♯ ‐No Films‐「 」(とある映画館で、その二人は出会う)
――◇――◇――◇――◇――◇――◇――
――カラカラ、カラカラ。
――カラカラ、カラカラ。
映画のフィルムが空回りする音が響いている。
数か月前までの、あたしは。
ナタリア・ヴィントレスという女の子は、教室の隅のほうにいる暗い感じの人間だった。
仲の良い友人はおらず、昼食はいつも一人で食べていた。
イジメられるようなことはなかったが、積極的に話しかけてくるクラスメイトもいない。その内、あの子は一人でいるのが好きなんだ、という偽りのイメージがついてしまっていた。自分の孤独な学園生活はずっと続くんじゃないか。そんなことさえ考えるようになっていた。暗い感情ばっかり募っていく。
学校の屋上や、寮のベランダなど。
高いところから見下ろすことが増えていた。どこまでも自分を不安にさせる風景だった。
そんな時だった。
あの事件が起きたのは。
「(……あ、死んだかも)」
昼下がりの喫茶店。爆発事故。崩れ落ちてくる天井。
大きなコンクリートの塊が、真上から落ちてきて。これは、もう助からないと思った。不意に思い出される、これまでの人生。一人ぼっちの教室。友達のいない学園生活。ヒステリックな親から逃げるように学生寮を選んだはずなのに。気がつけば、ずっとひとりぼっちだった。
そして、このまま。
ひとりぼっちで、死んでいくんだ。
そう思った瞬間。
心が、ようやく。
悲鳴を上げた。
……死にたくない。
……誰か。誰か、助けて!
あたしの悲鳴は、喫茶店が崩れ落ちる音にかき消される。
コンクリートの瓦礫が、もう目の前にまで迫っている。そんな時だった。店内にいた知らない男性が、彼女を庇ったのは。落ちてくる瓦礫から守ろうと、必死になって覆いかぶさる。
『絶対に、助けるからな』
そんな声が聞こえたような気がしたけど、怖くて目を開けられず。ぐっ、と強く瞼を閉じていたが。目を開けると、そこは―
「……映画、館?」
あたし以外は誰もいない、静まり返った映画館であった。
もしかして、夢でも見ているのだろうか。そんな戸惑いもあるなかで、唐突にスクリーンに映像が映し出される。そこに映っていたのは、自分ではないナタリア・ヴィントレスの生活であった。
魂が、入れ替わっていた。
あたしではない誰かが、あたしの体に入り込んでいる。
初めは、恐怖だった。
知らない誰かに体を奪われていることが怖かった。自分の体で何をされるのか、怖くて仕方なかった。だけど、次に感じたのは驚きだった。自分の体に入っているのは、あの時に助けてくれた男性であった。異性に体を預ける。とても恥ずかしいはずなのに。それよりも「あたしなんかでごめんなさい」という気持ちのほうが強かった。
何より、『彼』はとても紳士的だった。
あたしの嫌がるようなことを、何もしなかったのだ。普段の生活も、お風呂やトイレの時だって。『彼』はいつも紳士的だった。それに自分がいつも一人でいたことを、とても気にしてくれた。彼女のために何をしてやれるか。それを考えるのが彼の癖だった。
『……そうだな。【友達】を作ろう。この子の意識が元に戻った時に、もう寂しくならないように』
映画館のスクリーンから、『彼』の声がする。
彼は常に、あたしのことを一番に考えてくれた。
学園の生活でも。
東側のスパイとして活動しているときも。
悪魔と戦っている時であっても。
ナタリア・ヴィントレスに元の生活を送ってもらう。そのためだけに、『彼』は戦い続けた。その気持ちを聞くだけで、心の奥から暖かくなる。胸が熱くなる。愛おしいと思うようになっていた。
最後に、ようやく。
あたしは、……自分の気持ちに気がついた。決して触れられない、誰よりも大事にしてくれる、あなたのことを。
ずっと、好きでした。
そして―
「……大丈夫です。世界中の誰もが忘れてしまっても、あたしだけは忘れません。あたしが、あなたを助けてみせます」
一人ぼっちの映画館の座席で。
あたしは膝枕をした『彼』の頭を撫でる。
映画館のスクリーンには何も映していない。悪魔卿、オウガイ・モリ・ブラッド卿による世界からの『忘却』。それにより世界から消滅するはずだった『彼』は。唯一、ひと時も忘れることのなかった人へと引き寄せられていた。心の中で眠っている、誰もいない映画館に。
時間だけが、ゆっくりと過ぎていく。
とても、静かだった。
それでも。
この一瞬、一瞬が。
幸せだった。
ようやく。
ようやく。大好きな人と、こうして触れ合うことができたのだから。
「……あたしが、あなたを助けます。例え、ナタリア・ヴィントレスという存在を、あなたに譲ることになっても」
元々、何の未練もない人生だった。ならば、いっそのこと『彼』に―
二人っきりになった映画館は。
あたしの声と、彼の静かな寝息だけが。
それだけが、世界のすべてでした。
今、この瞬間も。彼のことだけを愛している。
他のことは、どうでもよかった。
それが幸せだった。
――カラカラ、カラカラ。
――カラカラ、カラカラ。
映画館でフィルムの空回りする音が、他人事のように響いている。あたしは自分の殻に閉じこもったまま、外に出ようとは絶対にしなかった。
……だけど。
……それも、予期せぬ訪問者によって静寂は破られる。
「さて、愛に殉じているところすみませんが。そろそろ、あなたも外に出てくる頃合いではないでしょうか?」
突然の他人の声に、あたしは飛び上がるほど驚いた。
この映画館には、誰も入ってこられないはず。そう思って、入り口のほうに視線を向けると―
「もうじき閉館の時間にしましょう。こんな何も映っていないスクリーンを見ているくらいなら、嫌なことだらけの現実と向き合ってきたら如何ですか? えぇ、それでも。美しい絵画を見れるだけで有意義だと思いますがね」
怖いほどの美青年がそこにいた。異国情緒のある浅黒い肌に、目元に刻まれた逆さの星の印。品の良い高級そうな燕尾服。
悪魔卿のエドガー・ブラッド卿が。
……ナタリア・ヴィントレスのことを迎えに来ていた。