#1. 1956 - COLD WAR(1956年、冷戦時代)
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世界歴1956年。
大きな戦争が終わって、世界は東西冷戦の時代を迎えていた。
どんな些細な出来事が戦争の火種になるかわからない。そんなピリピリとした国際情勢の中で、私は東側陣営のスパイとして活動していた。
私の生まれた国は、東側の超大国である連邦の、すぐそばにある小国で。ありていに言ってしまえば、連邦のパシリみたいな扱いをされることが日常茶飯事だった。
我が同志に栄光あれ。
偉大な指導者に賛辞あれ。
そんな心にもないスローガンを掲げ、私は今日も任務につく。
そこにあるのは、西側諸国にある自由とは、ほど遠い考え方だった。その自由のなさを例えるなら「偉大な指導者のアゴ髭はダサい」と口を滑らしてしまったら、次の週末には極寒のシベリア地方で強制労働が待っている、といえば理解してもらえるだろう。
三か月前から潜伏していた、西側陣営の先進国。
その首都、ノイシュタン=ベルグ。
別名、花の都とも呼ばれ、歴史と平和が調和されている美しい街だ。私も、こんな国に生まれたかったものだ。
この街には『JAZZ』が似合う。
穏やかなピアノとトランペットが、美しい町並みに華を添えている。
そんな窓からの風景から目を離すと、シャワーを浴びて、支度を整える。仕事用のコートに、袖を通して鏡の前に立てば。そこには平凡を絵に描いたような冴えない男が立っていた。
目立たず、注目を引かない。
だからこそ、こんな任務を任されたのだろう。そうであっても、敵陣営での仮初めの平和とはいえ、ここでの生活は居心地の良いものだった。
……残念だ。
今日の任務が終われば、私はこの街を去らなくてはいけない。
「あら、こんばんは」
「こんばんは、大家さん」
私は人当たり良い表情を浮かべて、仮住まいのアパートを出る。
平日でも超満員の路面電車に乗って、目的の喫茶店を目指す。途中、何か不審なものはないか。さりげなく辺りを観察することも怠らない。自分の正体がバレれば、それこそ致命的だ。
「(……不審な人物は見当たらない。不審物もなし)」
売店で買った新聞を手に、喫茶店へと入っていく。店内には、穏やかなJAZZのレコードが流れていた。
「いらっしゃい。何にしますか?」
「じゃあ、コーヒーをひとつ」
私は店員に注文をしながら、さり気なく任務に最適な席につく。
出入り口に最も近く、かつ店内全体を見渡せる場所。取引の現場は、この喫茶店で行われると聞いてから、何度か下見にも来た。非常口も確認済み。準備は怠らない。
「どうぞ」
「ありがとう」
「こんな夕方からコーヒーなんて。家に帰らなくてもいいの?」
「いやー、女房に浮気がバレて家に帰れないんだよ。いい言い訳が思いつくまで、ここでコーヒーでも飲んでいようかなってね」
「あはは、それは大変ね」
ウェイトレスが嬉しそうに笑う。
……嘘である。
所帯を持ったことがなければ、帰るべき家もない。仕事柄、嘘をつくことには慣れているが、どうにも後味が悪くて嫌だ。
コートを脱いで、イスに掛ける。
そのポケットには、護身用の銃が入っていた。任務の性質上、発砲は推奨されていないが、いざとなったらこの銃で自分を守らなくてはいけない。
だが、店内でコートを着たままでは不自然だ。
この時代、コートを着たまま喫茶店にいる人間など、マフィアの下っ端か、二流のスパイくらいだろう。自分から目立つようなことはしない。
「それじゃ、素敵な週末を迎えられるように。はい、これをあげるわ」
「これは?」
ウェイトレスから差し出されたものを見て、私は首を傾げる。
どう見ても、ただの銀貨のコインにしか見えなかった。
「お守り代わりよ。知ってる? 銀には『悪魔』を寄せ付けない力があるんだって」
ふーん、と頷きながら、その銀貨を受け取る。
こんなもので悪いものが寄り付かないなら、安いものだ。
悪魔なんて、この世にはいない。
そんなことわかりきっていても、こうして他人に親切にできる人間は嫌いではない。私は軽く礼を言ってから、持ち込んでいた新聞を広げる。そして、店内の観察を始めた。
「(……対象の政府要人は、まだ来ていない。店内にいるのは私を含めて三人。私と、喫茶店のマスターと、さっきの店員だけ。……いや、違うな)」
コーヒーカップを傾けながら、店内の隅の席へと視線を走らせる。
……そこにいたのは、学校の制服を着た少女だった。
透き通るような美しい銀髪。
そして、憐憫を誘う瞳。この世の不幸を全て背負っているかのような、哀しい目だった。整った顔立ちは、美少女と呼んでも差し支えない。
あの制服は、首都の高等学校のものか。
年頃は16くらい。まだ、どこか幼さを残している少女だが、もう少し年を重ねれば、誰もが振り向く絶世の美女に―
「(……おっと、ダメだ。任務に集中しないと)」
私は慌てて少女から目を離すと、意識を仕事へと向ける。もうすぐ、対象の政府要人が来るはずだ。
目的の人物は、すぐに来た。
いつもはボディーガードをつけているはずの政府の要人が、ひとりで店内に入ってくる。キョロキョロと辺りを見渡しながら、震える声でコーヒーを注文すると、誰からも離れた席に座る。その手には、大事そうに抱えられたアタッシュケースがあった。
私の仕事は、あのアタッシュケースから重要書類を奪うことだ。彼が、どこの国の組織と取引をしているのか知らないが、他国に行き渡る前に奪ってしまえ。まるで財布泥棒みたいな仕事。それが、私に与えられた任務であり―
私が、この任務に選ばれた理由でもある。
「(……さて、やるか)」
読んでいた新聞をカウンターに置いて、自然な素振りで立つ。コートを脇に抱えながら、ウェイトレスにトイレの場所を聞く。
私には、特技があった。
いや、人に言わせれば才能らしい。上司に言わせれば人間を道具にする技術と揶揄され。この国ではありていに、……『魔法』と呼ばれた。
脚注
・東西冷戦の時代:良識のある大人は、拳ではなく、口で喧嘩をすること。静かに睨みあって、お互いを牽制しながら、水面下の工作を頑張りましょう。(自己理論に酔って、他の国に殴り込みにいくなんてもってのほか)
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