♯37.POPs or Anime-song (ジンタの戦い③)
「おーい、聞こえているだろう? アンジェ、こんな辛気臭いことなんか止めちまって、俺たちの家に帰ろうぜー?」
ジンタが、黒いドレスのアンジェに声をかける。
だが、反応はほとんどいない。
顔に浮かんでいる表情は変わらず、氷のように冷たい視線でジンタを見下ろす。
「……あなた、だれ?」
「俺か? 俺の名前はジンタだ。そう簡単に忘れるんじゃねーよ。お前だって知っているだろう、アンジェ?」
「アンジェなんて名前、知らない」
「知らないんじゃなくて、忘れているだけだよ。その証拠に、俺はお前のことをよく知っているぜ、うん」
「消えなさい。人間の男よ、次は容赦なく首を切り落とすわ」
「俺がお前のことをどれくらい知っているかというと、そうだなぁ。あ、この前の週末に、一緒にシュークリームを食べただろう? カスタードとチョコレートクリームのやつ。俺がバイト先で貰ってきたやつだけど、それなのにお前ときたら―」
ジンタは一方的に話を続けている。
黒いドレスのアンジェの忠告を無視して、血のように赤い瞳に蔑まされながらも。彼は流暢に話を続ける。
それが良くなかった。
悪魔の怒りに触れた人間には、最悪の結果が待っている。
まして、相手は悪魔の女王となる存在だ。
人間の命など、街灯に群がる羽虫くらいにしか思っていないだろう。
……うるさい人間だ。
ぽつり、と彼女が呟く。
自身の周囲に黒い魔力を漂わせて、感情のまま男の首を切り落とすことを決めた。いや、それだけでは足りない。自分は悪魔の女王になる存在なのだから、もっと人間に恐怖を与えることをするべきだ。まずは、両手足を千切ってから男の顔を苦痛に歪めるべきじゃないか。死を与えるのは、それからでも遅くはないはずだ。
決断と処刑は、同じ行動だった。
黒いドレスを翻して、蜂蜜色の髪が夜の闇に舞う。
そのまま邪悪な魔力を放つ右手で、ジンタへと襲い掛かる。息を飲む、ミーシャ。声すら上げられない、アーサー会長。数多の悪魔たちと戦ってきた二人であっても、超越存在である女王の動きは目で捉えられなかった。
そして、流暢に話を続けるジンタに向かって。
そのギロチンのような右腕を突き出される。ジンタの体はバラバラに切断されて、一瞬にして肉塊へと変わり果てる。
はず、だった―
「……言っただろう。お前のことは俺が良く知っているってな」
「っ!?」
ジンタが優しく語る。
彼は生きていた。
黒いドレスのアンジェが突き出した右手は、彼を貫く寸前で止められていたのだ。その指先は、ぷるぷるとわずかに震えている。
驚いていたのは、アンジェのほうであった。
なぜ、自分は手を止めてしまったのか。確かに、この男を処刑するつもりだった。自分で考える最悪なことをしようとした。
それが悪魔の女王として、正しい行動だと思ったから。
だが、できなかった。
何故か。この男が特別だというのか。それとも―
「アンジェ。混乱しているお前に良いことを教えてやるぜ。人間ってやつはな、簡単には変われないんだ。例え、記憶がなくなっていてもな」
「……わたしは、人間ではない」
「関係ねぇよ。動物でも、悪魔でも、ココに魂ってもんがあるなら同じことさ。自分の魂に背を向けて生きてはいけねぇ」
そういうもんさ、とジンタはいつになく真剣な表情で、自分の胸に向けて親指を指す。
「俺は見てきた。ずっと、お前のことを見てきた。だから、知っている。だから、わかっちまう。悪魔の女王だか何だかしらねぇけど、無理に悪いことをしようとしても限界があるんだぜ」
「なにを、馬鹿なこと」
「アンジェ。自分のやり方は自分の心が知っているものだ。こうしたほうが悪魔みたいだ、とか。こうしたほうが悪魔の女王らしい、とか。真面目なお前のことだから、そんなことばかり考えているんだろう?」
その時点で、お前は悪魔の女王に向いていないんだよ。
だって、人を傷つけることが悪いことだと、お前の心が知っているんだから。
ジンタの優しい言葉のナイフが、アンジェの感情を切り刻んでいく。記憶を消されて、暗示をかけられた魂が。元の形に戻るまで、丁寧に、丁寧に、邪悪なものを切り落としていく。
最後に残った魂は、その色は―
「くっ! う、うるさい!? お、お前なんか、お前なんか―っ!」
混乱したアンジェが、ジンタに向けて黒い牙をむく。
だが、彼を傷つけることはできない。
記憶もないのに。
目の前の男が、誰なのかもわからないのに。
このどうしようもない不安を、この男にぶちまけたいと思ってしまう。孤独で寂しい気持ちを、この男に支えてもらいたいと願ってしまう。
……あぁ、そうか。
……わたしは、すでにこの男を。
「アンジェ。さっきも言ったけど、人間は簡単には変われない。お前に忘れられても、俺の気持ちは簡単に揺らがない。……周囲を不幸にしてしまう能力を、俺といる時だけは必死に抑えてくれた。優しいお前のことをな」
「それは、どういう、……はぎゅ!?」
彼女が可愛らしい声を上げる。
ジンタが黒いドレスのアンジェを抱きしめていた。
情けない悲鳴を漏らして、恥ずかしそうに頬を赤く染めて。ぱくぱくと口を動かしながら、強張っていた体がどんどん力が抜けていく。……あぁ、やっぱり。わたしは、この温もりを知っている。記憶がなくても。この優しい体温だけは、体が覚えている。
「……アンジェ、帰ってこい。お前がいないと俺は少し寂しい」
首筋に刻まれた、赤い痣が。
塵のように消えていく。
あとに残されたのは。ぐったりと眠っている蜂蜜色の髪の少女と、その彼女を抱きしめているジンタ。
天使の翼を広げているミーシャ。
冷静に状況を観察しているアーサー会長。
そしてー
不気味な笑みを浮かべている、魔女アラクネ。
彼ら、だけであったー