♯43.She is coming…(そして、あの女はやってくる…)
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人のいない寂れた酒場で。
ヴィルヘルム・ブラッド卿が、静かにグラスを傾ける。
「そろそろ、戦いが終わるか」
学者然とした風格が、わずかに笑みを零している。
隣の席を見ると、つい先ほどまで誰かいたのか。飲みかけのグラスが、そのまま置かれている。カランッ、と氷が滑り落ちる音がした。
「……嘆かわしいな。祭りの終わりは、いつもそうだ。少しだけ寂しくて切ない」
せめて、最後まで飲んでいけばいいのに。
そう思いながら、飲みかけのグラスをじっと見つめる。
人間、さようならだけが人生よ。
ならば、悪魔は? 我々は、何のために存在している。底知れぬ快楽を享受するためか。それとも人を悪の道に導くためか。存在することさえ罪である我々は、人間の悪意の受け皿である我々は、何のために存在している。
……嘆かわしいな。
我々の人生に未来はない。せめて刹那の快楽と共に。
ヴィルヘルム卿は、誰もいない酒場を見渡しながら、静かにグラスを傾ける。
東の空が、わずかに白んでいた。
――◇――◇――◇――◇――◇――◇――
唐突な寒気に、背筋が凍える気がした。
魔女アラクネは嫌な予感がして、注意深く辺りを見渡した。荒れ果てた大聖堂。闇に蠢く悪魔たち。彼らの不気味な吐息こそ、彼女を称賛する声だった。蜘蛛のように巣を作り、蜘蛛のように獲物を捕食する。今、まさに。その獲物に手をつけようする瞬間だというのに。
「Not Beautiful。ありえませんわ。この状況で、私の脅威になるものはない」
魔女アラクネは、力なく倒れている少女の手を掴む。
気絶しているのか、意識はない。
長い黒髪が揺れて、少女の顔が露になる。
ミーシャ・コルレオーネ。
愛する男を救うために、全ての力を失った少女。もう、この女は必要ない。『断罪聖典』も『天使化』もできない女など、操り人形にしても何の利用価値がない。当初の予定では、この女を洗脳状態にして、その体を乗っ取ろうと考えていたのに。
『断罪聖典』と『天使化」。
これだけでも希少な能力なのに、この女の美貌ときたら。間違いなく、どんな男でも魅惑できるだろう。歳を重ねて老いていくこの身体を捨てて、若く美しい女の肉体を手に入れるのも一興だ。少々、初心なところがあるが、夜のホテル街で男に声をかければ、すぐに快楽に溺れることだろう。淫売の才を無理やりにでも引き出してやる。そんな体が、自分は好みなのだ。
「Not Understand。この私が求めていたものを、あっさりと捨ててしまうなんて」
あの『天使化』は凄まじいものがあった。
悪魔たちを一瞬にして蹴散らしてしまい、瀕死の男を救う奇跡も起こしてみせた。悔やむべきは、もう二度と手に入る機会がないということ。
「ですが。……まぁ、いいでしょう」
にやりっ、と魔女アラクネが表情を歪める。
これから得られるであろう快楽に、心を躍らせる。
「Beautiful。……貴女の、その身体。やはり私がいただきますわ。天使の末裔としての力はありませんが。その美貌、その美しい身体。全てを私のものに」
吹き飛ばされた右腕のこともある。
出血くらいならすぐに止められるが、失った体の一部は元には戻らない。せいぜい、醜い悪魔の腕を借りるくらいのもの。
……だけど、こんなところに。
……あるじゃないか。絶世の美少女の体が。
「Hello,and Goodby。これからは私が、……ミーシャ・コルレオーネだ」
瀕死から救われたとはいえ、意識もなく倒れているアーサー会長。ジンタもアンジェを庇うように抱きながら倒れている。全員が傷だらけで、一方的な攻撃を受けていたことがわかる。それでもよく頑張ったほうであろう。反撃する手段がない状況で、魔女アラクネの猛攻を凌いでいたのだから。彼らが何を期待していたのか、それは最後までわからなかったが。
「主よ、私は感謝します。このような幸運を授けてくれたことに。Amen」
そして、魔女アラクネはミーシャの下顎を掴むと。
彼女の唇にキスをした。
舌を入れて、自分の唾液を流し込んでいく。わずかにむせようが無理やり飲み込ませる。食道を伝い、胃袋に落ちていく。彼女は意識を失いながらも、とろんと紅潮した表情になる。これで洗脳の準備は終わった。後は、目が覚めたこの女に、自分の魂を移すだけ。
嗚呼、なんて素晴らしい。
私こそ絶対の勝者。ミーシャ・コルレオーネという私が、誰からも恐れられる新たな魔女に―
カツン。
カツン。
「っ!?」
足音がした。
誰だ。誰がいるか。そんな、ありえない。この大聖堂には、もう他に人間がいるはずがない。
いや、それよりも。
この寒気はなんだ?
心の底から凍り付くような、冷たい気配は。
「……さて、未成年淫行は重罪だぞ。それを知っていての行為かな、魔女に憧れる者よ」
「……あ、ああ」
ぞくり、と魂が凍った。
心臓を直に握られるような感覚。目を合わせただけで命をまで奪われるのではないか。そんなことさえ感じてしまう恐怖。知っている。この感じを、自分は知っている!
カツン、カツン。
カツン、カツン。
女物のヒールを鳴らして、その女性は月光の前に立つ。
「本当は、不甲斐ない部下を迎えに来ただけなんだが。ここに魔女に憧れる阿呆がいると聞いてね。興味が湧いた。どこの世界に、私のような存在になろうとする輩がいるのか、ってね」
……この人だ。
自分が一度だけ目にした、本物の魔女。戦場で、砲弾が雨のように降ってくる場所で。この人は旅行鞄ひとつで散歩するように歩いていた。彼女には砲弾が当たらず、私の頭上に落ちてくる瓦礫を、ただの気まぐれで助けてくれた人。彼女のようになりたかった。だから、魔女を名乗った。その人の名前は―
「さて、たぶん初対面だから自己紹介をしよう。私の名前は『S』だ。東側陣営の諜報員の管理職にして、ナタリア・ヴィントレスの上司だ。覚えなくてもいい。貴様は今夜のうちに消える」
妖艶な女上司『S』主任が。
魔女アラクネと悪魔たちを前にして、不遜気に立っていた。その手には『消音狙撃銃』が入っている、ヴァイオリンケースが握られていたー