#8. Music Studio(音楽教室の悪魔)
夜になっていた。
私は、目的の音楽教室の前に立つと、がっかりした表情で項垂れる。
「……やっぱり、ここなのかぁ」
はぁぁ、と深いため息をつく。
アーサー会長に相談したオーケストラ部の女子生徒。彼女の友人が通っているという問題の音楽教室は、貴族街にあると聞いていたけど。その時から、いやーな予感はしていたんだよねぇ。
「はぁぁ~。また、ここに来なくちゃいけないなんて」
正直、お腹がキリキリと痛い。
初心者大歓迎の見出し。可愛らしいキャラクターの看板。そして、ポストには。家賃滞納の請求書が、今にも溢れそうになっている。
間違いない。
つい先日、才能のない貧乏人は来るな、と追い出されたヴァイオリン教室だ。私は、高級な楽器ケースを握りしめてながら、すでに逃げ出したくなっていた。
「(……うぐぐ、帰りたい。でも、何もせず帰ったら、お小遣いは貰えないだろうしなぁ。あんな金額。腹黒のアーサー会長のことだから、二度と提示してくれないだろう。そうなったら、また糞ダサいジャージ生活に逆戻りだ。……嫌だ、嫌だよぉ~。私は、可愛い服を着て外に遊びにいきたいんだぁ~)」
逃げることはできない。
少なくとも、今は。
最近は、下着のゴムも伸びてきたし。……絶対に大安売りされていたワゴンセール品を、大量に箱買いしてきたに違いない。これだから東側の人間は、人として大切なものが抜け落ちているんだ。下着の色に関心が持てないなんて、動物的な欲求しか持ち合わせていないのだろうか?
学園の制服も、そろそろクリーニングに出さないと。
私だって、年頃の女の子なんだ。最低限の身だしなみは整えたい気持ちはある。
ならば、行くしかない!
追い出されたら、すぐに帰ろう。泣きながら帰って、何か甘いスイーツを好きなだけ買おう。そして、自分の部屋で一人寂しく晩餐会をしてやる。
「ご、ごめんくださーい」
扉のベルを鳴らしながら、中に向けて声をかける。
先日の時は体験入室だったためか、声をかけたらすぐに返事があった。だが、いくら待っても返答はない。試しに何度かベルを鳴らしてみるも、やはり変わりはなかった。
「留守かな? いや、今日は教室が開いている日だよね?」
私は看板に書かれているレッスン時間を確認する。
確かに、教室はやっている時間だ。試しに玄関ドアノブに手を伸ばしてみたところ―
「え? 玄関が開いてる?」
音楽教室の扉は音もなく開いていった。
いくら治安の良い貴族街といえど、随分と不用心だなぁ。などと呑気なことを考えていると、建物の奥から何か聞こえてくることに気がついた。
「(……これは、ヴァイオリンの演奏?)」
レコードの音ではない、実際の生の演奏だ。
なんだ、やっぱりレッスンはしているんじゃないか。だけど、それにしては、……部屋の中が暗すぎる。電気が、まったくついていない。
「……」
私は制服のスカートに隠してある『デリンジャー』に手を伸ばしながら、ゆっくりと音楽教室へと入っていく。最初来たときは、装飾過多のシャンデリアや電気ランプがついていたのだけど、今は暗闇の廊下だけが続いている。
「……ごくり」
空気が重い。
足が前に出ない。
暗闇の奥から、途切れ途切れに聞こえてくるヴァイオリンの音色。ゆっくりと進んでいくにつれて、その旋律が明確になっていく。
「(……あー、嫌だなぁ。私、お化けとか苦手なんだけど)」
綺麗なメロディーだと思う。
でも、どうしてだろう。
私には、不気味な雑音にしか聞こえなかった。まるで虫が食事しているときのような、機械的な音のように。
「……この、部屋かな?」
私は閉め切られた扉の前に立つ。
体験入室で使った部屋とは、違う部屋だ。この建物は防音設備が整っているらしく、部屋の音は外には漏れない。というのがウリらしい。
私は、意を決して。
その扉のドアノブを回して、こっそりと中を覗き込んでみる。
直後、私の視界に入ってきたのは。
泣きながらヴァイオリンを演奏している学院の女生徒と、まるで死人のように生気のない音楽教室のおばさん講師だった。手には、薔薇のように無数の棘が生えた鞭を持っていて、泣いている生徒の首を絞めつけている。
そして、その背後には。
蛾のような羽を持つ、女の『悪魔』が立っていた。二人を見ながら、気味の悪い笑みを浮かべて―