#9. Bible(断罪聖典)
……『断罪聖典』。
それが、ミーシャの魔法である。
これまでに犯してきた罪によって断罪を下す、『聖典』の顕現。それは遥か昔、神から遣わされた天使が人間を裁くときに用いた、神の権能である。現在においては、もはや伝説から神話へと語られているもの。
だが、彼女の体に流れる血筋が、遠い祖先から続いている運命が。彼女の存在を『聖典』へと昇華させていた。
罪には、罰を。
罪人には、断罪を。
ミーシャの魔法の前では、どんな嘘も通用しない。
そして、聖書では。
生きとし生けるすべてのものが罪人であり、悪魔とは存在そのものが原罪とさえている。つまり『聖典』からもたらされる讃美歌は、悪魔にとっては死を意味する。……『悪魔殺し』と呼ばれる所以だ。
「まっ、聖書なんて読んだことがないんだけどね! 讃美歌(Hymne)も歌えないし。でも、この魔法で悪魔をぶっ飛ばすことができるなら、それ以上のことは関係ないよねぇ!」
にやり、と凶悪な笑みを浮かべるミーシャ先輩。
その視線の先には、ぶすぶすと体を焦がしている小柄な悪魔が倒れていた。体からは黒い塵が漂っていて、空気に溶けていく。そんな状況であっても、小柄な悪魔は声を上げて嗤っていた。
「キ、キキィ、人間のくせに。よく儂が隠れているのがわかったな。だが、お遊びはこれまでよ! 貴様らに、悪魔のなんたるかを教えてやるわ―」
小柄な悪魔は嗤いながら、ゆっくりと起き上がる。
悪魔としての矜持か。
必死になって、不気味な笑みを浮かべている。
「キキィ、教えてやろう。儂は、写真に潜む悪魔。その名も、ベア―」
そして、こちらを見ながら、余裕ぶって自分の名前を口にする。……が、そんなことを待っているほど、ミーシャ先輩は優しくはなかった。
「おらっ、どこ見てんだ! ボディがガラ空きだぜ!」
「おぶらぅ!?」
無防備な悪魔に対して、強烈な一撃を叩き込んでいた。
完全な不意打ち。げああぁ、と悲鳴を上げて悪魔が悶絶している。だが、そんな悪魔の頭を踏みつけて、ミーシャ先輩は虫けらを見るような目を向けた。……あっ、今更だけど気がついた。ミーシャ先輩。この人は、悪い人だ。
「ほらほら、こっちから出向いてやったんだから、感謝くらいできないの!? それとも、このまま頭を踏みつぶされたいわけ?」
「あぎゃ、あぎゃぎゃっ! 頭が割れる、割れる! お前、本当に人間か!? 名前を言おうとしているのに殴ってくるなんて、今まで聞いたことないぞ!」
お前の血は何色だ、とでも言いたげな小柄な悪魔。
それでも、ミーシャ先輩は容赦しない。先ほどの魔法を指先に集めて、踏みつけている悪魔の眉間に押し付ける。ぶすぶす、と焦げるように黒い塵が立ち上る。
「さぁ、死にたくなかったら白状しなさい。この店で行方不明になっている学生たちを、どこ隠したの? 素直に話せば、苦しまずにあの世に送ってあげるわよ」
それは、まさに。
闇社会を支配するマフィアのボスの言い方だった。学校の制服なんかよりも、黒スーツに葉巻を咥えさせたほうが似合いそうだ。これまで怖い人には何人も会ってきたけど。やっぱり、悪魔よりも人間のほうが怖いかもしれない
「キ、キキィ。……そうか、お前たち。あのガキどもを探しにきたのか。キキッ、それは残念だったな。奴らは、もうこの世にはいねぇ!」
「(……えっ、どういうこと!?)」
私が慌てたような顔をすると、悪魔はこちらを見ながら嗤う。
「キキィ、もう手遅れだってことさ。無駄足だったな」
まさか、それって。
私は顔を青くさせながら最悪の事態を考える。もしかして、間に合わなかったのか。行方不明になっている生徒たち、その全員を助けられなかったなんて。
愕然として、体から力が抜ける。
そんな私を見て、小柄な悪魔は嬉しそうに嗤った。
「キイィ、そうだ! その顔だ! 人間たちの絶望に満ちた顔は、いつだって儂たち悪魔を楽しませてくれる。さぁ、そっちの黒髪の女も、さっさと足をどかして、……ぎゃあああ!」
突然、悪魔が悲鳴を上げた。
何が起きたのか、ミーシャ先輩のほうを見ると。魔法で淡く輝いている指先を、ぐりぐりと眉間へと突き刺していった。
その顔は、どこまでも。
……退屈そうな表情だった。
「はぁ、めんどくさ。……あー、ナタリアちゃん。最初に言っておくけどね、悪魔の言うことは嘘だらけだから、信じちゃダメよ」
「へ? 嘘?」
「そう。悪魔って奴は、平気で嘘をつくから。人の悲しい顔や絶望した表情。そういったものを見て、自分の趣味嗜好を満たすの」」
信じるな、疑え。
それが悪魔との話すときのコツよ。そう言って、ミーシャ先輩は悪魔を踏みつけている足に力を入れる。
「さぁ、とっとと解放しなさい。彼らは、どこに隠したの?」
「キ、キヒィ! どこに行ったも何も、すぐ傍にいるじゃないか。気がついていないのか?」
え? と私は辺りを見渡す。
この部屋には、私たち以外は誰もいない。壁一面に貼られた、学生たちの写真以外は。
「あんた、まさか」
「キヒヒ、そうさ! 貴様らが捜しているガキどもは、全員、写真の中に閉じ込められているんだよ。どいつも、こいつも、幸せそうに笑っているだろう? だけどなぁ、本当はずっと泣いているんだぜ! 写真の中に閉じ込められて、助けを呼ぶこともできなくてなぁ!」
キヒヒ、と悪魔の耳障りな声が響く。
「悪魔の力の舐めたな! 貴様らも、写真の世界に閉じ込めてやるわ!」