#5. снайпер(狙撃手の男)
その目は、驚きに見開かれていた。
「は? 東側陣営だと!? つまり、連邦のスパイか?」
「まぁね。……とはいっても、私が生まれた国は、東側陣営の構成国の中でも小国だから。あまり、連邦に思い入れはないけどね」
そこまで言ったところで、マスターがカフェ・ラテを持ってきてくれる。
今の話も聞こえたはずだけど、全力で聞こえないフリをしているのか。その視線は、キョロキョロと怪しい挙動をしていた。
「おい、お前。本気か? 嘘だとしても、この冷戦下で東側陣営を名乗るのはヤバい。公安警察が慌てて飛び出してくるぞ」
「知ってる。だけど、本当のことを言わないと、あんたは信用してくれないでしょ?」
「証拠は、あるのか?」
「あんたの居場所と、行きつけのカフェを調べ上げた。それじゃ、ダメ?」
私は静かに、二杯目のカフェ・ラテを口に含む。
うん、うまい! 何より、お財布の心配をしなくてもいいのが嬉しい。これから大金が入ってくるとわかっているんだから、これくらいの贅沢はしても問題ないだろう。
男は腕を組んだまま、唸り声を上げている。
「それで? 仮に、お前が連邦のスパイだとして、俺が手伝うとでも? そもそも、俺が誰だか知っているのか?」
もちろん。何だったら、学生時代のあだ名まで言ってやれるさ。
「死神のスナイパー、でしょ?」
「そんな呼ばれ方されたことはない」
あれ、違ったっけ?
えーと、何だっけな。確か、卑怯者とか臆病者とか呼ばれていた気がするけど。そんなことを考えていると、男は興味がなさそうに話を打ち切ろうとする。
「とにかく、この話は聞かなかったことにする。俺はお前のことを忘れる。お前も俺を忘れろ。いいな?」
「ちょ、ちょっと待って!」
「いや、待たん。標的が誰だか知ったら、俺の仕事が増えるかもしれないからな―」
男は早口で言うと、そそくさと席を立とうとする。
あー、マズいマズい!?
ここで話が途切れたら、オペラ座の悪魔を退治するどころじゃなくなる! さっき、新作のコートを予約しちゃったんだから。もう、予約はキャンセルできないし、今月のお小遣いだってピンチなんだ。何としても、報酬をゲットしないと!
「あ、悪魔なのっ! あんたに狙撃してもらいたい標的は、悪魔なんだよぉ!?」
もはや、破れかぶれだ。
男の注意が引ければ、何でもいい。そんなことを思いながら、必死に呼び止める。だが、予想通り。男は意味不明な顔をして―
「……は? 悪魔だと?」
「そ、そう、だけど」
「なんで、お前みたいな人間が奴らについて知っている? ……いや、それよりも」
あれ? なんか、思っていたのとリアクションが違う。
男は真剣な目になると、再び座り直す。そして、両手を顔の前で組んで、銃弾のように鋭い視線を向ける。
「聞こう、話を。全ては、それからだ」
「……え」
え~、なに。この感じ。
普通、悪魔を退治してほしいって言われたら「こいつ頭おかしいんじゃね?」とか思われるはずだけど。なんか、普通に受け入れられちゃったよ。もしかして、この男。悪魔とか宇宙人とか信じている、頭がイタい子なんじゃ―
「おい、人のことを。頭が残念な奴みたいな目で見るな」
……なぜ、バレたし。
だが、せっかく話を聞いてもらえるのだ。この機を逃す手はない。私は、最近起きている深夜の出来事と、オペラ座の悪魔について簡単に説明をする。途中、何度か質問を受けると思っていたけど、この男は最後まで黙って聞いていた。
「それで、あんたにやってほしいことなんだけど」
「ちょっと待て。その、あんた呼ばわりは止めろ。俺にも、ちゃんとした名前がある」
「あ、そっか。……じゃあ、何て呼べばいい?」
「……『スナイベル』。それでいい」
男は不機嫌そうにコーヒーを啜る。
狙撃手の男か。連邦の言語にすると、『снайпер(狙撃をする者、凄腕のスナイパー)』だ。
なるほど、確かに。
この男には、ぴったりの呼び名かもしれない。
「それじゃ、狙撃手の男さん? 私の依頼なんだけど、その悪魔をブチ殺してくれない?」
「断る」
即答だった。
あまりに早い返答に、私のほうが戸惑ってしまうほどに。
「ちょっ、さっきの話を聞いていなかったの!? いたいけな少女の貞操に危機なのよ。手を貸したいとか思わないわけ!?」
「ならない。俺は、自分の大切なものしか守らない」
くそぅ。
そういえば、こいつはこういう奴だった。
金を積んでも、テコでも動かないだろう。いや、私の報酬が減るのでは意味がない。こいつになるべく安く働いてもらって、私は楽に報酬を稼ぎたいのだ。
ぐぬぬ、と歯噛みをしながら考える。
すると、男のほうから意外な提案をしてきた。
「……まぁ、協力はしてやってもいい。ただし、条件がある」
「条件? 何それ?」
私は藁をもすがる気持ちで飛びつく。
「その悪魔を『狙撃』するのは、お前がやれ。そのサポートなら手伝ってやってもいい」
「え~。私、長距離の狙撃は苦手なんだけど?」
「嫌なら、他を当たれ。俺は知らん」
ぐっ、この頑固者め。
こっちは普通の学園に通っている普通の女の子なんだそ。長距離狙撃なんて、無理に決まっているじゃないか。
……だが、それ以外に選択肢もないのも事実。
この男のサポートが、どれほどアテになるかはわからないが。それで手を打つしかなかろう。
「わ、わかった。私が悪魔を狙撃するから、あんたは周辺の警戒と着弾地点の確認をしなさい」
「あぁ。観測手の仕事だな。問題ない、得意分野だ」
狙撃手の男は、意地悪そうに笑う。
くそ、馬鹿にしやがって。それなら、こっちだって考えがある。こいつに渡す報酬を思いっきりピン跳ねして、タダ働き同然にコキ使ってやろう。
「じゃあ、報酬の分け前だけど―」
「必要ない、無償でやってやる。……今回は、な」
おや、と私は首を傾げる。
そんな私に、男は私を見る。正確には、私の着ている制服を。
「その学園の制服、ノイシュタン学院のものだろう」
「え? そうだけど」
「何年生だ?」
「……二年生よ」
「……そうか」
そう答えた凄腕の狙撃手の男は、しょぼんと肩を落とす。
その姿は、人生に疲れたサラリーマンにしか見えなかった。もしくは―
「実は、俺の娘も。その学園に通っているんだ」
「はぁ」
「だけど、反抗期なのか。喧嘩をしてしまって。最近じゃ、話も聞いてくれないんだ。なぁ、どうしたらいいと思う?」
「へー」
うん、実にどうでもいい。
私は他人の家庭事情という、心底興味のない話に付き合わされてしまった。話の内容など、まったく頭に入ってこなかったけど。ふと、ある疑問にたどり着く。……あれ? 計算、おかしくね?
「ちょっと待って。あんたって、まだ二十代でしょ? それなのに高校生の娘がいるって―、もしかして、不倫?」
「だれが不倫だ!? 俺は、妻一筋だぞ!」
目の前の男が、子供のように感情をむき出しにしていた。
「そんなこと言って、どうせ若いころにヤッちゃったんでしょ? それで、今頃になって父親が判明したとか。あ~、可哀想~。ユーリィちゃんも、あんなに尽くしてくれてたのに〜」
「馬鹿なことを言うな! 俺は生まれてこの方、妻以外を愛したことはない―、……って何で、お前が妻のことを知っているんだ?」
あ、やばっ!
ついつい口が滑ってしまった。
これ以上、追及されるのはマズい。私は慌てて身支度を整えると、カフェの扉まで走り出していた。
「じゃあね、狙撃手の男。明日の夜だからね。……あと、ここのお勘定もよろしく! 私、お金持ってないんで!」
「はぁ!? ちょっ、おま、ふざけんな!?」
それまで寡黙だった男が、とうとうキレだした。
だけど、そんなの関係ない。私は全力で店の外に出ると、そのまま朝の通勤ラッシュへと逃げていった。最後まで、狙撃手の男のブチキレた声が聞こえたけど。……うん、問題ない。何ていったって、今回の悪魔を退治できれば大金が手に入るんだから。
むふふ、私の未来は明るいぞ!