♯40.ANGEL SONG…(天使の歌。そして…)
天使と悪魔の歴史は、とても深い。
古くは神話の時代から。それから宗教の勧善懲悪のモチーフに使われて。今もなお、悪魔に関することわざも残っている。悪魔とは、人間の心に潜んでいる。人間の悪意が、この社会に悪魔として生み出される。
おお、人の子よ。善人であれ。
おお、人の子よ。悪魔の囁きに耳を貸してはならない。
……私、ミーシャ・コルレオーネは。
転校してくる前の学園で、そんなことを授業で習っていた。首都の郊外にある貴族学校。私のような庶民では、それなりに浮いた存在になっていたけど。学園内に蔓延っているキナ臭い雰囲気さえ無視すれば、それなりに通えた。寮生活にも慣れたし、友達もできた。
そんな時だった。身分を偽って、アーサーが転校してきたのは。
「死なせない! 何があっても、こいつは死なせない!」
最初の印象は、とにかく嫌な奴だった。
女を虜にする美貌に、誰に対しても紳士な振る舞い。貴族らしかぬ柔らかな物腰。その評判はたちまち学園の女子生徒に知れ渡った。まるで王子様のような転校生。彼にアプローチする女子は少なくなかった。……まぁ、友達が極端に少ない私にとっては、どうでもよい話だった。いつものように誰もいない早朝の学食で、ぼっち飯を食べているような人間には。
『……相席をいいかな?』
私は驚いた。早朝の学生食堂で、ほとんど他の生徒などいないのに。あえて、私のいるテーブル席で食べようするなんて。
「くそっ! まだ、まだ力が足りない!」
その時の会話は、他愛ないものだったと思う。
何といっても、ファーストコンタクトが最悪だったから。雨が降ってきた駅のホームで、私が途方に暮れていると。颯爽と現れたこの男がー
『僕の傘に入るかい?』
『よければ、君の寮まで送っていくよ』
まるで少女漫画のような展開に。私は、……その男を水たまりの地面へと叩きつけたのだ。そして、あまつさえ彼の傘を奪って、借りパクしていった。そんな私に話しかけてくるなんて。
今思い返しても、不思議な男だった。
「……主よ。天に召します我らが父よ。私は告解します。この身は人にあらず。この魂は人にならず。この想いは、ただ愛する者のために」
天使の翼が、強く輝き出す。
白銀色の髪が美しく舞い踊って。
瞳の奥に、十字架が開眼する。
「……我は人にあらず。我に流れる血よ、天からの使者よ。この身を捧げます。主よ、天に召します我らが父よ。我は人にあらず。我は―」
愛する人を強く抱きしめる。
血の気を失って、どんどん体が冷たくなっていく。死の足音が近づいてくる。……させない。私がさせない。例え、この身体が人間ではなくなっても、この男を救ってみせる!
死者は生き返らない。
それは神であっても不可能だ。盆から零れた水は、元に戻せないように。この両手から零れ落ちてしまったら、もう助けられない。
……でも、まだ生きている。
……ならば、まだ可能性がある。
私の血に眠っている天使の血脈。
それを全て解放すれば、何とかなるかもしれない。『天使化』。母から告げられていた、私の中に眠る神の根源。最後まで天使化が進んでしまったら、もう人間には戻れない。人間性や、この想いすら、消えてしまうかもしれない。
それでも後悔はしたくない。
これまで、いっぱい後悔してきた。何度も悔やんできた。この世界を恨んだりもした。私は、本当にどうしようもない女だ。
それでも、この男のように。
心から世界を愛している人間がいるのだと。このクソッたれな世界に向かって、叫んでやるんだ!
「我は、……私は、ミーシャ・コルレオーネ! 天にいるクソの神様よ! 私に力を貸しなさい! この男を救うための奇跡を、今ここに示しやがれっ!」
全知全能なる神?
天に召します我らが父?
……はんっ。そんなクソみたいな奴ら、本当はこれっぽちも信じていない。このクソまみれの世界では、クソみたいな悲劇が繰り返されている。こんな世界にクソ野郎の発言権はない!
お前らに世界は救えない。だったら、せめて。この男くらいは救ってみせなさいよ。こんな世界でも愛して、世界のために生きようとしている馬鹿野郎を!
「目を覚ましなさいよ、この馬鹿クリスが! あんたがいなくなったら、私が独りになっちゃうじゃない! そんなの耐えられないんだから。例え、こんな力が無くなっても。私は、……あんたの傍にいたいのよ!」
光輝く天使の翼。
悪魔たちが蔓延っていた大聖堂を、聖なる光が照らしていく。ボロボロになった礼拝堂も、栄華を誇る大理石の女神たちも、天井にある美しいステンドグラスも。その神々しい輝きに照らされていく。
その時だ。
誰も気が付かなかったが。
ステンドグラスに描かれていた女神の顔が。
天使たちを統べる美しい女神の顔が。
……不機嫌そうに口を曲げた。
「っ!?」
瞬間、これまでにないほどの光が。
二人を包んでいく。ミーシャの背中にある天使の翼が、傷ついたアーサーを護るように覆いかぶさっていく。眩しいほどの輝きに、ジンタは目が眩み、悪魔たちの残党は浄化され、右腕を失った魔女アラクネが憎らしそうに睨む。
そして、その輝きは少しずつ失われていって。
輝きがなくなる頃には、ミーシャの翼が飛び散っていた。まるで雪のように。天使の翼であった、いくつもの羽が。美しく舞い落ちていく。
最後に、残されていたのは。
「……うぅ。まだ僕は生きているかい?」
「……ばか」
力なく呻くアーサー会長の姿と。
天使の翼を失い、元の黒髪に戻って。アーサー会長を救うことを引き換えに、全ての力を失った。ただの普通の少女、ミーシャが嬉しそうに微笑んでいた。
――◇――◇――◇――◇――◇――◇――
魔女アラクネは、言葉を失っていた。
目の前の光景が信じられなかった。愛する男を救うために、自分に眠っている全ての力を失うなんて。これで、あの女は天使化はおろか『断罪聖典』すら使えない。
ただの少女。
平凡な人間。
嗚呼、なんて。
なんて愚かで好都合なのだろうか!?
あの女が本当に天使化をしていたら、間違いなく自分は滅ぼされていた。中世から続いている本物の天使の血筋と、自分のように魔術書で魔女になった存在では、あまりにも格が違いすぎる。
天使とは、悪魔卿と同じ超越存在だ。
あの女も知っていたはずだ。それなのに、こんなにも簡単に捨ててしまうなんて。
「Beautiful! 愚か! 実に愚か! 滑稽を通り越して、ただの馬鹿ですわね! この私を滅ぼす手段を持っていながら、目の前の男のために手放すなんて。おバカちゃん、おバカちゃん、おバカちゃぁん!」
あははっ、と魔女アラクネが狂ったように笑う。
吹き飛ばされた右腕を庇うことなく、ゲラゲラと腹を抱えて嗤っている。
そして、ひとしきり笑い終えた後。
「……はぁ、Amen。……それで? 愛する男とやらを救ったのはいいとして。この私から逃れられると思っているの?」
殺す。
今すぐ殺す。
生きていることを後悔させながら殺す。あの男も、あの女も、そこにいる全員が腹立たしい。この私のことを否定して、自分たちこそ正しいと思っている。嗚呼、なんて愚かなのだろうか。人間が絶望しながら死んでいく。それを見ることが、どれほど幸せなことか知らないのだ。
「それじゃあ。……最後に悪夢を見ながら、絶望に沈みなさい。……Amen」
魔女アラクネが嗤い。
魔法陣から、悪魔たちが出現していく。
異形の存在。古からの悪意。人の力など及ばず、人間が太刀打ちすることなどできない。悪魔たちは嗤い、彼らを蹂躙するべく襲い掛かる。
そして、半時ほどして。
大聖堂は静寂に包まれる。
満足そうに嗤う、魔女アラクネの視線の先には。
傷だらけになって完全敗北した、……『No.』たちの姿があった。