♯44. Prelude(序曲)
……うふ、うふふっ。
魔女アラクネが無理にでも笑みを浮かべる。
引きつった頬。強張った表情。かすかに震える指先。そんな魔女から放たれた言葉は、精一杯に自分を肯定しようしている。そんな虚勢であることは明らかだった。
「Welcome。初めまして、私の名前はアラクネと申します。以後、お見知りおきを」
「あー、無理。私は興味のない人間は覚えられないクチだ」
「そうですか。ですが、貴女はここに来たということは、この私を止めるためでは?」
「いんや。悪いが眼中にない。お前さんが魔女に憧れようとも、その魔法で首都を滅ぼそうとも。私の興味があるのは、不甲斐ない部下のことだけだ」
「ふふっ、いいのですか? このままだと戦争になりますよ。首都の混乱に乗じて、東西平和を脅かす。この薄氷の上に成り立っている平和なんて、簡単に崩れてしまうでしょう」
「あぁ、どうでもいい。戦争は個人で行うものではない。今時の戦争など、政治の延長にすぎん」
古代では神のために戦争をした。
中世では正義と領土のために戦争をした。
近世では、……何だろうな。二度の世界大戦はなんのために起きたのか。国益。大国のプライド。国民感情。相互理解の欠如。答えを断じるには影響するファクターが多すぎる。
「国際電話は民用化されて、情報はリアルタイムに更新していく。この動きは、どんどん加速していくだろう。それでも戦争が終わらないのなら、それは政治のために軍隊というカードを使うからだ」
理想のため、国益のため、支持率のため。人を誘導して、誤認させて、意図してひとつの方向へと感情を向けさせる。だからこそ、それを止めるシステムが必要なのだ。だから、そのシステムがない東側陣営は嫌いなんだ。
「お前が何を企てても、戦争は勝手に起こるし、勝手に防がれる。自分たちの知らないところで、世界は安定を取り戻そうとする。だから、……勝手にしろ。お前ひとりが喚いたところで、戦争など起きんよ。まして―」
そこまで言って、『S』主任は懐から煙草を出して火をつける。先端から落ちる灰を、彼女の影に潜むナニカが美味しそうに食べていた。
「まして、この街は落ちない。お前を止める者がいる。お前を阻止しようとする者たちがいる。お前を滅ぼそうとするモノもいる。……好き勝手にやりすぎたな。行き止まりだよ、お前の未来は」
無表情のまま紫煙を吐いて、火をつけたばかりの煙草を地面に捨てる。
「……さて、こちらの話は終わりだ。独り言に付き合わせて済まなかったな」
そして、『S』主任は。
まるで目の前に誰もいないかのように、視線を空へと移した。新しい煙草を取り出して、口にくわえる。火はつけない。わずかに漂っていた紫煙も、夜風と共に流れていく。
そんな彼女の態度が、魔女アラクネは気に入らなかった。
……相手にされていない。
そもそも視界にすら入っていない。これだけの悪魔を従えて、魔女として相応しい私のことを。この女は、認識すら必要ないと思っている。それは完全なる否定だ。私のことを否定している。
腹立たしい。
それだけは見過ごすことはできない。
「……Understand。どうやら、私は貴女を殺す必要があるようですね」
憎しみの視線を向けても、『S』主任は振り返ろうともしない。
まるで隙だらけだ。
今なら殺せるんじゃないか。今まで何人も殺してきた自分だ。今さら、人殺しに躊躇はない。
この大聖堂にいる悪魔たち。
そしれ、魔女としての魔法。それを全て解き放てば、あの女であっても倒せるんじゃないのか。ここで倒れている連中と同じように。
力尽き、傷だらけになって。
それでも誰かを待っていた、No.を名乗る少年少女。彼らのように、この手で―
「……?」
不意に、妙な気配がした。
人の気配だ。
それはとても脆弱で、とても儚いものだ。どこにでもいる普通の人間。出勤時間に混雑している駅のホームにいる一人の人間のように、その存在感は果てしなく薄かった。あの女とは真逆の。
「ほら、お出ましだぞ。貴様にとっての死神が」
そこにいたのは。
鈴のような涼やかな声と。綺麗な銀色の髪に、学園制服のスカートが揺らす。
ナタリア・ヴィントレスの姿であった。