#9. No-Look SHOT (静かな殺意)
「ひっ!」
私は、思わず短い悲鳴を漏らしてしまった。
すると、その部屋にいた講師の女が振り返った。
完全に焦点を失った無感情な目だ。私が体験入室に来たことなど覚えていないのだろう。その視線は、私の持っているヴァイオリンケースだけに注がれていた。
「……AMATIの、高級ヴァイオリン。……あなた、貴族?」
感情がぶつ切りになった、途切れ途切れの言葉。
講師の女は、演奏している女子生徒の首を鞭で絞めながらも、その目だけはこちらに向けてくる。
「……貴族、金持ち。……お金、お金。……そう、私にはお金が必要なの。お金がないと、この貴族街にいられない!」
カク、カク、と首を動かしながら、私のことを値踏するように見てくる。
それだけでも、ぞっとするほどの恐怖が込み上げてくる。
足が震えて、息をするのも忘れてしまいそうだ。
こんなの、人間の顔ではない。
「あ、あぁ」
私は恐怖で動けなくなってしまう。
そんな時、別の女の声が聞こえた。音楽教室の講師の女の後ろにいる、……蛾の羽を持った『悪魔』だ。
「あら、可愛い子。キュフフ、あなたもこの教室の生徒さん?」
その悪魔は、妖艶な笑みを浮かべつつ、今も演奏を続けている女子生徒のことを見る。
「キュフフッ、可哀想にね。この子は、何も悪くないの。ただ純粋にヴァイオリンを習いに来ていただけだったのに。……キュフフ、残酷よねぇ? 才能を持っている人間は、周りの人間も狂わせちゃうんだから」
そう言って、泣きながら演奏をさせられている女の子の頬を撫でる。
指から血が滲んでいるにも関わらず、その女の子は演奏を止めることができない。そして、少しでも演奏が遅れようものなら、正気を失った講師の女が金切り声を上げた。
「テンポが遅れているわよ! あなたにはね、才能があるの! だから、この私が育ててあげる。世界的なヴァイオリニストを、私が育てるの! そうすれば、こんな惨めな生活から抜け出せるのよ!」
そう言って、講師の女は。
半狂乱になりながら、テーブルの上の書類を巻き散らす。
それは、家賃滞納の封筒に、不動産会社からの立ち退き命令。そして、多重債務の支払い請求であった。
「お金よ! お金がすべてなのよ! 私のような才能に溢れた人間が、どうして貴族街に住むことができないの!? おかしい、この世の全てがおかしいのよ! だから、私が世界的な演奏家を育てて、その地位も名誉もお金も、全部手に入れてやるの!」
「(……こいつ。全部、自分の金ために!?)」
人間の持つ底知れぬ欲望に鳥肌が立つ。
吐き気すら込み上げてくる。こんなところ、今すぐにでも逃げだしたい気持ちになってきた。
……その時だ。
ふと、無理やり演奏をさせられている女の子と目が合う。朦朧としている意識の中で、彼女は涙を流しながら助けを求めていた。そんな彼女から、私は目を逸らすことができなかった。
「キュフフ、良い音色でしょう? 人間は、自分の欲求に素直になった時が、一番美しいですもの。あなただって、そうは思わない?」
うっとりと、悪魔は愉悦に浸かっている。
「嗚呼、たまらないわ。私たち『悪魔』は、人間の欲望が何よりもの娯楽ですもの。……強欲に、自分勝手に。自分の望む未来を他人に押し付けて、泣いても、叫んでも。それでも練習をやめさせようとしない。どうしてだか、わかる? ……自分が正しいと、本気で信じているからよ!」
蛾の羽を持つ女悪魔が、妖しい眼差しでこちらを見た。
「愚かでしょう? だから、私が力を貸してあげたの。この人間が思い通りにできる力を。演奏のためには、休むことも、食べることも、寝ることだって許さない。この女が求めている全てを、私は叶えてあげたのよ」
ギリリッ、と女子生徒の首が絞められていく。
目は虚ろになっていき、顔色はどんどん青くなっていた。
「キュフフ。この女の子は、もうダメね。三日間も、この調子だったんだもの。もうすぐ、死ぬわ」
そして、悪魔は。
次の獲物を狙うように、私のことを見た。
「この女の子が死んだら、そこの愚かな女講師はどうするのでしょうね? 当然、次の生徒を探すわ。可愛くて、綺麗で、AMATIのヴァイオリンを持っている、……目の前の女の子をね」
「ひっ!」
ガクガク、と膝が震えだす。
……逃げないと。
……今すぐ、ここから逃げないと!
「い、いやっ、私は―」
「キュフフ、逃げないで。可愛い人。あなただって、ヴァイオリンを教わりにきたんでしょ? あなたの演奏を聞かせてくれない? ……そう、死ぬまでね」
瞬間、女悪魔の羽から。
無数の蛾が飛び立っていた。気味悪い模様の蛾が、一斉に私に向かって襲い掛かってくる。
「いやっ!」
私は悲鳴を上げて、この部屋から逃げ出そうとする。
だが、それよりも早く。蛾の群れが、まるで壁のように立ちはだかって逃げ道を塞いでしまった。
……もう、逃げられない。
「キュフフ。さぁ、あたしを楽しませてね」
私は再び悲鳴を上げた。
無数の蛾に包まれて、頭を下げてしゃがみ込んでしまう。
ヴァイオリンケースを両手で抱いたまま、身を守ろうと背中を丸める。現実を受け入れられないというように、ぎゅっと目を閉じる。
そして、そのまま。
数えきれないほどの蛾によって、全身を覆われてしまい、その姿が完全に見えなくなった時―
……銀色の髪の少女は。
……静かに、その目を開いた。
そこにあったのは、怯えや恐怖などではなかった。
少女に灯っていたのは、静かに研ぎ澄まされた、たったひとつの感情。悪魔を撃ち殺すという『静かな殺意』だけ。
もはや動揺も迷いもない。
自分がなにをするべきなのか、それだけを見据えている。そして、彼女には。それが自分にできることを確信していた。
息をはく。
その動作でさえ。
見ている者がいれば、背筋を凍りつかせるほど。冷徹なものだった。
「……やれやれ、こんな予定じゃなかったんだけどな」
ぼそり、と私は呟く。
そして、スカートの中に隠していた『デリンジャー』を引き抜いた。そのまま蛾に包まれた暗闇の中で狙いをつける。視界を覆われて、目を瞑っているかのような暗闇で。
それでも、何の躊躇もなく。
狙って放たれた銃弾は。
……女悪魔の右腕を吹き飛ばしていた。
「え?」
唖然としているのは、悪魔のほうだった。
ぽとり、と落ちた悪魔の腕は、黒い塵となって消えていったー