれは、やばい。
考える余裕もなく、その場から逃げるように走り出した。
だが、同時に。
その大きな黒犬は、私に向かって襲い掛かってきた。
「はっ、はっ!」
街灯の少ない薄暗い通りを駆ける。
だけど、まったく前に進んでいる気がしない。それなのに、すぐに息が上がってきてしまう。走ることに体が慣れていない。激しい動きに体がついてこない。すぐに諦めるような考えが脳裏をよぎり、どんどん足が遅くなっていく。
「(……なんで、こんなにも動けないんだ!?)」
はぁはぁ、と口からは苦しそうな少女の嗚咽が漏れる。
不格好に手を左右に振りながら走るが、両脚は痙攣するように震え始める。やがて、立ち止まってしまい、制服のスカートの上から両手で膝をつく。
……が、その時だった。
背後から猛烈なスピードで迫ってくる気配を感じて、そのまま地面に押し倒されてしまった。
「がぁっ!」
背中を地面に打ち付けて、一瞬だけ呼吸が止まる。私を背後から襲った黒犬は、そのまま組み伏せるように覆いかぶさっていた。
鋭い牙が並び。
顎のあたりから涎が垂れる。
何より、その妖しく輝く赤い瞳が、全ての異常性を語っていた。
「くっ!」
……仕方ない。
任務中の発砲は極力控えるように指示されているが、目の前の状況は緊急事態。というより説明のできない異常事態だ。
私は、抱えていた自分のコートの内ポケットから、小型の拳銃を取り出した。
護身用に携帯していた、22口径の小型拳銃『デリンジャー』。威力は低く、離れた距離からでは狙いもつけにくいことから。護身用というより、もっぱら暗殺用として使われることが多い銃であった。
「くそっ、くたばれ!」
私は慣れた手つきで銃を構えると。
覆いかぶさっている大型の犬へと、その銃口を向けたー
脚注
・ラーゲリ送り:強制収容所。国(党)の方針とは違う考え方をした人間を、従順にさせるための再教育施設。とある旧・連邦では、政治に文句を言っただけで犯罪者なので、ここに収監して過酷な労働をさせることで、偉大な指導者の偉大さを教えてあげた。
・デリンジャー:中折式の小型拳銃(レミントン社製)。我々の世界でも、大統領の暗殺などで抜群の知名度を誇る。41口径のモデルもあるが、今回は22口径のモデルを使用。
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