#10. YOU CAN FRY!(主よ、彼に地獄の安らぎを与え給え)
突如、パシャッと。
カメラのフラッシュのような閃光が視界を覆った。眩しくて、思わず両目を閉じてしまう。そして、目の開いた時に見えたものは、それまでいた部屋の光景とは、まったく異なるものだった。
「……なに、ここは?」
「どうやら、これがあの悪魔の能力みたいね」
ミーシャ先輩が冷静に答える。
目の前に広がっているのは、どこまでも続く白色の平原。まるで原稿用紙の上に立たされているかのように、空虚で何もない空間。それが地平線の彼方にまで続いていた。
「キヒヒィ、どうだい? 写真の中に捕らわれた気分はよぉ?」
悪魔の声がした。
顔を上げてみると、するすると小柄な悪魔が上から降りてくるのが見えた。
「ここは儂だけの空間。儂だけが自由を許された世界。この場所に捕らわれたものは、誰であっても脱出は不可能だ」
キヒヒ、と不気味な含み笑いを浮かべては、悪魔は愉しそうに続ける。
「そして、この写真世界では、儂に隠し事はできない! 写真とは、現実を写し取るもの。そこにあるのは嘘偽りのない真実のみ。貴様らに隠された秘密も、名画を鑑賞する時のように細部まで暴いてやろう!」
ぎくりっ、と私は慌てる。
あー、どうしよう!? ミーシャ先輩に、私が普通の女の子じゃないってバレてしまうかもしれない。ここまで完璧に普通の学生を演じてきたのに、全ての努力が水の泡になってしまう。
そう思った時、私の行動は実に早かった。
制服のスカートに隠してある、二連発式の小型拳銃『デリンジャー』。それを太もものホルスターから引き抜いて、何の躊躇もなく引き金に指をかける。
パパンッ! と二発の銃弾が、悪魔に向けて放たれる。
だが、その銃弾は。
悪魔などいなかったように、何もない空間を通り抜けてしまった。
「キヒヒ、無駄無駄。ここは儂の世界。儂がルールなのだ。そんな、おもちゃなど通用するわけもなかろう」
「ちっ! ズルい、そんなの! 降りてきて、拳で戦いなさいよ!」
そう叫びながらも、左の太もものベルトに手を伸ばして、そこに隠してある予備の銃弾を取り出す。迷いのない動作で銃弾を再装填すると、再び銃口を悪魔へと向けた。もちろん、こちらは拳で戦う気などあるわけがない
そんな私を見て、なぜかミーシャ先輩が呆れたような顔になる。
「……ナタリアちゃん。あんた、どこに銃を隠し持っているのよ?」
「えっ、普通じゃないですか? 制服に隠すくらい」
「いやいや。どこの世界に、制服のスカートをめくって、『デリンジャー』を取り出す女子学生がいるの? それに、そのスカートの丈も短すぎ。風邪を引いちゃうわよ」
「そんなことはありません。これくらい普通です」
そう反論しながら、改めて自分の服装を見下ろす。別に、変なところはない。私はいつだって普通の女の子だ。制服のスカートだって、これくらい短いほうがちょうどいい。可愛いは正義だ。
それにしても、銃弾が通り抜けてしまうなんて予想外だ。
せっかく、『S』主任に用意してもらった対悪魔用の純銀弾も、当たらなければ意味がない。
「キヒヒ、終わりかい。それじゃあ、お嬢ちゃんたちの秘密を暴かせてもらおうかな?」
にやにや、と気味悪い顔で笑う。
そして、写真の構図を考えるように、両手の親指と人差し指を立てて、ファインダー越しに私たちを見た。
その直後、小柄な老人の悪魔は。
……驚愕した様子で、言葉を失っていた。
「(……な、なんなんだ、こいつら!? 今まで、この店に来たガキどもとは、まるで違うぞ!)」
写真の悪魔は、生唾を飲み込みながら。目の前にいる二人の少女の深層に触れていく。
「(……こっちの銀髪の娘。なんてことだ。ひとつの体に、ふたつの魂を宿らせている。こんな状況、普通の人間に耐えられるわけがない。異なる色の魂は、お互いに反発するのだ。脆弱な人間の体など、あっという間に壊れてしまうというのに)」
小型の銃を構えている、銀髪の少女。その可愛らしい外見とは裏腹に、何やら問題を抱えている娘だと思った。
……いや、そんなことさえ。
……この際、どうでもいいと感じていた。
悪魔は、この少女たちを侮っていたと気がつく。普通の少女だと思い込んでいたと錯覚する。困惑して、煩悶する。ふたつの魂を宿らせた銀髪の娘など、もはや眼中にない。
恐ろしいのは、こっちの―
「(……なんだ、この黒髪の女は)」
写真の悪魔は、喉がカラカラになっていることに気がつかない。冷や汗をかいていることを認識できない。怯えるように手が震えていることを知覚できない。
なぜなら、その黒髪の娘は。
「(……こいつ、本当に人間なのか!?)」
その体から溢れ出ている魔力の流れ。常に洪水を起こしているかのような、膨大な濁流だ。そして、少女の魂に絡みついている運命の輪。この少女は、何もかもが『特別』だ。この街に蔓延る有象無象の人間とは、まるで違う。悪魔は、更に少女の深淵を覗き込もうと、視線に力を込める。
そして、気がついてしまった。
気がつかなければ、よかった。
その悪魔が、後悔してしまうほどに。
「(……この黒髪の女。……混血か!?)」
さぁ、と悪魔の顔から血の気が引いていく。
先ほどの魔法。
人間の魔法にしては、悪魔である自分に効き過ぎている気がしていたが、この光景を見てしまえば全てを納得するしかない。
「(……なんてことだ! 我々、悪魔の最大の敵にして、遥か昔に神から遣わされた天使たち。この黒髪の女は、その血筋を受け継いでいる末裔―)」
思考は、そこまでだった。
写真の悪魔が作り出した、この空間。自分自身が絶対のルールとなる領域に、どんな人間も成すすべはない。向こうからの攻撃は効かず、こちらが絶対の勝者でいることを約束してくれる。
そう、相手が。
純粋な人間であったのなら。
「さて、もういいかしら?」
黒髪の少女が、不敵に笑う。
……ヤバい。悪魔は身の危険を感じ、自らが絶対の勝者でいられる空間から慌てて逃げ出そうとする。
だが、すでに。
遅すぎた。
「……『断罪聖典』開帳。汝、己の罪を懺悔して、己の罰を受けいれるべし。廻り、捻じれ、破滅の鉄槌をここに。おぉ、神よ。彼に地獄の安らぎを与え給え。……第72節。『悪魔殺しのトール(Hark! The Herald Angels Sing)』ッ!!」
瞬間。
黒髪の少女が悪魔を指さして、ぺろりと唇を舐める。その背中には、うっすらと天使の翼のようなものが見え隠れしていた。
そして、気がついた時には。
この空間の絶対の勝者である悪魔に対して、遥か高みから見下ろしている存在に気がつく。その巨大さに、悪魔は言葉を失う。例えるなら、神の巨人。悪魔のことを小うるさい蠅くらいにしか見えていない巨人は、その手に持った巨大なハンマーを振り上げて。
この空間ごと、悪魔を殴り飛ばしていた。